叔父が昭和18年7月に発表された陸軍特別操縦見習士官制度の受験に関して、親族の言い伝えが残っていない。どうも埼玉師範学校に配属されていた軍事の教官に試験を受けさせられたと思う。同調圧力があって、受験はしたが見事に不合格となった。これは私の父が扁平足で20歳の時の徴兵試験では不合格であった前例があった。心密かに試験に落ちることを決めていたのに、なぜか繰り上げ合格となってしまった。叔父は出身小学校の先生に進路指導をうけ、今の千葉県野田市にある野田農工学校を受験し、授業料のかからない師範学校を目指した。軍人指向があれば別の行く先もあった学力で地域のために農業系を選んだと思われる。試験に合格することは競争率の問題で難しいが落ちることは比較的容易だったと考え、意図的に落ちたと思う。しかし同時期の海軍予科練と陸軍の特別操縦見習士官に両方合格し、陸軍の方に欠員が出来て、埼玉師範学校の軍事教官によって推薦され繰り上げ合格となったようだ。叔父の軍歴は11月1日から始まる。他の人は10月1日。昭和18年9月23日の報道によると、理科系と師範学校の人は後に学徒出陣となることが免除される記事があった。この時繰り上げ合格にならなければ特攻遺族にならず今でも生きていたと思う。陸軍の特操に合格した埼玉師範学校の学生10名のうち、9名は昭和25年の師範学校同窓会名簿に赴任先の学校が書かれている。1名は海軍の予科練に行ったと思われ、死去した様だ。
1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。 同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。 なお、配属将校は教練に関しては学校長の指揮監督を受けた。戦局の拡大で学校に派遣されて将校の発言力が強くなり、上智大学の靖国神社事件のように、学校運営の危機を生じた例が記録として残る。今でも当時でも日本の学生は何を学んだということより、卒業証書の方が重視していた。また軍事教練の科目を履修しないと、短期兵役とかの優遇もなく、受験生が減り、大学の経営危機となったという。
当時の大学生は今と同じで裕福な人が大学に行くので軍隊の上官の理不尽な扱いを知っていたので短期兵役は魅力的だった。
叔父の繰り上げ合格でなぜ欠員補充に選ばれたか考えると、1番の理由は海軍の方が人気があった。これは予科練の歌の影響で、競争率が海軍は20倍ほどで陸軍は5倍くらいで、選考の中で重要な視力の基準を緩め、募集期日を10日ほど伸ばした。従って欠員補充は配属将校のメンツだっただろう。
あまり考えたくないのだが叔父の名前が栗原で226事件の栗原安秀と親せきと思われた。226事件に参加した兵士1400名の半分は埼玉県出身で、埼玉師範学校はその影響のある軍人がいたのではないかと思ったこともある。最初から叔父は試験に不合格を計画し、配属将校の受験圧力から逃れず、不合格を意図していて、実母には知らせず、繰り上げ合格も学徒の出陣のように伝えた気がする。本当に飛行機操縦士と知ったのは昭和20年の常陸での訓練で実家に帰ったころからと思われる。叔父の遺書のない理由はこの時に十分に話したとしか思えない。生きて帰ると思いを残していて書かなかったと思いたい。戦後の混乱時に、近所に進駐したGHQの40名位の兵士姿を見て遺書処分したと思いたくない。叔父たちの特攻隊は台湾と知覧からの出撃で、米軍の記録でも多大な被害を与えていた。