千葉県市川市は東京都の境が江戸川で、江戸川を遡れば利根川になります。上流の千葉県野田市があって、鉄道では直接つながっていないが江戸時代からの水運の歴史もあって野田市の郷土資料が市川の図書館には揃っている。
市川市の中央ニッケコルトンプラザの隣接地にあって、今まではJR本八幡駅のバス停から無料送迎バスがあって乘っていたが、歩いてみたらと思い、検索すると10分程度で行けるので図書館へは歩いて行ってみた。もう何回も来ていて今までは福神漬関連で行徳の塩業を調べていた。そこでキッコ-マン第16工場が江戸川添いにあって、押切とか伊勢宿と近いことが気になっていた。まだ資料が見つからないが福神漬用の醤油需要があったのかもしれない。第16工場は戦後に利根コカコ―ラの本社として、今は野田市に日本のコカコーラの中の一社として残っている。
市川の図書館で映画の福田村事件を調べていて、気になっていて、都立中央図書館で調べきれない部分を調べていた。多くの福田村事件の記録は野田市の人が調べていなく、さらに野田市には市川でも都立中央図書館でも野田市の正史(近現代)がまだない。実におかしい。今の野田市の人口は15万人で北葛飾郡の町では最大でさらに醤油醸造業の町として江戸時代から全国に知れ渡り、さらに世界最大の醤油業者として知られているキッコ-マンの町の正史が無い。何か不都合な真実が隠されていると思い、野田市の興風図書館(中央図書館)に無い、自由な文献が市川市にある気がした。
地域史料の棚に薄い大型の本があった。タイトルから野田労働大争議資料 の一冊で昭和の野田争議の経過が東京朝日新聞の切り抜き記事で報道の様子が解かる。やはり昭和天皇への直訴事件で千葉県知事と政界・財界が単なる一企業の労働問題から、ほぼ労働者側の全面敗北から、ある程度を解決金として支払い、解雇して後に救済策を取ることになった経過が解かる。さらに労働者の子供たちが通う野田小学校へ同盟休校していたため500名の児童の卒業と進学問題が次の問題として残っていた。小学校卒の学歴が無いと日本人としての一生が不遇となることが争議の中で一番の問題となっていた状況が直訴事件から急展開したことがわかる。
福田村事件の著者は野田市の隣接の流山市の住民でさらに流れ者だから福田村事件を気兼ねなく書くことが出来たと思われる。千葉県史の正史の近現代でも福田村事件は関東大震災時の不幸な事件として記述されているが、田中村(今の柏市)の住民が福田村に押し寄せてきてから雰囲気が変わり虐殺になったようだ。現場は野田市(当時は北葛飾郡福田村)だから、柏市は正史に書けたようだ。しかし野田市は市町村統合で、福田村と川間を野田市にし、その後の選挙で福田村の人が野田市長となってしまい、野田市の行政の長として香川の人たちに謝罪したようだ。その市長が革新系であったため、保守的な野田市議会がまだ正史を出せないと思うが実際はどうなっているのだろうか。少なくとも古代・中世・近世の野田市市史は出版できると思うがどうなっているのだろうか。この辺が叔父の特攻の経過を調べていて記録が無いことと関連している感じかあって、しつこく調べている。