都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
江戸時代以降用いられているが、語源には諸説あり、定説をみない。江戸時代の宿場に備えてあって公用の馬、「御伝馬(長距離を走る元気のいい馬)」かれ転じたとする説と、オランダ語のオテンバアル(ontembaar:物事に慣れないの意)から転じて天真爛漫な女を言うようになったとする説がある。
また、女性がでしゃばって早足に歩くことを「てばてば」と言い、接頭語の「お」がついて「おてば」と言ったことから「おてんば」に転じたとする説もあります。
1 逓送用の馬。律令制では、駅馬とは別に各郡に5頭ずつ常置して公用にあてた。戦国時代、諸大名は主要道路の宿駅に常備して公用にあて、江戸時代には、幕府が主要街道に設け、また、一般人が利用できるものもあった。
辞書:大辞泉
【御伝馬】は餌も十分与えられ、普通の駄賃馬より元気に走り回る。
しかし、同様の意味を表し得る「てんば(転婆は当て字)」が既に近世前期にあるので、「てんば」を先行する語とみる方が自然であろう。ただし、「てんば」は「おてんば」より広い意味を持ち、「しくじること」「親不孝で従順でないこと」などの意で、男女を問わず用いられ、現在でも西日本の各地にそれらが残っている。したがって、「てんば」に接頭語「お」を加えることによって「おてんば」になったと、単純にとらえることもできない。この点については、上方で用いられていた「てんば」が江戸語として使用されるに際し、オランダ語ontembaarが何らかの形で作用し、新語形「おてんば」を生じると同時に、意味の特定がなされたとの説もある。
「おてんば」が18世紀中頃から使われだしているのに対し、「てんば」は18世紀初頭には使われているためオランダ語説は成り立たず、「てんば」という語に、接頭語の「お」がついたと考えるのが妥当とされています。
したっけ。
昔は、疱瘡(ほうそう)にかかると、「あばた」が残って一生醜い顔のままになることが多かったのです。この「あばた」という言葉は、「頞浮陀(あぶだ)」のことといわれ、サンスクリット語(梵語)のアルブダ(痘痕の意)が訛ったものだそうです。最初は僧侶たちの間で使われていた言葉だが、江戸中期には一般でも用いられるようになりました。「好きになればアバタもえくぼ」の上の部分が省略された言葉なのです。
あばた【痘痕】
《(梵)arbudaの音写。皮膚の水疱(すいほう)の意》痘瘡(とうそう)が治ったあとの皮膚に残る小さなくぼみ。じゃんこ。
痘痕(あばた)も靨(えくぼ)
恋する者の目には、相手のあばたでもえくぼのように見える。ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるということのたとえ。
辞書:大辞泉
えくぼ(えくぼ)【靨】
顔面に生じる皮膚のくぼみをいう。一般的には笑ったり、口角を後方に引き上げたりしたとき頬(ほお)にできるくぼみをいうが、頤(おとがい=下あご)や額(ひたい)にできる人もいる。頬の場合、口角の外側にある口角下制筋や笑(しょう)筋などが収縮してできる。笑筋は、えくぼ筋ともいう。笑筋は骨に付着しないで下層の筋膜におこり、皮膚の下に筋束をつくって走るが、皮膚に付着しているので皮筋(皮下筋)とよぶ。顔面の表情筋はすべて皮筋であり、顔のくぼみやしわをつくるが、とくに皮下に脂肪が多い柔らかい組織の部分に大きく作用する。えくぼが女性や子供によくできるのは、このためである。頸部(けいぶ)で下顎(かがく)から鎖骨あたりまで広がっている広頸筋は、頸部の筋膜と皮膚とに付着している皮筋で、口角を後方へ引いたり、下へ押し下げたりする働きをするが、同時に頸部に多数のしわをつくる。
えくぼですが、外国人の場合大人になるとほとんどの人が出来なくなるようです。ですから、日本人のようにチャームポイントにはなっていないそうです。
ところで、日本人の何パーセントの人にえくぼが出るか知っていますか?
答えはゼロです。えくぼは出るものではなく、引っ込むものです。
したっけ。
乳房(にゅうぼう、ちぶさ)とは哺乳類の雌が持つ授乳器官。単に乳(ちち)あるいはお乳と も言い、俗に「おっぱい」とも呼ばれる。
性的アピールとしての乳房の役割について、動物学者、デゾモンド・モリス(Desmond Morris、1928年1月24日― )の『裸のサル』によると、ヒトの祖先が四足歩行していた時代は尻が赤く大きければ性的なアピールが出来た。やがて二足歩行をする様になるに従い、目線が上がり尻での性的アピールは目立たなくなった。そのため胸部を大きくし谷間が尻の代替品として機能し始めた。それが時を経て、いつの間にかバストそのものが性的器官の一つとして認識されるようになった、という説がある。
この他にも乳房の発達とその性的意味に関しては多くの議論があり、定説はない。性的な意味を否定する説すらある。
今でも、モンローウォークに代表されるように、臀部は非常にウエイトの高いセックスアピールの器官として認知されています。
また、ヒトの乳房は、神経終末が集中している乳首をはじめ刺激を受けると性的興奮を得やすい。医学博士の志賀貢によると、クリトリスの性感を100とすると、乳首の感度は80前後という事である。
現在の西欧や日本に関して言えば、乳房の存在は明らかな性的アピールであり、女性の肉体の性的魅力の大きな要素をなしている。女性特有の器官である乳房の大小は、近年社会的にも影響が大きく、1970年代以降より女性の身体的魅力の一要因とされており、現代においては関心も高い。また、大小にかかわらず、均整の取れた美しい乳房を美乳と呼ぶ事がある。
また、性行為においては、乳房への愛撫は大きな位置を占める。歴史をたどっても、女性の乳房に性的意味を付したと思われる例は枚挙にいとまがない。そのような点から、乳房は性的意味合いを持って進化したのだと考えるのはある程度は当然であろう。
では、なぜヒトにだけこのような進化が起きたかであるが、上記のようにモリスはこれをヒトが直立姿勢を取り、四つ足の姿勢を取らなくなったことに依るとした。多くのサル類では発情期に雌の尻が色づき、これを雄に示す行動が知られる。立位ではこれが出来ないため、似たような構造が胸に発達したという説である。
また、性的愛撫の対象になったことに関しても、正面から向き合う交尾姿勢を取るようになったことから、直接に触れる位置にある乳房がその役割を担うようになったとする説もある。常時発達した状態にあることも、発情期に関係なく性的交渉を持つようになったことと関係づけて理解できるとする。
他方、このような説に対する反論も根強い。特に問題なのは、サル類においては、乳房が発達するのは妊娠期か育児期間であるという点である。つまり、ヒトの先祖において、まだ現在のような乳房でなかった時点ではサルと同じであった可能性が高い。とすれば、乳房が発達した雌は、子供を持っている、言い換えれば新たな子供を作れない状態にあり、そのような雌は求愛の対象にならないはずである。求愛の対象外であるサインとなり得る「発達した乳房」が性的魅力を持ち得るはずがないというのである。
未開発の地で暮らしているヒトたちの中には、裸同然で生活しているものもいる。布をまとっていても、乳房をあらわにしているヒトたちもいる。それらのヒトたちは乳房に性的関心を持っているとは思えない。
さらに、乳房の性的意味合いすら否定する説もある。現在社会では明らかに乳房を魅力としているが、過去の他の社会では必ずしもそれを認めない例があるというのがその理由のひとつである。
たとえば「江戸時代の日本においても田舎で暑いときは普通に女性が上半 身裸であり」が乳房に性的意味を感じたためか、単にある肉体的特徴としか見なさない、当たり前の存在と見なしたからなのか、判断できません。しかし、和服が乳房の形を隠す方向に進んだことは間違いない。その反面「柳腰」という言葉があるように臀部には性的魅力を持っていたことは間違いない。ヒトの場合、生育歴や文化の影響が大きく深いため、種としての本来のあり方、といった議論が難しい面もある。
なぜヒトは発情期を失ったのか。ヒトやサルの性についての著書を多数持つ京都大学名誉教授・大島 清氏によれば、その理由はこうだ。
「ヒトの脳の前頭葉が異常に発達したからでしょう。前頭葉はヒトの精神活動をつかさどっていますが、それが肥大し、本能にも影響するようになった。それに、普通の動物であれば、のべつまくなし交尾可能なら、排卵期に交尾したくなくなる可能性が高まって生殖効率が下がる。
ところが、ヒトは妊娠期間が長く、一度にそれほど多くの子は産めないし、脳が大きいと胎内発育に時間がかかるため、危険も大きい。子育ても非常に長く大変で、もし育児途中で命を失わせでもしたら、子が欲しくとも次の発情期まで待たねばならない。いっそ発情期をなくして、交尾・妊娠する可能性を増やそうという選択をヒトという種はとったのかもしれません」
つまり、知性の発達とともにヒトはいつでも発情できる動物になったというわけだ。発情期だからと単純に交尾していては、人類としての理性に関わる。
ともあれ、こうしてヒトは発情期を失ったという説が有力のようである。
動物は本能で子孫を残す為に発情し、子孫を残す目的で交尾をします。
人間は本能で交尾をする時もありますがそうでない時もあります。本能のみで行動している訳ではないのです。本能で交尾をしようとすると犯罪になる恐れさえあります。
つまり行動や理性に抑制をかける事が出来る動物なので発情させる事によって、無理矢理子孫を残したりせずに自分達の考えで、しかも動物と違って絶滅の危険をある程度回避出来る状態で子孫を残す事が出来るようになった為、発情がコントロール出来るようになったのです。
私たち人間は、自分の性器が他者、とりわけ異性の他者に見られることに強い羞恥心を感じる。植物は、自分の性器である花を、それこそ「華々しく」誇示し、動物も、自分の性器の露出を恥ずかしいとも何とも思っていない。なぜ人間だけが恥ずかしそうに自分の性器を隠さなければならないのか。
私たちが、性器を隠蔽(いんぺい)しなければならないのは、セックスをタブー化するためなのかもしれない。しかし、この推測は、なぜセックスをタブーにしなければならないのかという新たな問いを生じさせる。セックスをタブー視している動物は人間だけである。
動物の中には、隠れてセックスをするものもいるが、それは交尾中に捕食動物に狙われないようにするためとか、メスを独占しているアルファオスの目を盗むためといった動機に基づくのであって、恥ずかしいから人目を避けて性交するという動物は人間だけである。
文化によっては、人前でのセックスが宗教的儀式として行われるところもあるが、そうした例外は、かえって衆人環視の元にセックスすることの非日常性を証拠立てている。
1914年(大正年)のアメリカでのこと。彼女はふと思い立って、2枚のハンカチとリボンを使い、胸を覆う下着をつくった。これがあればコルセットはいらないと友人たちにも好評で、「私にもつくって」との依頼が相次いだ。気をよくした彼女は、この下着を「バックレス・ブラジャー」と命名し、特許を取得した。
彼女の名は、マリー・F・ジャイコフ。元手は2枚のハンカチとリボンを合わせて5ドル。製品の権利を売ったときの値段は1万5千ドルだったそうです。
日本にブラジャーが広まったのは洋服が一般的となった戦後のこと。
余談ですが、若い、つまり未熟なメスを好む哺乳類はヒトだけだそうです。
したっけ。
「ハイキング」って王様の名前かも?とおおやまはって調べてみたら、全くの見当違い。空振り三振で試合終了でしたが、せっかく調べたので掲載します。
ハイキングは王様ではありません。英語のハイク【hike】:てくてく歩く、仲良く歩く ことを語源としている言葉です。
ハイキング【hiking】:自然を楽しみながら野山などを歩くこと。家族や仲間で楽しく行う徒歩の旅。ハイク。
ハイカー【hiker】:徒歩旅行者。ハイキングをする人。
各国の文化を背景にして異なり、ドイツではワンデルン【wandern】(ワーダーフォーゲルの語源)、オーストラリアではブッシュウォーキング【bushwalking】、ニュージーランドではトランピング【tramping】という呼び名が好んで用いられています。
何処かの王様で何かいわれがあるのかと思ったら残念!ただの英語でした。
ちなみにウォーキング【walking】も歩くことですが、少し意味合いが違います。健康維持・体力増強のための歩行運動。または競歩を意味します。
ストッキングって何処の王様?なんてネタはもうやりませんから・・・。
今回はオヤジギャグってことで御勘弁を・・・。
したっけ。
「年取りの冷や水」とは、老人が年甲斐もないことをすることをいいます。
この言葉を聞いて、皆さんはどのような場面を想像するでしょうか。お年寄りが真夏に冷たい水で行水でもしている場面を想像された方もいるのではないでしょうか。でも、それは間違いです。
さて、この「冷や水」は文字通り冷たい水のことですが、そんじょそこらの水とは違います。
隅田川の真ん中から、すくってきた水なのです。江戸時代の「水売り」が売っていた水のことです。
真夏になると「隅田川の水は真ん中がきれいだ」といって、桶の水の周りに杉の葉を立て、小さな氷片を浮かばせ「冷や水やぁ、冷や水やぁ」と掛け声とともに売り歩いたのです。
どんぶり1杯、1文で、今のお金にすると20円ぐらいです。
ところでこの「冷や水」何しろ隅田川の水です から、とても清潔とはいえず、若者はともかく、からだの抵抗力の弱った年寄りは、お腹をこわすことが多かったのです。
“冷や水を呑んで息子に叱られる”と川柳に詠まれたように、年寄りが冷たい水を飲むなど、年甲斐もないこととされ、「年取りの冷や水」という比喩が生まれたのです。
現在では考えられもしない、この日常用の飲料水売りが、何故行われていたかというと、江戸の町は、井戸を掘るにしても、塩水が出てきて、非常に深い井 戸を掘らなければなりませんでした。
飲める水といえば、溜池(ためいけ)や池袋、沼袋といった、地下に溜まった宙水(ちゅうす い)や伏流水(ふくりゅうすい)の池が、ところどころに点在しているだけだったのです。
そこで「はばかりながら、水道の水で産湯をつかった江戸っ子でぇ」という啖呵(たんか)があるように、江戸には水道水が引かれるようになったのです。
最初の上水道は小石川(こいしかわ)上水、または神田(かんだ)上水といわれるものです。
しかし、もともと水源の水量が少ない上に、地下水道の途中にできた大名屋敷が、その水を庭園などに使うために、すぐに不足してしまいます。
そこで、なかなか江戸の隅々まで潤うことがなかったために、水屋という商売がはじまったというわけです。女性や子供にはきな粉や砂糖をかけて甘くして売るものもいたといわれています。
また、水撒きという商売もあり、たいていは町内で、ここからここまでと指定して頼んだようです。
玉川上水や神田上水が引かれて、町に水道ができると、「水銀(みずぎん)」と呼ばれる水道料金もありました。1ヶ月の水銀は16文から20文程度、とものの本には書いてあり、意外と安いものであったよう弟子。しかし、これは水道が使える人が払う水銀で、水売りが運んでくる水を買う人たちは、どんぶり1杯1文ですから、高い水銀を払っていたことになります。
ただ、江戸の人口増加にともなって上水道は増設されていきます。
また、江戸の三上水というのは、神田上水、玉川上水、仙川(せんがわ)上水です。
時代が進み、飲料水用の水も十分に確保されてくると、次第にこの水屋も廃れていきました。
ただし、この 「年取りの冷や水」という比喩は今も尚使われているわけですが、最近の老人の元気な姿を見ると、この言葉も影が薄いようです。
したっけ。
ターミネーターとドラえもん?
はぁ・・、共通点は未来型ロボットだけど、作られた主旨が全然違うんじゃあねえの!
もしも、ターミネーターがオレんとこへ現れたってことは、オレは将来を変えるような人物で戦闘に巻き込まれるってことだよな。何ぼ100%守ってくれるっていっても、危険な目にあうことは避けられねえって事だよな。やだよ、そんなのは・・・。オレは平和主義者でね。争いごとは嫌いなんだ。
そのてん、ドラえもんはいいよ。のんびりしててよ。たケコプターで、その辺をフラフラ飛んでるほうが気楽でいいじゃないか。
オレの昔のニックネームを聞いて驚くな。昔は太っていて手を握るとまん丸だったんだよ、そこでついた名前が、「ドラえもんの手」てんだ。どうでえ、驚いたか。
仲間にするっていうより、もう仲間なんだ。
したっけ。
国家としての日本、または日本の文化・民族は、長い年月を経て段階的に形成されてきており、建国時期を示す明確な記録はりません。日本列島には約10万年前ないし約3万年前から、しだいに人が住み始めました。約1万2千年前の前後、氷河期が終わると同時にアジア大陸と分離し、東アジア文化圏の影響下にありつつも独自の文化・社会・政治体制を築いていったのです。国家としての「日本」が成立したのは7世紀後半から8世紀初頭にかけての「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成した時期なのです。
日本をさす言葉に、古くは「大八洲(おおやしま)」「秋津島(あきつしま)」「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」「葦原中国(あしはらなかつくに)」「大和(やまと)」などがあり、中国では日本を「倭(わ)」と呼んでいた。
倭(わ、やまと)は、紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称である。倭の住人を倭人と呼ぶこともあった。倭および倭人の指し示す範囲は時代によって変遷した。
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形で、室町時代の公卿・摂政関白で古典学者である一条兼良(いちじょうかねら)が「倭人の人心が従順だったからだ」と『日本書紀』の注釈本『日本書紀纂疏(にほんしょきさんそ)』で唱えた。
それが「日本」と定められたのは、大宝元年(701年)に藤原不比等(ふじわらのふひと)らにより定められた「大宝律令(たいほうりつりょう)」によってである。
「大宝律令(たいほうりつりょう)」は、日本最古の完成された成文法で《それ以前にも、近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)などの試作品はありました》、日本という国は、生まれたときから「日本」であったといってよいでしょう。
大宝律令の頃は「日本」と書いて「やまと」とか「ひのもと」と呼んでいましたが、奈良時代になると漢字の知識も広がり。訓ではなく音読みするようになりました。「にほむ」と発音していたようです。
そして時代が下がって、室町時代になると、東国の発音で読まれるようになり、「にほん」あるいは「にっぽん」となったのです。
現在では「にほん」でも「にっぽん」でもどちらの読み方でもかまいませんが、昭和9年(1934年)の文部省臨時国語調査会では「にっぽん」に統一され、一時期この呼び方が強制されたことがあります。
このとき、東京の「日本橋」と『日本書紀』だけは例外とし「にほん」と読みました。考えるとおかしな話しです。これは、政府で採択されず、正式な決定がないまま現在に至っています。正式な国名がないという、あやふや文化の国「日本」の象徴といえるでしょう。
英語のジャパン【Japan】という呼び名はマルコ・ポーロの『東方見聞録』に載っていたジパング【Zipangu(イタリア)】に紹介された、“中国の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。人々は偶像崇拝者で外見がよく、礼儀正しいが、人肉を食べる習慣がある黄金の島”からきています。マルコ・ポーロはCipangu(あるいはChipangu)として最初に紹介したと言われ、中国語の音写といわれる。
ヴェネツィアの商人ニコロとマテオのポーロ兄弟が、ニコロの子マルコを連れてフビライ・ハンのもとへ遠大な旅行に出たのは西暦1271年のことでした。この三人がヴェネツィアに戻ったのは1292年に泉州を発ってから三年後、実に四半世紀にわたる大旅行だったとされている。
『東方見聞録』とは複数のヴェネツィア商人の記録を「マルコ・ポーロ」という商人に仮託してまとめた物ではないか、とも考えられている。即ち「マルコ・ポーロ」は日本にきたことがないというわけです。また、マルコ・ポーロの実在に疑問を投げかけている史学者もいるそうです。
そうなると、本当は誰が見たのか?幻の国ジパングということになります。
国宝 中尊寺金色堂は天治元年(1124年)、藤原清衝(ふじわらのきよひら)により建立され、奥州藤原氏が造立した現存唯一の建造物です。堂内外を全て金箔で包み、金銀・螺鈿・蒔絵で荘厳された堂内部の三つの仏壇の中には、三代の遺体と、四代泰衡の首級を安置しています。正に平泉文化の象徴です。
中国人が中尊寺金色堂を見て、そのすばらしさに大変驚き中国に帰って誰かに伝えた。その人は、マルコ・ポーロに伝え、マルコ・ポーロが旅行記に残した。
約200年後にイタリアの青年コロンブスがそれを読み、金が無限にある黄金の国ジパング(日本)を目指し西方に向かったのです。
コロンブスは、残念ながら日本まで来ることができなかった。それは米国大陸という大きな「邪魔もの」があったからです。コロンブスはインドに着いたと思い、先住民を「インデアン」と呼んだのです。
したっけ。
古代より赤い色には邪気を祓う力があるとされ、例えば墓室の壁画など呪術的なものに赤い色が多く使われています。
神道は稲作信仰を基盤として持ち(田の神など)米はとても価値の高い食 糧と考えられてきました。このため、古代には「赤米」を蒸したものを神に供える風習があったようなのです(現在でもこの風習は各地の神社に残っている)。その際に、お供えのお下がりとして人間も赤米を食べていたと想像されます。
「赤飯」は文字通り赤い色をしたご飯のことで、「セキハン」、「アカマンマ」あるいは訛って「オコマンマ」とか呼ばれています。
現在は、もち米と小豆とその煮汁を混ぜて蒸し、赤い色をだしますが、その昔は「赤米」と呼ばれる赤い米を使って作ったので、色が赤かったのです。
この「赤米」というのは、わが国が稲作を始めたころに栽培していた、非常に原始的な米の品種で東南アジア原産です。
米の源流をたどると、インディカ種とジャポニカ種にたどりつく。インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白である。縄文末期に日本に初めて渡ってきた米はこの2種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だったようです。
今ではわずかに、琉球列島や九州・四国の南部地方に残っているだけです。
このように、極めて古い品種のために、遠い先祖を祀(まつ)って祝う日などには、この「赤米」を炊いて先祖の霊に供えるという習わしがあったのです。
ところが、次第に「赤米」を栽培しなくなり、「赤米」の変わりに 「小豆」で色をつけて赤いご飯を作り、それを供えるようになったのです。「赤飯」にゴマを乗せるのは白いご飯を赤くしたことを神様にゴマかすためだそうです。
今では、先祖の供養だけではなく、めでたい特別の日には赤飯を炊いてお祝いするようになりました。
ちなみに、江戸時代には、お祝いの「赤飯」に対して、葬礼の時には「白い強飯(こわめし)」を用いました。
ところで、東南アジアでは、今でも「赤米」が栽培されていて、太平洋戦争当時、日本軍の兵士たちは、その米を炊いて、日本の「赤飯」を偲んだということです。
おまけの小ネタ
北海道では「小豆(あずき)」のことを「小豆(しょうず)」と呼び ます。赤飯に入れるのは「小豆(しょうず)」ではなく「甘納豆」です。(十勝だけかも・・・)
したっけ。
こ-しんとう【古神道】儒教・仏教など外来思想の流入以前に存在したとされる古代の神道。→復古神道
辞書:大辞泉より
現在の神道の源流である古神道は、原始宗教とも呼ばれ、森羅万象(しんらばんしょう:宇宙に存在する一切のもの)に神や命や魂が宿るという自然崇拝・精霊崇拝(アニミズム)を内包し、現在の神社神道にもその名残は多くあり、古神道としての民間信仰と共に息づいている。
神道においての世界観は、現世(うつしよ)と常世(とこよ)からなり、常世は神の国や神域であるが、常夜と常世という表記に別れ、それぞれ「二つの様相」を持ち、常世は理想郷や天国とされ、富や知恵や不老長寿を齎(もたら)す夜のない世界であり、常夜は黄泉(よみ:地下の泉。あの世。)の国や地獄とされ、禍や厄災を齎(もたら)す夜だけの世界とされた。
このような世界観は近年まであり、逢魔時(おうまがとき:大禍時(おおまがとき)は、夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻を意味する)や丑三つ時(うしみつどき)には常夜との端境で「怪異のもの」に出合う時という意味も含まれ日常にとけ込んでいた。
同じように神も「二つの様相」を持ち、荒ぶる神(あらぶるかみ)と和ぎる神(なぎるかみ)という禍福をそれぞれもたらす時があり、荒御霊(あらみたま)と和御霊(にぎみたま)ともそれぞれ表現される。これら、常世から来た神や、荒ぶる神やその仮の姿や、またはその依り代(よりしろ:神霊が寄りつくもの)が、いわゆる妖怪とも表現された。
その中で、神社神道の体系に組み込まれなかった各地に残る天狗神社・河童神社・白蛇神社や・宝船(七福神)などは、古神道(日本の民間信仰)の神々が起源であるともいえる。
また、食べ物や道具に対する感謝から、鯨塚(くじらづか:海浜において岸に打ち上げられた鯨を祀った塚。これは鯨を食べて空腹を満たしたことへの感謝である。)や道具塚・包丁塚や、無念をもって亡くなった者に対する慰霊として、蒙古塚(西暦1274年文永の役で攻めて来 た蒙古軍の船が座礁し際に、兵士百余名が捕虜となり、半数は京へ残りの兵士は太宰府水城の地で処刑となり、その兵士達の供養のために建てられた。)や刀塚などがあり、それらも「そこに宿る魂が、荒ぶる神にならぬように」と塚(つか:土を小高く盛って築いた墓)を建立し祀っているが、現在の神社神道とは切り離されたものであり、その根底にある行為や思いは妖怪に対するものと同じである。
九十九神(つくもがみ)とは、長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り、人が大事に思ったり慈しみを持ったりして接すれば幸(さち)をもたらし、そうでなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる神である。
ほとんどが、現在に伝わる妖怪とも重複し、荒ぶれば九尾の狐であり、和ぎればお狐様となると解釈される。
『不動利益縁起絵巻(ふどうりやくえんぎえまき)』にも安倍晴明(あべのせいめい:921年~1005年平安中期の陰陽家)とその使役される式神が5体描かれていて、鶏や角盥や五徳を擬人化したものである。
佐脇嵩之『百怪図巻』の「猫また」
動物では九尾の狐・猫又・犬神などがある。
したっけ。