都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
『しあわせと云う名の猫』
都月満夫 作
私は酒場の聞き女。どんな話も、聞いてやる。洒落た会話はできないが、聞いて、笑って、泣いてやる。
元は、真面目な高校生。元は、真面目な女子事務員。会社勤めの付き合いは、歓迎会に送別会。お花見会に、観楓会。忘年会に、新年会。社員旅行に親睦会。何にもない月、仲間で飲み会。お酒飲むこと多すぎて、いつしかお酒の味を知り、二十歳過ぎたら聞き女。
ある日、男がやってきて、一人で酒を飲んでいた。聞くと、男は運転手。長距離貨物の運転手。積んで降ろして、次の町。日本全国一巡り。やっと戻った、ひと月後、女房が男と逃げていた。人は浮気と言うけれど、尻軽女と言うけれど、俺には可愛い女房さ。アイツのいない暮らしなど、俺にはとても耐えられない。
その夜、二人は深い仲。連れ込み宿の入口で、黒い猫が横切った。私の前を横切った。
四畳半の暗い部屋、私は恋をしちまった。
翌朝起きて気がつくと、男は既に消えていた。煎餅布団の温もりも、何時の間にやら消えていた。笠の壊れた電球が、上から私を笑ってた。
酒場のママに言ったなら、アイツはただのスケコマシ。あんたはまんまと騙された。酒場のママは大笑い。酒場の客まで大笑い。誰も泣いてはくれもせず、腹を抱えて大笑い。
落ちる涙が酒になる。私は悔しさ飲み込んで、馬鹿な自分に腹が立つ。
それから三日後、町を出た。いつか、お客が言っていた、大きな町でやり直し。きっと良いことあるはずと、朝一番の汽車に乗り、こんな町とは、おさらばさ。
桜の蕾がまだ固い、四月の末の朝だった。
あれから何年経ったやら。私は、未だに聞き女。都会の隅で聞き女。
私の住んでるアパートは、昇る朝日は見えないが、沈む夕日が見える部屋。窓から見える風景は、雨に震えて待つ女。花束抱えて待つ男。逃げる男に追う女。男と女の出会いが見える。男と女の別れが見える。
窓の向こうに映るのは、赤いルージュも色褪せた、もう若くない自分の姿。
ある日、窓から見えたのは、車に轢かれた黒い猫。清掃員が始末して、麻の袋で持ち去った。
その夜、男がやって来て、一人で酒を飲んでいた。別に話しをするでなく、黙って酒を飲んでいた。
その後も、男はやって来た。土曜の夜に、やって来た。毎週、一人でやって来た。黙って酒を飲んでいた。
初めて男が来た日から、ひと月半ほど経った夜、男は私に声掛けた。突然、私の名前を言った。植村真弓と名前を言った。聞くと、男は同級生。高校時代の同級生。佐藤広と名を言った。
言った名前に聞き覚え。結構人気があった人。でも、信じられない別人みたい。頭はすっかり禿げ上がり、太ったおなかは太鼓腹。どんな歳月重ねたか、性格までもが別人みたい。それでも、話しをするうちに、思い出すこと懐かしく、彼はやっぱり同級生。
遠い町から、土曜日に、私に会いに来たと言う。最初に店に来た夜は、仕事で近くに泊まってた。その後は、私に会いたくて、毎週土曜に来たと言う。
そして、彼は、こう言った。高校生の三年間、ずっと君が好きだった。ここで遇ったも、何かの縁。戻って来いよと、彼は言う。一緒に暮らしてくれないか。真剣なんだと、彼は言う。
私は酒場の聞き女。どんな暮らしをしてきたか、知っているのと、聞いてみた。どんな暮らしをしてこようと、この歳までは、生きてきた。これから、二人で生きていく。ただそれだけじゃ、いけないか。
男を信じちゃいけないと、女一人で生きてきた。もう、強がっている歳じゃない。
ひと月悩んで決心し、私は汽車に乗りました。桜の開花も、もう間近、五月初めのことでした。
ある夜、男がやって来た。八月下旬の金曜日、雨の夜だった。
「いらっしゃいませ。」
「あ…、どうも。降ってきたよ。本降りになってきたな。」
男は、背広の肩の雨粒を払いながら、一人で、入ってきた。
「お客さん、これ使って…」
女将は、乾いたタオルを差し出した。
「あ…、どうも。」
男はタオルを受け取ると、背広を拭いてから、白髪交じりの頭を丁寧に拭いた。
「あ…、どうも。」
男はタオルを返しながら、カウンターの端に座った。カウンターが十席ほどの小さな店である。
「お客さん、一見(いちげん)さんだね。」
「ああ…、初めてはダメかい。」
「そんな高級な店じゃないよ。ウチはね、小料理なんて、看板に書いてあるけど、洒落たものは無いよ。『婆々の店』って書いてあっただろ。」
「あ…、書いてあったけど…。」
「年寄りが作る、昔風のものしかないってこと…。何にしますか?」
「何でもいいよ、すぐできるもので…。腹が減ってるんだ。」
「もう九時だよ。飲んでないようだけど、今まで仕事だったのかい?」
「ああ…、仕事といえば、仕事だけど…。」
男は力なく答えた。
「お客さん、元気がないね。疲れているようだね。とりあえず、ビールでいいかい?」
「ああ…、元気もなくなるよ。初めての店に来て、こんなこと言うのもなんだけど…。今日で会社、終わりだって…言いやがる。任意整理しますって…。終業時間に、弁護士がいきなり入ってきて…。」
男は肩を落として溜息をついた。女将は、男にかける言葉を探していた。だが、なかなか見つからず、突き出しの茄子の糠漬けをカウンターに置き、黙ってビールを注いだ。
男が、うつむいたまま、話を始めた。
「四十年間働いて、もう定年だって歳になって、全員解雇だって…言いやがる。何が老舗だよ。三代目が家を潰すってのは本当だよ。」
女将は黙って頷くしかなかった。
「残務整理はどうするんだって訊いたら、お前たちでやれ…って、あの社長…。そういうことじゃなく、残務整理をする人に、お願いしなければ…って言ったら、お前が頼め、自分は人に頼むのは嫌いだって。だから言ってやった。馬鹿じゃないの、今、アンタが俺たちをクビにしたんだ。もう社員でも社長でもないんだ。きちんと頼んでくれよ、倒産じゃなく任意整理なんだろう。そうしたら、やりたくなければやるな、自分たちの取り分が減るだけだって…。呆れてものも言えないよ。それで、今まで喧嘩腰の話し合いさ。」
「ひどい話だね…。」
女将は、鯖の味噌煮と肉ジャガをカウンターに置いた。
「ご飯と味噌汁もいるかい?」
「いいよ。後で貰うよ。ああ…、家へ帰って家内に何て言えばいいんだ…。」
男はまた深く溜息をついた。ちょっとした沈黙が流れた。
「おや、雨が急に強くなってきたようだね。実は今夜は、お客さんが口開けなんだよ。この商売は、ニッパチって言って、二月八月はダメなんだよ。おまけに、夕方から雨まで降ってきたからねぇ。」
男は女将の話には答えず、黙って、グラスのビールを飲み干した。
「そうだ、今夜はどうせ、もう客も来ないだろうから、暖簾下ろして、行灯(あんどん)の明かりも消してくるよ。お客さん、気持ちが落ち着くまでゆっくりしていきなよ。」
女将はそう言って、外に出た。大粒の雨が舗装の上で踊っていた。
「ひどい雨だよ。これじゃあ…、客なんか来やしない…。」
女将は独り言のように言い、暖簾を抱え、店に戻った。
「さあ、これでゆっくりできるよ。」
「すまないな。何か…突然変な客が入ってきて、迷惑掛けたようだな。」
「いいんだよ。この店は、年寄りが好き勝手にやってる店なんだ。だから、気にすることなんかないよ。」
「女将さん、まだ年寄りって歳じゃないよ。いいのかい?閉めちゃって…。」
男は相変わらず、うつむいたまま言った。
「あら、お世辞が言える余裕があるじゃないか。構いやしないよ。その代わりと言っちゃ何だけど、婆々の与太話でも聞いとくれよ。」
「ああ…、そのほうがありがたいよ。気が紛れる。聞かせてもらうよ。」
「あらたまって、話すとなると、何だか気恥ずかしいね。」
そう言いながら、女将は話を始めた。
「私が今、どうしてこの店を営業しているのか…っていう話なんだけどね。
私が、あの人に出会ったのは、高校生の時なんだ。でも、そんなのは出会ったとはいえないね。ただ同級生だっただけだから。
本当に出会ったのは、私が札幌のお店で働いていた時。五十歳もとうに過ぎた、二月の半ばだったかねぇ。
あの人が、一人でふらっと、店に入って来て、話もせずに帰っていった。変な客だったから、なんとなく憶えてた。そしたら、次の週の土曜日に、また一人でやって来た。その日も、黙って飲んで帰っていった。その後、毎週土曜日にやって来るようになった。
最初に来た日から、ひと月半ほど経った夜だった。あの人が、急に私の本名を言ったんだよ。勿論、自分の名前も名乗って…。同級生だったんだよ。偶然ってあるんだね。驚いたね。おまけに、一緒に暮らしてくれって言われて、また驚いた。当然、私は断ったよ。
私は二十歳過ぎから、水商売の中で生きてきた女。あの人は堅気の世界しか知らない、真面目な人。一緒に暮らせる訳がない…。そしたら、あの人『水商売のほうが、堅気の商売よりずっと大変だと思うよ。哀しい時も辛い時も、自分の本心を隠して、笑ってお客の相手をしなくちゃいけない。おまけに、男に頼らず生きてきたんだろう。俺にはとってもできない。そんな女性が、これから、俺の相手だけをしてくれたら、俺はどんなに幸せだろう。俺は、高校生の三年間ずっと君のことが好きだった。』なんて、泣かせる台詞で口説かれちゃって、ひと月ほど考えたよ。
そして、あの人を信じてみよう。あの人に掛けてみようって思ったんだよ。
私は朝一番の汽車に乗った。日曜の朝一番の汽車で、この町に帰って来たってわけさ。
あの人との暮らしが始まった。私らの世界じゃ、一緒に暮らすってことは、言葉通りだから、私も当然、そう思ってた。そしたら、あの人の一緒に暮らすは、結婚することだったんだよ。私はサラリーマンの妻、厚生年金の第三号被保険者になった。二号になることはあっても、まさか三号になるとは思わなかったね。驚いたよ、夢みたいだったね。
郊外の家の前には、綺麗に整理された庭がある。その向こうには、湧き水の小川が流れている。川が気に入ってこの土地を買い、母親と二人で暮らしていたそうなんだけど、その母親も亡くなって十年も経つという。
年寄りと暮らしていた家だから、私の好きなように改築しようかって言ってくれた。私は勿体ないから、このままでいいよ…って、そのまま暮らしてる。
あの人は、高校を出てから、ずっと木材工場に勤めていた。若い頃は山の伐採現場で、飯場暮らしだったらしい。だから、木が好きで、庭に草花は植えてないんだよ。オンコ、石楠花、ツツジ、そんな木花が植えてある。玄関の脇には、高山植物が植えてある。
二人で暮らし始めて、数週間が経った頃だった。私が庭の草むしりをしていると、太った白い猫がやって来た。自分の家のように悠然とやって来た。ベランダの日当たりのいい場所に、ゴロリと横になり居眠りを始めた。
あの人に聞くと、そんな猫、以前は来たことがないという。でも、その猫はそれから毎日やって来た。まるでそこが、指定席のように、同じ場所にゴロリと横になり、居眠りをするようになった。それが、とても幸せそうな寝顔でね。私はその猫に勝手に名前を付けた。私たちの幸せを願って、サチと名前を付けた。幸せと云う名の猫だよ。
あの人が仕事に行っている間、私は、洗濯をして、掃除をして、買い物に行って、あの人の好きな料理を作って待っていた。
庭木に花が咲くと、あの人は嬉しそうに、木の名前を言い、私に教えてくれる。高山植物の名前は難しくて…、覚えられない。
冬になると、楓の木に取り付けた餌台に、野鳥がやってくる。シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ゴジュウカラ。あの人は、野鳥が来るたびに、私に名前を教えてくれた。私にはどれも同じに見えた。だけど、ゴジュウカラだけは覚えた。五十から…って、私らみたいだねって、大笑いしたから…。
相変わらず、サチは毎日やって来ては、いつもの場所で昼寝をしていた。私たちの様子にはまったく無関心のようだった。私も、サチがそこに居るのが当然のこととして、気にもしなくなっていた。
そんな穏やかな暮らしが、二年半ほど経ったとき、あの人が突然、死んでしまった。肝臓癌だった。見つかった時は、もう末期だった。呆気ない最期だったよ。
幸せなんて、気まぐれにやってきて、気まぐれに何処かへいっちまう。気がついたら、あの猫さえ、いつの間にか来なくなってしまった。本当にあの猫はいたんだろうか…。
それで、私は何とか、幸せだった二年半の思い出を、忘れずに生きていたいと考えて、この店を始めたのさ。あの人の好きだった料理だけを毎日作って、お客さんに食べてもらうために…。私が歳をとっても、ずっとそうしていたいから、『婆々の店』ってわけさ。
毎日あの人の好きなものを作っている。そうしていたら、最近あの猫が何処かに居るような気がしてきた。不思議だねぇ…。
辛いことや、苦しかったことは忘れたいから、心の奥に仕舞い込んでしまう。だけど、幸せだった日々は、いつまでも心に灯を点し続ける。私はあの人に出会ったことで、幸せな女で一生を終われるよ。」
女将は、涙を浮かべながら微笑んでいた。
「いい話だね…。ご飯と味噌汁を貰おうか。俺には、家に帰ると家内が居る…。アイツとこれからのこと、話し合うことにするよ。女将の話で元気が出たよ。ありがとう。」
男はそう言って、初めて女将の顔を、しっかりと見つめた。
「あれっ、植村…、真弓君だよね?俺、佐藤浩。憶えてない?二条高校、三年H組。」
女将は、そう言われて男の顔を見直した。「思い出してくれた?同級生で、もう一人、佐藤広って、同じ名前で、おとなしくて、目立たないヤツもいたけど、憶えてる?」
「あっ…、佐藤君?えっ、ええ…。」
さっきまでの激しい雨は、もう上がっていた。何処から来たのか、猫が一匹、店を覗き込むようにして立ち止まった。