団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

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雛祭の由来について考える

2010-03-02 10:01:47 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

同義語:上巳〔じょうし/じょうみ〕・桃の節句・雛の節句・雛遊び・ひな祭り・流し雛

Photo_2 雛まつりのルーツは上巳の節句です。上巳(じょうし/じょうみ)とは3月上旬の巳の日という意味で、のちに日付が変動しないよう33日となりました。その起源は300年頃の古代中国で起こった上巳節にさかのぼります。

昔から季節や物事の節目には災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていたため、川の水に心身の穢れ(けがれ)を流して厄を祓う行事や、杯を水に流して宴を催す曲水の宴などが行われていました。

Photo つまり、季節の節目の邪気祓い行事として、老若男女を問わず皆の幸福を願う行事だったのです。その上巳節を遣唐使が日本に伝えたといわれています。

Photo_5 日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。日本での起源は平安時代の京都で既に平安貴族の子女「雅な遊びごと」として行われていた記録が現存しており、もとは京都のものであったと推測されるのです。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来があるのです。

Photo_3 室町時代、紙で作った人形「ひとがた」で体をなでて穢れを移し、川海に流すことで無病息災を祈った「流し雛」という風習と、雛(ひいな)遊び(人形遊び)とが結びつき、貴族の間で人形を飾り、祀るようになったと考えられています。

江戸時代に入り、二代将軍秀忠娘徳子が後水尾天皇のお妃様として宮廷に入る際京都の御所で盛大な雛祭りが行われたのをきっかけに、幕府や大奥でも雛祭りを行うようになりました。やがて武士階級から町人へと広まり、江戸幕府が33日を祝日に設定したことで大衆も盛んにお祝いするようになったのです。

もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れたのです。

Photo_4 Photo_6 江戸時代初期形代(かたしろ:人間の身代わりとした人形)の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛(寛永雛:かんえいひな)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物でした。

Photo_7 Photo_8 その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛(げんろくびな)」、大型の「享保雛(きょうほうびな)」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止されました。

Photo_9 Photo_10 Photo_11 しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛(けしびな)」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになるのです。江戸時代後期には「有職雛(ゆうそくびな)」とよばれる宮中の雅な装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛(ここんびな)」が現れた。

この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていったのです。

今は居住空間の狭さから、男女一対の内裏雛ケース入りの小さな雛飾りが主流のようです。

参照:2010131日「お雛様を飾るのはいつからいつまで・・・」

http://blog.goo.ne.jp/tudukimituo1028/d/20100131

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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