年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

石井研堂の誤り

2019年10月18日 | 福神漬

缶詰の始まり 石井研堂の誤り
明治7年、山田箕之助は工部大学校雇い米人教師の缶詰法によって、紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたる事こそ、日本人の手にて缶詰をつくった起源である。同年三井物産社より、下谷池之端某店に託し、紋別漬200個をハワイ及び米国に輸出した。これは缶詰輸出の始めとなる。

石井研堂はどうして誤ったのだろうか。三井物産は明治9年に創業した。明治7年では先収会社であった。
 鎧橋で三井物産発足時、社長が益田孝で社員が数名で15歳の雑用係りの小僧が一人いた。この小僧は横浜富貴楼のお倉の亭主の兄弟であった。後の清元延寿太夫 (5代目)である。
漬物の歴史を調べているのにどうして三井物産の歴史を調べなければと思うようになった。総合商社の歴史は三井物産のほうが三菱商事より古そうである。どちらも福神漬の歴史に出て来るとは誰も予想してはいないだろう。これが石井研堂の誤りで、缶詰の始まりが缶詰協会から無視されている原因である。
石井研堂の缶詰に関して蛇足の文が多く、何を後世に伝えようとしたいたのか。

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