都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
神社に鳥居はつきものです。神社の地図記号も鳥居をかたどった記号になっています。鳥居とは何なのでしょうか。あの形はなにを意味しているいのでしょう。「天岩屋戸(あまのいわやど)」の伝説を思い出してください。
「天の岩屋戸(岩戸開き)の伝説」
天照大神(アマテラスオオミカミ)は、弟の須佐之男命(スサノノミコト)があまりに目に余るいたずらをしたので、怒って「天の岩屋」に隠れてしまった。そのため、世の中は闇に閉ざされてしまい悪霊や災いが溢れていきました。
困った神々が集まって相談した結果、知恵の神、思兼(金)神(オモイカネノカミ)から妙案がだされた。天の岩屋戸の前で、神々が大きな榊(サカキ)に玉飾りや木綿や麻の布切れをつけて捧げ持ち、常世の長鳴鳥(トコヨノナガナキドリ)、すなわち鶏(にわとり)を集めて鳴かせ、楽器を奏し、御幣を振って祝詞(ノリト)をあげ、これに合わせて天宇受売命(アメノウズメ ノミコト)が胸も股も露に、足を踏み鳴らして踊った。
その様に、八百万(ヤオロズ)の神々は声を上げて笑い、はやしたてた。「宇受(うずめ)」とは「かんざし」の意で、 髪飾りをして神祭りをする女神のことです。
あまりの賑やかさに、天照大神が「何事か」と岩屋戸を細く開けて隙間から覗いたとき、大鏡(八咫鏡ヤタノカガミ)を向けて「あなた様より、もっと尊い方が見えたので」と答えると、鏡に映った自分の姿をその神と勘違いして、もっとよく見ようと岩屋戸の隙間を広げた。
このとき、岩陰に隠れていた 天手力男神(アメノタジカラノカミ)が戸を力任せに開け放って、天照大神を迎え出し、岩屋戸に注連縄(シメナワ) を張って戻れないようにした。太陽が戻って、再び闇に閉ざされることは無くなった。
「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が岩戸から出られて、闇に包まれた高天原(たかまが はら)に再び日の光が差したとき、高天原中の鶏が、一斉に「コケコッコー」と鳴きました。昔から鶏は夜明けを告げる鳥だったのです。
まさに、その時を表現した絵画等が多数あります。
須佐之男命は高天原(タカマガハラ)から追放されました。この故事から、天宇受売命は「芸能の祖神」とされたのです。
鳥居のあの形は。鳥の止まる止まり木を表したものです。つまり、鳥居の原形は、神道に縁の深い「常世の長鳴鳥(にわとり)」の止まっている止まり木の形なのです。神社にいる鶏は野鶏と区別されます。品種的には尾長鶏のようです。
そこで、神前に鶏の止まり木である「鳥居」を置いたことが起源であるとする説があります。8世紀ごろに現在の形が確立したといわれています。
悪霊や災いの満ち溢れる夜の闇の終わりを告げ、明るい朝の光を呼び起こす鶏は、神様の先導役として、神社の入口にある鳥居にぴったりの鳥だったのです。
語源については不明である。鶏の「止まり木」を意味する「鶏居」を語源とする説、「通り入る(とおりいる)」が転じたとする説があります。
鶏は夜明けを告げます。 鳥居をくぐることによって新たな日がはじまるのです。ですから、元旦に初詣と称して鳥居をくぐり、新しい年の無 事を祈願するのです。あなたの中にある、新たな清い心を呼び起こしましょう。また、鳥居は世俗と神域との結界でもあります。その仲介役が「常世の長鳴鳥(にわとり)」なのです。
したっけ。
《形容詞「酸(す)し」の終止形から》
1 塩をふった魚介類を飯とともに漬け、自然発酵によって酸味を生じさせたもの。熟(な)れずし。生熟れ。《季 夏》
2 酢で調味した飯に、生、または塩や酢をふりかけた魚などの具を配した料理。握りずし・散らしずし・蒸しずしなど。酢は暑さに耐えるので夏の食品とされた。《季 夏》
【大辞泉】より
「すし」の起源は紀元前4世紀ごろの東南アジアといわれる。川魚の保存法として米などの穀類と炊いたものと一緒に漬け込み、米の発酵を利用して魚を保存した。ご飯は食用ではなくヌカ漬けのヌカのような "漬床(つけどこ)" の役割でした。
文献によると、718年(奈良時代)養老律令の税金の項目に「鮑(あ わび)ずし」・「貽貝(いがい)ずし」を税金で収めたと記載されている。
貽貝は二枚貝の一種。東アジアの浅海岩礁に生息する大型の二枚貝である。イガイは日本沿岸の在来種で、食用に漁獲もされている。
奈良時代に入って穀類と一緒に鮎や鮒を漬け込んだ「熟(な)れ鮨」が庶 民に食べられ るようになった。琵琶湖周辺の鮒の「熟れ鮨」があるが、塩つけにした鮒をご飯とともに、1年くらい漬け込んだもので、ご飯は食べず鮒だけ食べる。
鎌倉時代は「生熟れ」が登場する。「生熟れ」は10日くらいで食べられ、素材は鮎・鮒・鯰・鯉などの川魚が中心でした。
安土桃山時代になると酢が作られました。これによって、寿司が大きく変わりました。 この頃、飯ずしが誕生します。(ご飯も食べる)箱寿司(押し寿司)もこの頃に誕生しました。
素材も川魚に代わって、小鯛や鯖などになりました。漬け込んだ魚は今までは、おかずでしたが、食事へと変わっていきました。
握り寿司の誕生は、江戸時代の後期、文化年間(1818~1830年)です。
握ってその場で食べる・・というのを考案したのは、花屋興兵衛と伝えられます。日本料理の技術である、酢の物(コハダ)や煮物(イカ・穴子)、焼き物(玉子)、蒸し物(アワビ)、刺身(マグロ・ヒラメ)などをすし飯と一緒に食べさせるということを思いついたと云われます。当時の握りは拳ほどの大きなものだったようです。
江戸前というと寿司の代名詞と思われますが、もとは鰻(うなぎ)を指していました。
昔江戸城の前は海でしたが、ここを埋め立てた沼で鰻が沢山捕れ、これをぶつ切りにして串 にさして焼いて食べさせた店があったことから、江戸城前の鰻と云われるようになったらしいのです。この串に刺して焼いた鰻が蒲焼です。見た目が蒲の穂に似ているからです。
その後、握り寿司が盛んになったので、江戸前寿司と寿司にも使われるようになったといわれます。江戸前とは江戸の前の海で捕れる魚を指す言葉です。
江戸から明治にかけての寿司は、屋台が中心で、現在のように店を構えるようになったのは、もっと後のことです。
桶にすしダネを入れて、担いで町の中で売り歩くすし売りという商売もありました。冷蔵庫の無い時代のことなので、殆どの鮨ダネは、酢に漬けたり、煮たり、しょう油に漬けたりと手が加えられていました。これが、今も伝わる酢締めをした光りものや煮イカや煮ハマグリ、またはマグロのしょう油漬けの原型です。
すし屋の調理場が「つけ場」と云われるのは、このように醤油に漬けたり、酢に漬けたりする仕事が中心だったことの名残です。
当時マグロのトロは「脂身」でとろけるので「アブ」と呼ばれすしネタにはならなかった。江戸時代は赤身が上等な部位とされていた。保存技術もなく直ぐに腐るからトロだったと思われます。
戦後は、屋台で生ものを扱うことが禁止され、店の中に屋台を持ち込み店内で食べさせるようになりました。これは屋台の形式を店の中で再現し、屋台の形式がカウンターになりました。
戦中・戦後の食糧難の時は、寿司屋も店を閉めなくてはならなかったのですが、米1合で巻物を含むすし10個と交換することが出来たといわれます。
この時の寿司が1貫の大きさの基準であり1人前の基準となっています。握り寿司が誕生してから、わずか200年余のことです。
①熟(な)れ鮨
「熟れずし」はすしの最も古い形態で、延長5年(927年)にできた延喜式という書物にも、 鮒・鮎・鱒等のほか、猪や鹿などの獣肉も用いられたことが記録されているが、今では、鮒を主とし、鮎・鱒・鰊(にしん)・鰆(さわら)、鰰(はたはた)などが一部で作られているに過ぎない。
魚や肉を塩漬けにしてから、ご飯の中に何ヶ月も漬け込み、ご飯の乳酸発行で保存性を高め、酸っぱくなった魚や肉だけを食べていました。保存がきき、特有の風味(臭み)を持っています。
「半熟れずし」の原理は「熟れずし」と同様であるが、漬け込み日数が少なく、だいたい一ヶ月で出来上がる。
したがって米飯も、「熟れずし」がほとんど分解し、粥状になっているのに対し、「半熟れずし」はそれほど崩れていない。ご飯に酸味が出るか出ないかのうちに食べました。そのまま魚と一緒に食用とする。しかし「熟れずし」と同様、一種の臭みがある。
③早鮨
「早ずし」は江戸時代の中頃になると、米酢が広く販売されるようになり、手っ取り早くこの米酢と塩でご飯に味付けをし、魚貝をのせて、一晩重石をのせて食べるようになりましたものです。
はやずしは江戸時代中期の延宝年間(1673~1680年)、江戸四ツ谷に住んでいた幕府の御典医松本善甫の創案だとされているが、真偽のほどは定かではない。
しかしその頃から「早鮨」が普及し始めたとみることができる。やがて、おいしい鮨を早く食べたいというところから、文化文政年間(1804~1829)に、やっと「握り寿司」が登場します。この起源については少々曖昧で、『嬉遊笑覧※』によると、「文化のはじめ頃深川六軒ぼりに松がすし出きて世上すしの風一変」、また『守貞謾稿※ 』には。「文政ノ末頃ヨリ、戎橋南ニ、松ノ鮓ト号ケ、江戸風ノ握リ鮓ヲ賣ル」と記されています。いずれにせよ、19世紀の初頭に握り寿司が現れたのは間違いないようです。江戸時代の終わりになって酢飯を箱鮨のように握って上に具をのせ、握りたてを食べるようになったのです。
現在では普通すしといえばこの「はやずし」をさすが、その種類には姿寿司、箱寿司、握り寿司、ちらし寿司、巻き寿司、稲荷寿司、その他多数ある。
※『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』江戸後期の随筆。12巻、付録1巻。喜多村筠庭(きたむらいんてい)著。文政(ぶんせい)13年(1830)序。江戸時代の風俗に関する百科事典である。
※『守貞謾稿( もりさだまんこう )』著者・喜田川守貞(きたがわ もりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典である。
寿司屋さん用語
上がり(アガリ):お茶のこと。本来は食べ始めのときのお茶を「デバナ(出鼻)」、締めのお茶を「アガリ(上がり)」といった。
兄貴(アニキ):古いタネのこと。
お愛想(オアイソ):お勘定のこと。
踊り(オドリ):生きたままのタネ。通常生きたエビのこと。
ガリ:薄く切った生姜の甘酢漬け。その質感から。
貫(カン):すし1つを1カンと数える握りずしの数え方。語源は不明。
玉(ギョク):卵焼きのこと。「玉」の字から。
舎利(シャリ):ご飯の異称で、すし屋ではすし飯のこと。仏舎利から。
立ち(タチ):カウンター形式の店、またはその客。立ち食い形式のすし屋の名残り。
漬け(ヅケ):マグロの醤油漬け。
漬け場(ツケバ):すしを製する(つける)調理場のこと。
漬け台(ツケダイ):カウンターのすしを乗せる台のこと。今日では直接ツケダイにすしを乗せる店は少ない。
詰め(ツメ):アナゴなどの煮汁を調味し、煮詰めた甘辛いタレ。「煮詰め」から。
トロ:マグロの腹身。とろっとした質感から。
涙(ナミダ):ワサビのこと。
煮切り(ニキリ):醤油に日本酒や味醂を加えて火にかけて煮切ったもの。すしに塗るかつけ醤油にする。
種(ネタ):すしの具材、すしダネのこと。タネの逆さ読み。
紫(ムラサキ):醤油のこと。その色彩から。
「握り寿司」の発祥は屋台であり、当時のファーストフードであったと思われます。今のハン バーガーのようなもので、決して高級なものではなかったのです。いわば熟れ寿司のまがい物であったのです。いつから寿司屋は高級料理店のようになったのでしょうか。ネタの裏にご飯を数粒つけてありがたがっていたんじゃあ本末転倒じゃないかと思います。考えれば、庶民の味方、回転寿司は寿司屋の原点に戻ったと言えるのではないでしょうか。
したっけ。
そりゃあスパゲッティと言えば「ミートソース」か「ナポリタン」に決まってるだろ。
あっ・・・ゴメンゴメン、「カルボナーラ」と「ミートソース」だたな。
「カルボナーラ」って何だよ。「炭焼のパスタ」(炭焼職人風)だって・・・?炭焼職人が仕事の合間に作ったらこんな風になるんでないかいってくらい黒胡椒がかかってるってやつだろ。オレが小耳に挟んだところによると、カルボナリ(炭焼党)ってイタリアの秘密結社がからんでるらしいぜ。
そんな危ないもの食わないで、「ミートソース」食ったらいいんでないかい。
でもよ、「ミートソース」も、本当はタリアテッレとかいう、平べったいリボンみたいなパスタと絡めて食べるらしいぜ。
本来、スパゲッティってのはパスタの一ひとつで、紐のように細長いものをいうらしい。だからオレたちが食ってるミートソースは日本製って訳だ。
いいじゃねえか、麺が平べったかろうと、細長ろうと・・・。パスタなんて気取ってねえでよ、スパゲッティミートソースを食おうよ。食った後はチョット大変だけどよ。ソースが飛び散って服につくんだよ。どんだけ注意してもつくんだよ。だけどやっぱり、そんなこと気にしねえで「ミートソース」食おうよ。
したっけ。
刺青は、かなり昔からある風俗であることは、以前にも書きました。わが国でも埴輪の紋様な どのも刺青と思われるものがあります。
ただし、現在日本で行われている刺青は、江戸時代に入って からのもののようです。最初は京、大阪の遊女町から起こりました。
客の男と遊女が手を握り合い、親指の根元が手首で交わるところに一つ黒子(ほくろ)を彫り、その黒子(ほくろ)を見て相手を忘れまいと神に誓ったのが、その始まりといわれているのです。
そのほかにもいくつか方法があり、男の歳の数だけ腕に黒子(ほくろ)を彫ったり、相手の名前の下に「命」と彫ったりしたものがありました。この場合、「命」の字の真ん中の棒を長くして、「命に懸けて」その誓いが長く絶えない事を示しました。
つまり、この入れ黒子(ぼくろ)は、遊女が客に誠意を示すものだったのです。
しかし、この誠意は、客を丸め込む戦術に過ぎないもので、消しては彫り、彫っては消しの繰り返しが、当然のように行われていました。
入れ黒子(ぼくろ)を消すには、もぐさで焼き消す方法がとられたため、こんな川柳も作られました。
ところで、今のような「唐獅子牡丹(からじしぼたん)」や「竜と虎」のような絵画的な刺青にな ったのは、中国の『水滸伝(すいこでん)』の影響とされています。『水滸伝』は日本に紹介されてから、大変なブームとなり、岡島冠山(おかじまかんざん)の『通俗忠義水滸伝』、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の『和訓水滸伝』、山東京伝(さんとうきょうでん)の『忠臣水滸伝』、滝沢馬琴(たきざわばきん)と葛飾北斎(かつしかほくさい)による『新編水滸伝』などが相次いで刊行されました。
『水滸伝』には、九匹の青竜をからだに彫っていた史進(ししん)や、花の刺青の魯智深(ろちしん)が登場します。彼らの豪快な生き方に共鳴し憧れを持つものが多かったということでしょう。
江戸時代においても、こういった刺青をするのは血気盛んな職業のものが多かったようです。例えば、火消し、駕籠かき、魚屋、船頭、それに博徒や侠客などがその代表的な職業といえましょう。
なお、“遠山桜”で御馴染の遠山金四郎は実在の人物ですが、あのような桜吹雪の刺青はなかったという説が有力です。一説には“女の生首”の刺青があったともいわれますが真偽のほどは分かりません。
したっけ。
「リング1ケ150円」の「1ケ」です。「いっけ」と発音する人が居ますがこれは間違いです。「いっ こ」と読みます。
これはカタカナの「ケ」ではないのです。「箇」の古い形からきているのです。
昔、「箇」の別体として「个」という文字がありました。「箇」や「個」と同じく「こ」もしくは「か」と読み、物の数を数えるのに使われていました。「个」をくずして書くと「ケ」のように見えたので、いつしかカタカナの「ケ」と勘違いして現在も使用されていると言うわけです。
それを知って「个」と書いたら、買う人が戸惑うかもしれませんね。間違いが間違いでなくなる。正しいことが通じないということになります。
ついでに1ヶ月の「ケ」=「か」、緑ヶ丘の「ケ」=「が」も同じです。
したっケ。
パンに餡子(あんこ)が入っているから、アンパンなわけですが、もともとのパンを考えると、これは、はなはだ奇妙なものです。
パンが日本へ渡ってきたのは、江戸時代の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ)」には、「波牟(パン)とは蒸餅(じょうべい)、即ち饅頭の餡なきものなり。阿蘭陀人(おらんだじん)一個を用ひて一食分となす。これに添えて羅加牟(らかん)を吃らう。羅加牟(らかん)なるものは鰤魚の肉をバンテイカの油に粘(つ)けて脯(ほ)と為して片を切るものなり。」とあります。羅加牟(らかん)というのはなにものかというに、ブリの身をバンテイカ油(ブタのラードであるという)に漬け、干し肉として切ったもののことである。「和漢三才図会」は1712年(正徳2年)頃出版された日本の類書(百科事典)です。
どうやら、このあたりに、パンに餡子が入った理由がありそうなのです。「饅頭の餡なきものなり。」とは、何故饅頭に餡子が入っていないのだと、いかにも不満たっぷりではありませんか。
日本最初のパン屋は明治2年(1869年)、創業者木村安兵衛(きむらやすべえ) 、英三郎 父子が日本人として、初めて東京芝日陰町(港区新橋駅付近)に「文英堂」の店名でパン屋を開業したのです。以後、京橋区尾張町(現在の銀座付近)に移り、屋号を「木村屋」と改称。明 治7年(1874年)日本食文化の代表とも言えるパンに餡を入れた「酒種(さかだね)あんぱん」が誕生致しました。これが「アンパン」の始まりです。
餡のない饅頭に餡が入ったのですから、長い間の課題だった日本人の気分も、多分すっきりしたと思います。「アンパン」は銀座名物といわれるくらい評判になったそうです。
明治8年(1875年)4月4日、明治天皇が、向島にある水戸藩地の屋敷にお花見に訪れることになました。その時に、木村パン屋では陛下に「アンパン」を献上することになった。木村安兵衛はこの日のために工夫を凝らして従来の「アンパン」よりも「より日本らしい」パンを開発した。それは桜の塩漬をパンの中央に入れた「桜アンパン」でした。この日は「アンパンの日」として、国の記念日に認定されていますが、厳密にいうと「桜アンパンの日」なのです。
中央に桜の花がのった丸いパンは、まるでおなかにヘソがあるように見えました。そしてこれが木村屋の「ヘソパン」として有名になり、今もその流れをくんでつくられているのです。
明治20年(1887年)蠣殻町(かきがらちょう)中嶋座の正月興行で、木村屋 のチンドン屋宣伝風景を取り入れ、評判になったそうです。
尚、明治33年(1900年)木村屋3代目儀四郎が、ジャムパンを新発売し、大評判となりました。
明治時代には麺麭(めんぽう、麺包)という呼び名が一般的になります。小麦で作った饅頭の ようなもの、という意味です。しかし、大正時代に入ると、その呼び名は廃れ、カタカナで「パン」と称されるようになります。
「軍隊堅麺麭(ぐんたいかたパン)」は大東亜戦争中(昭和16年12月8日に始まり、昭和20年8月15日に終戦)当時の鯖江連隊より兵隊さんが木村屋さんに派遣され、軍人用のパンを焼いて携帯食としたのです。
私も「アンパン」が大好きです。外国の人には奇妙に見えるかもしれませんが、「アンパン」は木村屋さんの大発明ではないでしょうか。木村屋さんが「アンパン」を発明していなかったら、子供たちの大好きな「アンパンマン」は登場しなかったのです。
したっけ。
パンツ【pants】1 ズボン。スラックス。「コットン―」「―ルック」2 ズボン式の短い下ばき。ブリーフ・ズロースなど。
辞書:大辞泉より
下着のパンツはアメリカでは、アンダーウエアと言う。下着は「パンツ」、ズボンは「パンツ」と発音して区別する場合もある。区別するため下着のパンツを特に「アンダーパンツ」と呼ぶこともあるのです。
日本では1980年代までは(成人)女性の下着を指し示す言葉としてパンティー(panties)が一般的であった。 1980年代後半ぐらいから男女・年齢の区別なく使われる「パンツ」が広く用いられるようになった。日本の下着業界では販売戦略と一般への普及も踏まえて女性用はショーツと呼称するようになったが、英語ではショーツとは男子の半ズボンの事を指す。尚、アメリカでは正式用語も呼称においても「パンティー」である。
もともと短い腰巻のような男性用下着「ロインクロス」が発達し、「ズロース」となり、それが女性用として使われるようになったのは、16世紀のイタリアなのです。
さらに、18世紀にイギリスに伝わり、「ドワローズ」となり、日本に入ったとき、なまって「ズロー ス」となったのだそうです。
どことなくエロい感のある「ズロース」、ヨーロッパからきた名前だったなんて……。
さらに、日本人で初めて西洋式の女性の下着「ズロース」を手にしたのは豊臣秀吉だという。
ポルトガル人の献上品に入っていたのが最初だそうだが、当初は着用された記録がなく、腰巻時代が続いた後、明治になって、ようやく鹿鳴館に集う上流階級の貴婦人たちの間で、ドレスにあわせて着用が始まったのだそうです。
ところで、肝心の「パンティー」という名前が登場したのは、昭和31年(1956年)に発表された「ウィークリーパンティ」と呼ばれるもの。その日の気分にあわせてパンツの色をかえるよう、7色のパンティーをセットにしたもので、大変な話題になったそうです。
パンツが生まれたのは古代ギリシャ時代であるといわれている。その歴史は古く、紀元前6世紀にまでさかのぼることができます。
下半身をあらわにした男どもがぶつかりあう祭(スパルタカスの戦いに代表される)において しばしば下半身の無防備さについて議論が交わされてきた。その問題を解決するため生まれたのがパンツであり、発明初期のころは動物の皮に2つの丸い穴を開けて足を通す形がとられたそうです。
日本で現在一般的に使用されるパンツは、飛鳥時代に仏教と共に伝わったもので、江戸時代にはパンツは半丁(はんてい、もしくはぱんてい)と呼ばれたそうです。
「褌(ふんどし)」という漢字は衣偏(ころもへん)に「軍」と書きます。もともとは戦闘服に関係していたらしい。「戦国時代には戦死者の身分は褌の有無で判断した」という話もあるようです。織田信長も上杉景勝(かげかつ)も直江兼続(なおえ かねつぐ)も、麻の褌をしていたのかな。死んだときに褌をのぞかれるのがわかっているわけですから、新しい褌(ふんどし)をおろし、緊褌一番(きんこんいちばん)で出陣するのです。
麻の褌は戦国時代までは主流だったらしい。江戸に入り、徐々に木綿と主役を交代したとのこと。
人類誕生のとき全裸であったが、アダムとイブの時代に、木の葉で陰部を隠すようになり、さらに文明が進むにつれて衣類で覆うようになった。すなわち人類最初の叡智が「ふんどし」であったのです。
人類学の坪井正五郎(1863-1913)によると、褌(ふんどし)の起源は先史時代にさかのぼると考えられるが、中国・朝鮮系統の袴状の蔽腰服物と、南方系統の帯状のものとに分類され、日本では奈良・平安時代、上流男子は袴状の蔽腰服物を、下流男子は帯状のものを着用していたとある。女子は「腰巻き」が一般的であったとされています。
江戸期、男子の「六尺褌(ふんどし)」「越中褌(ふんどし)」に代表される細長い帯状の布を股間に通し、腰に巻きつけるスタイルは、東南アジアやオセアニアに多く見られる。古代ギリシァでは「キトン」と呼んで、長方形の布を折って体に巻きつけることを基本としていた。したがって、下着もヨーロッパから中国にかけては「腰巻き」、あるいは「さるまた式」が主流で、「ふんどし」は西欧では野蛮な奇習とみられる風潮にあったが、日本では江戸から明治にかけて、男子の「ふんどし」スタイルが主流であった時代が長く続きました。
昭和になって、洋装化により、「さるまた式」のパンツとなり、日常における褌(ふんどし)類の 着用はほとんど見られなくなった。女子の「腰巻き」も昭和戦前期まで続いたが、戦後「パンティー」「ショーツ」となった。ところが近年、褌(ふんどし)は通気性が良いこと、締めつけ感がないことなどから、愛用する女性も増えてきた。 「パンドールショーツ」「ななふん」など女性専用褌(ふんどし)がいま注目されているそうです。
『日本書紀』(720年)「雄略天皇」13年( 469) 9月にこのよ うな記述があります。天皇は采女(うねめ)を集めて、着物を脱がせてフンドシを締めさせ、皆の前で相撲をとらせた。
長い年月を経て、女性は褌(ふんどし)のよさを再認識したということなのでしょうか。
したっけ。
都月満夫
本木辰夫、四十五歳、独身、一人暮らし、石油販売会社経理課長。今夜も残業である。
若い頃はガソリンスタンドに所属し、夜の街に、足繁く出歩いていた。
社内では夜の帝王と噂された。そのため、女性社員には見向きもされなかった。
その頃、人の気持ちは、徐々に高揚していた。でも、まだバブルがプクプクと湧き始めていることに、誰も気づいてはいない。
会社では、社員の飲み会が頻繁に行われていた。接待と云う営業活動が、当たり前のように行われだしていた。会社の経費を使い、接待と云う名の下に、お金が夜の街にばら撒かれた。会社の経費が、夜のネオンを一層輝かしていく。そして、接待族と云う名の営業マンが誕生した。経費の水増しで、自分の懐を温める族さえいる。右肩上がりの売上に隠れて、接待費は増え続けた。酒の飲めない営業マンにとっては、辛い時代であった。
接待され、赤い顔で威張り散らす狒狒爺。赤くなってご機嫌をとる猿。伝票を見て、青くなる猿。狒狒爺と一緒に威張る猿。そんな天狗猿と眼鏡猿たちの、金を目当てに、御無理御尤もと、接待する夜の蝶。それは、光に集まる薄汚い蛾の群となっていく。ちょび髭の俄か社長が、雨後の筍のように生まれていた。時代は確実に、バブルへ向かっていた。
本木は、そんなバブルの膨らみ始めた頃、彼女と出会ったのです。
二十歳の頃です。会社の飲み会で連れて行かれた、二次会でした。「バー紙風船」という、小さな飲み屋です。そこで、威勢のいい彼女と出会ったのです。本木は彼女の気っ風のよさに、惚れ惚れしたのです。
「何だと、この助平親父。飲み屋の女だからって、半可臭いこと喋ってんじゃないよ。客だと思ってチヤホヤしてやればその気になりやがって…。金であたしのパンツ脱がそうたって、そうはいかんべさ。金でパンツ脱がしたいんなら、ちょんの間の店へ行きな。飲み屋の女が、みんな金で転ぶと思ったら、大間違いだ!さっさと出ていけ、助平親父!」
助平親父が出て行くと、店内に拍手が起こった。常連の客たちである。
女は源氏名を「潤子」と云う。
それから一週間ほど経った頃、本木は「紙風船」を訪れた。
「あら…、又来たんだ。」
あの潤子が、本木を覚えていた。
「あんた、一週間ほど前、会社の人たちと来てた人だべさ。あんた、歳幾つ?」
「二十歳です。」
「ダメだよ、二十歳でこんな店に一人で来ちゃ。碌な人間になりゃしないよ。」
「まあ、ここはあたしが居るし、安いからいいけど、他の店に行っちゃダメだよ。」
「ハイ、分かりました。」
その日は、客が少ない夜だった。
「あんたの名前…、まだ聞いてなかったね。」
「本木です。本木辰夫。本屋の本に木と書いて本木、辰年生まれなので、辰夫です。」
「そんなに詳しく説明しなくても…。」
「すいません…。」
「辰年生まれで、辰夫か。昭和三十九年でしょ。だけど親も随分簡単な名前付けたね…。」
「いいじゃないですか…。そんなこと…。」
「あら、むきになって…、めんこいね。まだまだあんちゃだね。ところで、今夜は、どして一人で来たんだ?」
「いや~、ちょびっと恥ずかしいんだけど、こないだの、潤子さんのパンツの台詞が、あまりに気持ちよかったもんで…。」
「ああ、あれかい。あんなのは、当たり前だよ。最近は、勘違いしている狒狒爺が多すぎて、きもやけるよ。あたしらは、客の接待をして、楽しく、お酒を飲んでもらうのが商売なんだ。ちょっと金を持つと、誰でもモノにできると思ってる馬鹿たれが増えすぎたよ。ちょっと前までは、ちゃんと時間をかけて、口説いてくれたんだけどさ…。」
「そうですか…。潤子さんも口説かれたことがあるんですね…。」
「そりゃあ、そうだべさ~。こんないい女、口説かなかったら、男じゃないべさ。」
「へえ~。そんなに口説かれてるんだ。それで…、落とされたことは…?」
「あんたね、バカなんだか、素直なんだか知らないけど、はっきり聞くねぇ。そんなこと喋る女はいないよ。まともな女なら…。」
「じゃあ、落とされてはいないんですね。」
「だから、喋んないって、言ってるべさ!」
「はい、分かりました。落とされてはいないという事で…。あの…、こんなことを、聞いていいですか。潤子さんは、ボクとあまり年齢が違わないような気がしますが…。」
「バカ!ホステスだって女だよ。歳を聞くヤツがあるかい、本当に…。二十二歳だよ!」
「それじゃあ…、寅年ですか。随分若い時から、この商売をやってるんですよね。」
「そうだよ、十八からやってるんだ。近頃じゃあホステスの質も落ちたもんだよ。金があるって聞いて、すぐに転ぶ女がいるから、あたしたちまで、馬鹿にされるんだ。」
「あの…、ボク…、潤子さんと…。」
「何ごもくそ言ってんだ。ハッキリ喋んな。」
「潤子さん…、ボクとお付き合いをしていただけませんか?」
「えっ!何喋ってるんだよ。バカだね。口説く前に、口説いていいかって聞くヤツがあるかい。あたしは何て答えりゃいいんだよ。」
「すいません。口説くなんて…。お付き合いをして欲しいだけです。」
「何だよ、高校生みたいなこと言って…、ここが何処だか分かってるんだべさ。ホステスなんかと付き合っちゃダメだ。あんちゃ、ガソリンスタンドで真面目に働いてんだろ?だったら、素人の女と付き合いな。ホステスなんて、碌な女いないよ。」
「さっき、自分はまともなホステスだって喋ってましたよ。それと、女性に素人、玄人があるのですか?ボクはホステスと付き合うのではなく、潤子さんと付き合いたいのです。」
「なんだい、面倒臭いね。あたしは、ホステスなの。だから、あたしと付き合うと、ホステスと付き合ってるってことになるべさ。」
「だから、ホステスと云う職業の潤子さんと付き合えばいいんだべさ。ボクはスタンドマンの本木辰夫です。何処が…、駄目なんだべか…。潤子さんのことを、もっと、きちんと知りたいんですよ。それでいいべさ?」
「ママーッ、ちょっと助けてくださ~い!」
潤子は、ママに助けを求めた。しかし、悪い気がしていた訳ではない。あまりに真面目な、本木の態度に、どう対処していいか困ってしまったのである。真面目に対処している自分にも、戸惑っていた。
「ハイハイ、どうなすったんですか?」
ママは着物の襟元を直しながら、腰を振り振り、やって来た。
「さて、私はどの席に着けばいいのかな?」
「ママ、こっち、こっち…。」
潤子が慌てて、ママの袖を引っぱった。
「おやおや、百戦錬磨の潤子さんらしくもない、こんなあんちゃんにお手上げかい?」
「ママ、違うんです。この人が、訳のわかんない事を喋るんで、困ってるんです。」
「どんなことを…。」
ママは裁判長のように、二人の話を聞いていた。うーんと、腕組みをして、暫らく考えてこう言った。
「二人のことなんだから、二人で考えな。」
「ママ、そんな…、助けて下さい…。」
潤子は、もう泣きそうである。
「それじゃあ、私から二人に、なんぼか質問してもいいかい?」
「ハイッ!」
二人は同時に返事をした。
「おや、随分気が合うじゃないか。」
「ママ、冷やかさないで、真面目に…。」
「あんちゃん、あんたは…。」
「ママ、あんちゃんじゃなく、本木君です。」
「おやっ、そうかい。潤子も、その気がないでもないようだね。じゃあ本木君、あんたはどして、潤子と付き合いたいと思ったの…。もう一度あんたの口から喋っとくれよ。」
「はい。先週、会社の人と来たときの、潤子さんの、助平親父に言った台詞がスカーッとして…。青竹をスパッと縦に割った時、パチーンと飛沫が散ったような爽快さ。もう一目で参りました。あの人は、どんな人なんだべって、気になってしまって…。それで、今夜勇気を振り絞って、やって来たって訳です。」
「いいじゃないか。純粋に潤子が気になったんだろう。どうだい潤子、本木君には、パンツを脱がせようなんて下心は無いようだよ。」
「ママさん、そんなパンツを脱がせるとか、脱がせないの、問題じゃありませんから。ここです、胸の問題ですよ。」
「胸の問題?あんた、あたしのパンツではなくて、オッパイが目的だったのかい?」
「違いますよ。言い方を間違えました。心の問題、気持ちの問題ですから…。」
「ほらー、ママ、オッパイが目当てとか、ケツが目当てとか、はっきり喋ってくれりゃ、こっちも喋りやすいのに…。気持ちって…。」
「なんだい、潤子も案外、がんたれだね。嫌いなのかい、この本木ってあんちゃんが…。」
「嫌いか、好きかって聞かれたって…。」
「ああ、じれったいね。だから、本木君はお付き合いして欲しいって、言ってるんだろ。言っとくけどね、本木君、潤子は男嫌いで通ってるんだ。パンツの紐は固いよ。私が知ってる限り、お客さんと、出来たって話しは、聞いたことがないからねぇ。」
「どうして、あなた方は、最後にはパンツの話に持っていくんですか。」
「おや、本当にパンツを脱がせる気は無いのかい?それも、潤子としては、ちょっと微妙な感じになるね。女としては…。」
「うん…。」
こないだの、たいした元気は何処へいったのか、すっかり別人のような、潤子だった。
「潤子さん。潤子さんの本名を教えていただけますか?」
「半可臭いこと聞くんじゃないよ、本木君。本名なんて名乗れないから、この商売の女たちは、源氏名ってヤツを使うんだよ。」
「そんなこと知ってます。だけど、ボクは潤子さんの、本名を知りたいんです。」
「困った人だね。潤子の気持ちが、分かってきたよ。相手するのも、ゆるくないよ。」
「広末八重子…。柏高校卒業です。」
「広末八重子さん。柏高校卒業ですか。進学校じゃないですか。」
「おや、喋っちまったのかい、潤子。私のほうが、何だか混乱してきたよ。」
「ママさん。あなた方がパンツにこだわっているので、お答えします。」
「答えるってさ。潤子も、聞いときな…。」
「ボクが、潤子さんの本名を、知らなかったから、話がややこしくなったのです。ボクは潤子さんと付き合いたいのではないのです。」
「何だって…。さっきから散々、潤子と付き合いたいって、喋ってたべさ…。」
「話しを、最後まで聞いてください。ボクの付き合いたいのは、広末八重子さんと云う、職業が接待業の女性です。」
「分かったかい?潤子、接待業だってさ…。」
「うーん、何と無く…。」
「それで、パンツの話は…。」
「ママ、そう先を急がないで下さい。仮に八重子さんが…。」
「ああ、潤子がどうしたんだい。」
「待って下さい。僕は潤子さんではなく、八重子さんの話しをしているんです。ボクだって、男ですから、八重子さんのパンツに興味がないわけじゃありません。」
「よかったね、潤子。興味あるってさ。」
「ママさん、少し黙っててもらえるべか。」
「はい、はい。私は呼ばれて来たのに…。」
「八重子さんが、ボクと付き合って、ボクを好きになったとします。その逆もあります。ボクが八重子さんを嫌いになることです。だけどそれは、現時点で可能性が低いので、想定外とします。八重子さんが、ボクを嫌いだと言われれば、僕は諦めます。」
「どうなんだい、潤子。好きなのか、嫌いなのか、はっきり喋っちゃいなさいよ。」
「待ってください、僕の話は終わっていません。八重子さんとボクの交際が順調に進行したとします。後は極普通の展開です。ボクは八重子さんの手を握る。そして、キスをする仲になります。やがて二人は、男女の仲になる。それではいけませんか?」
「それじゃあ、脱がしたんだか、脱がされたんだか、はっきりしないべさ。ねえ、納得いかないよね、潤子。」
そんなこんなで、二人の付き合いが始まりました。
バブルは急激に膨れ上がり、夜の街は狒狒爺と、天狗猿、そして尻尾を振って付いて回る、眼鏡猿の群で溢れていきました。
潤子はそんな狒狒爺や天狗猿のことを、ハゲと呼んでいました。本木の伝票は、そのハゲたちのところへ回されます。
本木は一銭も払わず、潤子がハゲから巻き上げたチップで、閉店後を楽しんだのです。
そうそう、八重子はパンツに関しては、純真無垢な少女のように、臆病でした。
初ホテル入館の日は突然やってきました。「ホテル…、行こうか。」
ある夜、八重子が誘いました
「えっ、どうしたのさ、急に…。」
「だって、あたしたち、付き合ってるのに、辰夫だって、したいべさ。」
「そりゃ、したいけど…。」
「絶対に笑わないでね。笑ったり、驚いたりしたら、別れるから…。」
先ず、辰夫がシャワーを浴びました。その後、八重子がシャワーを浴びました。
「今、出て行くから、笑うんでないよ。」
そう言って、八重子が素っ裸でドアを開けました。見事な肢体です。白い肌に、程よい肉付き。申し分が無い裸体でした。上から視線を下ろしていくと、彼女は無毛症でした。
「笑わないの?あたし…、パイパンなのよ。」
「別に…。なまら綺麗だべさ。」
「あたし、高校の修学旅行で、お風呂に入って散々笑われたの。パイパンって…。それ以来、人前でパンツを脱げなくなって…。」
「でも…。それは、恥ずかしくないよ。日本人の偏見だ。欧米人は体毛が濃いので、年頃になると、皆陰毛を剃るんだ。女性の陰部は愛情交換に、なまら大事なんだ。男は唇でそこを愛撫するのさ。そして、欧米人は入浴をあまりしないべ。だから、雑菌繁殖防止の目的もあるのさ。日本男性には、最近までそこは、ただ挿入するだけの場所だったから…。
貝の上に裸婦が立ってる、ヴィーナスの誕生って絵、知ってるべ。アレだって陰毛は描いてない。ほかの有名画家の裸婦の絵だって…。君は素晴らしい身体で生まれたんだよ。」
二人が交際を始めて、二年が経っていた。本木は童貞で、八重子は処女であった。
「浴室から裸で出て来たのだから、パンツは脱がされていないし、脱いでもいない。」
未だに、八重子はそう喋って譲らない。
本木は、事務所の時計を見上げた。
「ああ、もう九時過ぎか…。桜の時季なのに、花冷えか…。八重ちゃん酒場に、おでん食いに行くか…。八重ちゃんの玉子、美味いからな…。八重子も寅年の強情張りだし…。悔しいけど、辰年のオレから、今夜…、話を切り出すか…。」
「そのまま食べる」「やり直しさせる」の2つの選択肢の中から選んでください。
出り張りだと?出前ってえ日本語があるんだわざわざ横文字つかうんじゃねえよ。
オヤジは「ピザ」なんてえ物は食ったことがねえ。何故か。乳製品アレルギーなんだよ。あのべったりチーズが張り付いてるのを見ただけで、もう危ない気分だ。
だからなんか違うもんを想定して書くことにするよ。ゴメンよ。なんかテンション上がんねえな。
やっと届いて、こっちは腹減ってる。出前の岡持ちにはまだ他のものも入ってる。そうなりゃ仕方がねえ。そのまま受け取るほかねえだろう。ただ、違うよてこたあ言っておくよ。オヤジんとこはこれが好物だと思われても困るからさ。出前の人にグダグダ文句言っても仕様がないんだ。商品渡されて行って来いって言われてるだけだから。
オヤジも寿司の出前のアルバイトやったことがあるけどよ。いるんだよそういうヤツ。その時は出前専門の店だからお品書き〈カタログ)から選んで注文するシステムで、番号だから間違えねえんだが・・・。自分もカタログ道歩いてるから、どれ頼んだか聞いてみると、番号の見間違いだ。そうすると、相手は番号の振り方が分かりづらいと文句を言う。謝ってから、番号の見方を教えると、納得してくれる。
だからさ、どうしてもそれを食いたいなら、また次回頼んだらいいじゃない。
世界中には腹へって死んでいく子供が沢山いるのに、大人げないことはしないでさ。食おうよ。幸せなんだぜ、オレたちは・・・。
したっけ。