都営三田線の芝公園駅の三田駅よりの出口から出て、歩道橋のとこにホテルがある。そこが日本の労働運動の始まりの地で、ユニテリアン系のキリスト教会があった所となる。
友愛会館の前身は、福澤諭吉らの招聘により来日した米国ユニテリアン協会が1894(明治27)年に建設したユニテリアン教会・惟一館(いいつかん)で1898(明治31年)に安部磯雄や村井知至らにより社会主義研究会(後の社会民主党)が結成され、また1912(大正元年)に鈴木文治らにより友愛会(後の総同盟、同盟。現在の連合)が創立されたことにより、この場所は日本社会主義運動と日本労働運動の発祥の地とされました。 このような経緯から友愛労働歴史館のある建物の隅に記念碑が建っていて、さらにビルの1階に3人の関係者の像がある。この会館を出たら付近には労働関係の組織の事務所が多いと感じた。
8階にある歴史館は訪問すると電気が節約されていて入り口が封鎖されていたので事務所らしきところの女性に頼んで、開けてもらった。そこでここを来た理由を話した。
今年は学徒出陣80年となる11月1日に合わせて、陸軍特攻隊員の学徒兵の記念展が知覧で今開催されている。しかし叔父の遺品とか経歴が記録として保管されず、娘の尽力で大方の様子は解ったが、それでも最近見た映画の(福田村事件)の野田市の記録がないのでもう一度野田争議を調べ、さらに今東武野田線ア―バンパークライン南桜井駅前にあった、賀川豊彦の関係する農村時計もついでに知りたかった。このことを歴史館の女性に話すと、歴史館の入り口に大きな時計があって、それが農村時計のあとを引き継いだ会社リズム時計の寄贈した時計だった。何か叔父の亡霊がこんなところにまで来ていたのかと一瞬思った。この賀川と関係から戦後のアメリカの占領軍の余剰施設に農村時計工場となった。高射砲の信管を作っていた敷地の一部に米軍が駐留したため、叔父の家と近く、敗戦後に台湾から引き揚げてきた、204飛行隊の上官より特攻時の経緯とか遺品と記念写真等等がもたらせられたとき、多分特攻の戦果も知らせられたと思う。米軍の記録でも、5月20日に知覧から出撃した振武隊と誠隊が沖縄嘉手納沖で同時間に合流し、知覧からの隊がおとりとなって、叔父たちの戦果が多大だった。このことは台湾からの誘導して戦果確認機が撃墜されたため記録が不十分と思っていたが防衛省の史料に沖縄で目撃記録があって、軍歴に加算があった。蒙古襲来の様子を描いた絵が恩賞を得るための絵と言うことを知っていたので、目撃者がいたことに感謝する。
野田争議に関して、管理している女性の話では今の連合の組織の基礎が野田争議で出来たようだ。さらに以前訪問した時にあった図書室で野田争議の史料があると聞いたら、コロナでホテル等の稼働率が下がり、一部施設を売却して狭くなったという。これからリモ-トの時代になると、大手企業の多い連合系は多分リモ-ト会議が促進され、友愛会館にあるホテルも会議用のホテルから観光客用のホテルとなる予感がある。都営三田線がJR品川駅向けの工事が始まったという。と言うことは品川で乗り換えると二駅目と言うことになる。
コロナはこんな所まで変化させていた。まだまだ前は予約していないで訪問出来たところも一応ホ―ムぺ-ジ上では予約が必要だし、減った訪問客で予算が減り、開いている日も減った。