世田谷区二子玉川駅から10分ほど歩いたところに廃校・旧都立玉川高校跡地 に港区芝浦から移った都立公文書館があった。ここに3年ほど前、新宿区の歴史博物館から教えられた雇外国人のリストがあるかもしれないと教えられ行ったことがあった。そこで知ったのがライマンだった。夕張炭鉱を発見した人で小説
『秋霖譜―森有礼とその妻』 森本貞子著
では広瀬常に結婚を申し込んだが森有礼に常を奪われた。常の父は旧幕臣で異国人に娘を嫁がすより有礼を選んだ。この結婚は福沢諭吉の媒酌による日本での最初の契約結婚となった。常は後に不倫の噂で離婚されたが彼女の写真は抹消され今はどこにもない。常の妹は福と言って、明治屋創業者に嫁いだが出産時に病で亡くなった。
森本氏の小説では自由民権運動静岡事件の被告人となった養子問題で常は離縁されたという。福が産後に病で亡くなったのも同様の理由と思われる。
さて西国分寺に移転した東京都公文書館で探した文献は高野長英捕縛時に匿った時、遠山景元(金さん)のお裁きで嘉永3年12月に4人が流罪となった。そのうち1名の松下寿酔は獄死していて残りの3人の行方がはっきりと書かれず多くの長英小説では御家断絶とか子女は遊女に売られ、養子に出され、さらに遊女の娘は地震で下敷きとなってしまったとなっている。
石井研堂の明治事物起源の缶詰の始まりに福神漬が出ているが文献の正確性に欠けていて多くの学者からコラム扱いとなっている。しかし石井はなぜこの缶詰の始まりに福神漬缶詰を取り上げたかの検証がなされていないことに気が付き、文章をいちいち検証していた。そして北方領土に日本国の柱を建てた近藤重蔵があって、なぜだろう調べると、重蔵の子供で富蔵が殺人を犯し八丈島に流罪となった。近藤富蔵は八丈実記という本で伊豆7島の民俗の記録を残している。東京都の文化財となった八丈実記を借り出して流人を調べると八丈実記4巻には高野長英で流罪となった3名が記載されていなかった。
江戸で判決を受け流罪となった人は江戸時代の当初は佐渡島へ流罪となったが金山開発で島送りとしての船便が多くなり適地から外れ、無宿人が労役として佐渡へ向かわした。そこで伊豆七島が流人の島となったが八丈島が一番罪が重い人が送られた。
新島と三宅島も流人の島で、それぞれの島で不祥事があるともっと辺鄙な島に移された。三宅島の村史には流人の記録が見当たらず、ようやく新島村史資料②流人史 平成8年3月刊行の本に
嘉永4年4月流罪となった宮野信四郎の名前があった。彼は明治元年12月23日にご赦免となっている。31歳と記録にある。このことから明治元年の時の年齢は49歳だろう。
残りの流罪となった二人、松下健作と御賄い伊藤弥十郎祖母ひでの行方は文献にはなかった。都立中央図書館の司書で聞いたが本にはなく、だめで元々と散歩のため新築の公文書館へいった。結局文献は文書館で見つからなかったので後の可能性は小伝馬町の牢獄で獄死した可能性がある。このリストは公文書館にはないという。なお公文書館での流人の検索では(流人証文)という言葉で検索すると7件ばかりヒットした。
公文書館で2時間ほど滞在したが誰も来ず、丁寧に操作を教えてもらった。一応学術研究というところに印をつけたが福神漬の命名由来を調べていると知ったらびっくりするだろう。