都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
こけしとは、19世紀の初め江戸時代末期(化政文化期)頃からと思われています。こけしを作っていた工人は、その昔、木地師とか轆轤師(ろくろし)といわれていた人々で、本来、椀や盆、柄杓などの日用雑器を作っていました。
当時の農村には、冬の間を利用して、一年の労働の疲れをいやすために近くの温泉地へ湯治に行くという習慣がありました。そうした湯治場の近くに住む木地師たちは、豊かな木材を利用して、こけしや独楽などの木地玩具を作っては、湯治客相手のみやげ物として売るようになりました。
東北地方の温泉地において湯治客に土産物として売られるようになった轆轤(ろくろ)引きの木製の人形玩具。一般的には、球形の頭部と円柱の胴だけのシンプルな形態をしています。
こけしの祖型については、岩手、秋田、青森県地方に残る民間信仰の「おしらさま(家の神)」や、津軽地方の信仰的木偶の山中三助に起因するという信仰玩具説、山村生活の木地屋が自分たちの幼女につくり与えたのが始まりとする固有玩具説、あるいは幼児のおしゃぶり類などほかの玩具から転化したというおしゃぶり起源説などがあります。
これをつくる木地師※にはそれぞれの系譜があります。1809年(文化6)に成った『新編会津風土記(ふどき)』※によれば、1590年(天正18)蒲生氏郷(がもううじさと)が近江(おうみ)国(滋賀県)から会津(福島県)に封ぜられた際、江州小椋荘(おぐらのしょう)から木地頭(がしら)、木地挽(ひ)きを会津若松に住まわせ、木地を製作せしめたとあります。
※木地師:木地師(きじし)は、轆轤を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人
※ 『新編会津風土記(ふどき)』:会津藩官選による会津藩領に関する地誌
それ以前からすでに居住していた木地師を地(居)木地師、近江や信濃(しなの)(長野県)から移住してきたものを渡り木地師、さらに遅れてきたものを流れ木地師などという。木地師の歴史は古く飛鳥(あすか)時代にまでさかのぼるが、875年(貞観17)文徳(もんとく)天皇の皇子惟喬(これたか)親王が、江州小椋郷筒井の地で住民にろくろ技術を奨励し、わが国木地師の祖と仰がれ、筒井は木地業発祥の地とされています。
全国の山林で働く木地師は、筒井公文所(くもんじょ)から木地材料の樹木伐採許可の免状を受け、山中を流浪して挽物(ひきもの)の食器類製作を業としました。
こけしの名称は、各地によってすこしずつ異なっており、木で作った人形からきた木偶(でく)系(きでこ、でころこ、でくのぼう)、這い這い人形からきた這子(ほうこ)系(きぼこ、こげほうこ)、芥子人形からきた芥子(けし)系(こげす、けしにんぎょう)などがありました。
「こけし」という表記も、戦前には多くの当て字による漢字表記(木牌子・木形子・木芥子・木削子など)があったが、1939年(昭和14年)8月に鳴子温泉開催された全国こけし大会で、仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議した経緯があり、現在ではもっぱら「こけし」という用語がもちいられています。
こけしが生まれるには、主に次の三つの条件が必要だったと言われています。
一つ目は、木地師が山から降りて温泉地に定住し、湯治客の需要に直接触れるようになった事。
二つ目は、赤物が伝えられた事。
三つ目は、湯治習俗が一般農民に或る種の再生儀礼として定着した事。
赤物というのは赤い染料を使った玩具や土産物のこと、赤は疱瘡(天然痘)から守るといってこの赤物を喜んで買い求め、子供のもてあそび物にしました。赤物玩具を作る人のことも、赤物玩具を背負って行商に売り歩く人のことも赤物師と呼んでいたそうです。赤物のもっとも盛んな産地は、小田原から箱根にかけての一帯であり、その手法が江戸の末期、文化文政から天保の頃に東北に伝わりました。
東北の農民達がさかんに伊勢参りや金比羅参りなどに行って、その途上、小田原、箱根の木地玩具(赤物)を見るようになったのがその契機といわれています。湯治の農民達も土産物としてこの赤物の木地玩具を望むようになったのです。いままでお椀やお盆のように白木のまま出していた木地師が、色を付けた製品を出すようになるのは大きな変革であり、それは山の木地師が山から降りて湯治場に定着し、湯治客と直接接するようになって初めて起こったと考えられています。
当時の農民にとって湯治とは、厳しい作業の疲れを癒し、村落共同体の内外を問わず人々とのコミュニケーションを楽しむ重要な年中行事であったのです。事実上、農閑期以外に休日を持たない激務が続く中で、湯治場において得られる赤物こけしは心身回復のイメージと重ねられる縁起物でもあり、それを自らの家族の下へと運ぶ象徴的な形象であったのです。前述の通り、本来の用途は子供用の玩具であったにもかかわらず、現代においては一種の美術品としても見られる下地が存在するのはそのためなのです。現在では江戸時代の末期、これら複数の条件が最も揃うと共に、冷害などのとりわけ過酷な環境の克服を余儀なくされ続けた東北地方において、こうしてこけしが発祥したものと考えられています。
宮城伝統こけしはその優れた技と美が認められ、昭和56年(1981年)には、国の伝統的工芸品として指定を受けています。
「こけし」は、東北各地でさまざまな方言で呼ばれていました。その多彩な呼び名の名付け親は、こけしをかけがえのない遊び相手として慈しんだ子供たちではなかったかと考えられています。
こけしの呼び名 青森県 岩手県 くなくなこげす、きなきなずんぞこ、こけすっこ 秋田県 こげすっこ、こげほこ、きぼこ、こけしぼんぼ 山形県 んぼっこ、ぼんぼ、きにんぎょ、かまさきにんぎょ 宮城県 こげすんぼこ、おぼこ、きぼこ 福島県
また、あえて上記のような歴史的考察を無視し、「こけし」の起源を「子消し」に求めた説も一部に存在する。間引きした子供の身代わりとしてつくったという説である。
しかしそれらは何れも発音が似ている事以外に根拠を示す事が出来ず、広義の都市伝説に過ぎないのです。
したっけ。