都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
奈良人形は、平安時代の末期にはじまる、「春日若宮おん祭※」の田楽法師の花笠や島台を飾った彩色の人形がその始まりと伝えられています。
※春日若宮おん祭の起源は、1136年(永久元年)当時、全国的な洪水飢饉のために万民が苦しんでいるのを憂えた時の関白藤原忠通公が若宮神を春日野の仮御殿にお遷し申し上げて数々の芸能を奉納し、丁重にお祭りしたところ、雨は止み、作物豊穣となり、天下が無事に治まったので、以来毎年行うことになったと伝えられています。
その後も奈良の人形づくりは、春日社などの祭礼や儀式をいろどるかたちで発展し、安土・桃山期には、更に飛躍します。この時代、信長、秀吉、家康ら時の覇者に各地から献上の品が贈られています。
奈良からのそれの筆頭は、美しく彩られた盃台でその盃台上を飾ったのが奈良人形の能人形であったと「多聞院日記※」などに記録されています。
※多聞院日記(たもんいんにっき)は奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。
ちょうどこの時期は、中国渡来の散楽に始まった猿楽能が能楽として確立して、能人形が主体をなす奈良人形固有の形態が定まった時期でもあります。
このころから、奈良人形は、一刀彫ともいわれるようになりました。
江戸初期、奈良春日(かすが)大社の祭具の島台や、田楽法師(でんがくほうし)の笛役の笠(かさ)などにつけた高砂(たかさご)の翁嫗(おきなおうな)、猩々(しょうじょう)の人形になぞらえて、奈良・西御門(にしごもん)町の春日檜物(ひもの)職岡野平右衛門(号松寿(しょうじゅ))が、檜物をつくるかたわら、この人形作りを始めたのがおこりとされています。岡野松寿は奈良人形師として13代続きその名声を高めました。
檜(ひのき)材を湯に浸して油を抜き、稜線(りょうせん)を鋭く表して彫り上げる。飾り物や根付け用として売り出され、のちには能楽に取題したものや、立雛(たちびな)、鹿(しか)などと種類を増やした。幕末から明治期にかけては、木彫家森川杜園(とえん)が、鹿などを題材にして芸術的な作品を発表した。
その題材は、高砂など能狂言もの、蘭陵王などの舞楽もの、鹿や十二支の動物もので、最近は、ひな人形も人気です。
奈良人形の魅力は、大きな鑿(のみ)あとが作り出す簡潔な造形に、綿密な極彩色を施して、不思議な調和を保っているところにありますが、このごろでは杜園の流れを汲む人ばかりでなく、個性的な作家も誕生しています。
現在奈良の観光土産(みやげ)としてつくられているが、5センチ程度を中心に、3センチの小形物もある。春日大社から正月の干支(えと)守りとして授与しており、1967年(昭和42)の未(ひつじ)年には、羊が年賀切手の図案のもなりました。
したっけ。