日本橋魚河岸・京橋大根河岸の最後の日
福神漬の歴史をたどっていくうちに再び藤浦富太郎著の『明治の宵』をまた借りて読む。藤浦富太郎は明治の中ころ、京橋大根河岸の青果仲卸三周の長男として生まれ、昭和10年に築地市場が開場と共に荷受会社の東京築地青果株式会社の社長となった人で一般には近代落語の祖とも言われる三遊亭円朝の後援者と知られ、後には歌舞伎にも関わった趣味人でもあった人である。
今回この本を借りた理由は前回読みそこなった尾上菊五郎との交友を調べるためであったが、五代目でなく六代目との交友であった。
さてこの本の最後のほうに京橋大根河岸の最後の日つまり昭和10年2月11日、市中音楽隊を先頭にして雨の中を築地へ向って行進して行く様子が書かれている。300年の歴史がある日本橋・京橋の地を離れてどのようになるかわからないという不安な気持ちで築地に向っていったことが書かれている。昭和10年と言えば前年の北海道・東北地方の大凶作で農村子女が都会に売られる時代でもあった。そんな時代に築地市場が開場した。すでに75年にもなろうとしていて当時の建物が水産卸のところに今でもあるという。
歌舞伎と魚河岸の人々交流は良く知られているが三遊亭園朝との交友はどのようなきっかけではじまったのだろうか。まだわからない。
福神漬の歴史をたどっていくうちに再び藤浦富太郎著の『明治の宵』をまた借りて読む。藤浦富太郎は明治の中ころ、京橋大根河岸の青果仲卸三周の長男として生まれ、昭和10年に築地市場が開場と共に荷受会社の東京築地青果株式会社の社長となった人で一般には近代落語の祖とも言われる三遊亭円朝の後援者と知られ、後には歌舞伎にも関わった趣味人でもあった人である。
今回この本を借りた理由は前回読みそこなった尾上菊五郎との交友を調べるためであったが、五代目でなく六代目との交友であった。
さてこの本の最後のほうに京橋大根河岸の最後の日つまり昭和10年2月11日、市中音楽隊を先頭にして雨の中を築地へ向って行進して行く様子が書かれている。300年の歴史がある日本橋・京橋の地を離れてどのようになるかわからないという不安な気持ちで築地に向っていったことが書かれている。昭和10年と言えば前年の北海道・東北地方の大凶作で農村子女が都会に売られる時代でもあった。そんな時代に築地市場が開場した。すでに75年にもなろうとしていて当時の建物が水産卸のところに今でもあるという。
歌舞伎と魚河岸の人々交流は良く知られているが三遊亭園朝との交友はどのようなきっかけではじまったのだろうか。まだわからない。