都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
大野弁吉(1801~1870)科学者、中村屋弁吉ともいう。
京都五条通り羽細工師※1の子として生まれ、20歳のころ長崎に行き理化学、医学、天文、暦数、鉱山、写真、航海学を修得した後、突然対馬に赴き朝鮮にも渡ったといわれています。帰国後京都に帰り中村屋八右衛門の長女うた(加賀国大野村生まれ)の婿となり、1831(天保2年)石川郡大野村(現金沢市大野町)に来て永住しました。
金石の回船問屋銭屋五兵衛の助言者となったりしましたが、藩主が弁吉の博学をきき20人扶持でめしかかえようとしましたが、それに応じず、生涯清貧のうちに過しました。当時としては最先端の科学を駆使した発明品の数々は、現東芝の創業者で「からくり儀右衛門」とよばれた田中久重※2の技術に匹敵するといわれています。
また、一東、鶴寿軒と号し木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、からくり人形には優れた名作を多く残しました。弁吉自筆の「一東視窮録」は彼の覚え書き綴りで、科学機器エレキテルボルダ式パイルなどの図解、色ガラス、火薬、写真器、大砲、医療薬品などの製法、調合、寸法などが記述されたものです。
石川県金沢港大野からくり記念館より
※1羽細工師:からくり師と解釈できる。
※2田中 久重(たなか ひさしげ)
寛政11年9月18日(1799年10月16日)- 明治14年(1881年)1月11日。
江戸時代から明治にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した発明家である。
筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。久重が創設した田中製造所は後年、東芝となる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(田中 久重)
からくり人形といえば「からくり儀右衛門」だと思っていましたが、同時代にそれに匹敵するような人物がいたことをラジオで知り驚きました。「大野弁吉」はたくさんの弟子を持っていたそうですが、その人たちもひっそりと日本の科学の発展に貢献したのだと思います。金沢は誇りを持って「大野弁吉」を世間に広く伝えるべきではないでしょうか。
・・・なんて、知らなかったのは、私だけ?
したっけ。