年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

牢獄の本を読んでいて

2023年10月16日 | 宅老のグチ
中国から治安維持系の違反があって、見なされて、逮捕され、投獄され数年後に釈放された日本人の語りを読んだ。
 江戸時代までの日本の牢獄の制度の基本は中国から来ていた。そこに日本での慣習が加味されていたと感じる。囚人に対する衛生環境とか食事は最低だったし、生き延びるには外部の支援が必要だった。牢役人に対する付け届けは中国でも日本でもあって、この付け届けの知識が無いと、拘留中に亡くなることも多かったと思われる。この制度のため、また冤罪が増えるということもある。牢役人の生活維持のため、地獄の沙汰も金次第と言う言葉を生んだ。
 今中国の経済が停滞から低迷に向かっているが、日本の投資を期待すると駐日大使が言っていても、設備更新程度で投資拡大と言っている企業は少ないと感じる。華僑系の付き合いの情報が東アジアの仕事で重要と知っているが、この情報交換が監視中国で証拠となり、投獄理由となるし、仮に放免されても委縮する。そんな世界でサラリ-マン日本人社員で中国に行こうとする駐在者はギャンブルとしか思えない。
 釈放された人の話で牢獄の状況が大げさであると気にしつつ、日本では手紙を出せる。もちろん検閲があっても出せる。
 明治日本の最大の問題は不平等条約改正で。関税自主権、検疫権、裁判権だった。この裁判権の問題で拘留中に病気で亡くなることが多いと指摘され、近代的な監獄が整備されてきて来た。
 ある旅行系の中国人ユ-チュ-バ-が顧客の日本行きのビザ申請で上海の住人が資産価値のある住まいがあっても納税証明が出せなくて日本の1年ビザしか取れないという。このことは日本では当たり前で脱税する人は日本には不向きなのである。前は中国人は不法就労の人だったが今は投資の人で、税金を払わないということはゴミと同じで病気治療で日本に来ると想像できる。アメリカと違って日本で出産しても日本国籍は取得できない。色々な性善説に基づく規則が今狙われている。
 過去の羽振りの良かった中国人が日本と同じように引きこもりになっていると感じる。彼らの節約行動が長い休みでどこで過ごすか次第に漏れてきている。東アジアの4国の低迷は不動産高騰による消費の低迷でさらにデジタルで中間管理者が少ないため、一部の富裕層と貧民しかいなくなってさらに消費が減る。
 とにかく経済のスピ-ドと変化が激しく、どうも高学歴は普通にある体力的仕事に不採用となりやすい。今の日本ですべての仕事に対応できることは体力と思う。学歴が邪魔になる時も増えそうだ。築地で仕事をしていた時、豊洲移転まで時間が無かったので、シルバ-人材を依頼したら、高学歴で労働法の知識があって緊張した。
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10月12/13日の池上本門寺の御会式が終わって

2023年10月15日 | 宅老のグチ
新橋-横浜(現桜木町)の鉄道が開業した明治5年10月には途中の駅は品川・川崎・神奈川(今の東神奈川辺り)しかありませんでした。明治9年に大森駅が開業します。大森駅の開業はお雇い外国人が大森駅付近に住んでいて、臨時停車したため駅となったようです。日本考古学の発祥地として明治10年モース博士が発掘した大森貝塚は品川現在、大森貝塚遺跡庭園(品川区大井6-21-6)として整備されています。貝塚とは大昔のゴミ捨て場で、貝以外にも動物の骨・土器・石器など様々なものが見つかっています 。本当に線路の脇に貝塚があります。
 明治時代の文献を見ていると御会式に参拝する人は大森駅から歩いていたようです。その結果池上線が出来たのですが、蒲田駅の開業は明治37年です。何か昔の記録を見ていると池上線は終夜運転をしていたとある。確かに大森駅から歩くと1時間はかかるし、戻る時間もある。日蓮の亡くなった時間は13日の朝と言う。ここまで書いてふと思ったのだがこの12.13日は旧暦なのだろうか。どこかの日蓮宗の寺院では11月に御忌があるようだ。暦の新旧換算で弘安5年(1282年)10月13日 は新暦(グレゴリオ暦)1282年11月14日となる。さらに調べるとユリウス暦は1582年10月4日まででグレゴリオ暦は1582年10月15日から始まる。この差はうるう年の4年に1回ある2月29日を入れないことから来るという。イギリスがグレゴリオ暦を採用したのが1752年11月24日から日本は明治5年11月23日で翌日は明治6年1月1日となる。太陽暦の採用。
どうもユリウス暦だと1282年11月7日となる。どの基準を採用するかは寺院次第となる。もし池上本門寺が東京で無かったら、多分御会式は11月だろう。ちなみにお盆は東京は7月となっている。
 1860年生まれの時計の精工舎の創業者服部金太郎は明治5年の改暦で時刻の正確をこれからの時代と、時計機械修理から製造販売へ向かった。彼の先見は当時の銀座4丁目の四隅を占拠していた新聞社の一角を買収し、今の和光として残る。
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セイコーミュージアム銀座へ

2023年10月14日 | 宅老のグチ
墨田区の5つの博物館めぐりで、白髭神社付近のセイコ―の博物館が見当たらなかった.東武博物館から銀座にもあると聞いていたので銀座へ回る。
セイコーミュージアム銀座は銀座4-3-13の所にある。そこで受付の人に聞くとコロナ前に白髭は閉館しているという。墨田区に騙された。ここセイコーミュージアム銀座よりブランド価値を上げたいようだ。従って知りたかった戦争中の工場が被災から復活になる過程を見損なった。さらに社史が無いことを確認した。多くの明治日本は西洋からの技術導入でそこから発展させた。今の中国がアメリカ・日本からまねし、発展させた歴史でもある。しかし時計に関してはもうブランド価値向上しか残っていない。その辺がやはり安く、正確を求めていた日本と今は違ってきたようだ。時間ならスマホで確認できる。
 早々に見学を切り上げ、銀座4丁目の交差点で上を人が見上げているので離れてみると浦安のマスコットが時計の文字盤に乘っていた。セイコ―もキャラクタ-はまだ弱い。
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いくら何でも今日の日経は酷い

2023年10月12日 | 宅老のグチ
今日の日本経済新聞はジャにーズ事件の報道で腫れもの報道のスパ-ッ新聞に成り下がった。昔から赤旗と日経は自分の主張をする新聞だったが昨今の新聞離れで読者に寄り添っている。いや迎合だろう。
 日経の一面と社会面は藤井八冠独占。イスラエルとガザ地区封鎖という第三次大戦が始まりそうなときに一面が何事もなくしているのが平和ボケ国家を自任するだけだろう。極東と言うことで中立と言うより、無関心。
 イスラムの人へもユダヤの人へも日本食の一部の輸出をしていたので、ハラルとかコーシャをすこし調べたことがあった。ハラルはインドネシア等の観光客が増えるに従い、対応の醤油がすでにある。難しいのは寿司酢でこれは酒粕から作るので他の食酢では味が維持できない。今はどうして対応しているのだろうか。イスラム圏でも寿司は増えている。すでにガリ生姜は日本産でないと所から出ている。
ハラール食品とは、イスラームの教えに則った方法で製造された食品を意味します。 コーシャとは、ユダヤ教の食べ物に関する定めに合致した作り方をした食品を指します。農林水産省でもHPで詳しく書いてあって、イスラムとユダヤの宗教知識の無いものは、認定された商材を使うほうが良いと考える。素材の中身と商材の製造行程上の宗教的過程も厳密に要求される。
 知れば知るほど日本とユダヤ・イスラムの知識は披露できない。従って不意打ちと言ってイスラエルをウクライナの様すぐに支持することは出来ない。
 パレスチナの問題はどんなに新聞和平の見込みも、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地エルサレム が狭い地域にあって、その帰属問題でいつも和平が遠ざかる。
 藤井八冠となった王座戦は日本経済新聞が主催者であった。せいぜい一面トップでなく隅だろう。

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クレヨンしんちゃんの行動は親は虐待 条例の断念

2023年10月11日 | 宅老のグチ
埼玉県春日部駅はクレヨンしんちゃんの駅で児童虐待と見なす条例が出来そうだったが、反対が多すぎて断念になったようだ。
この条例を見ていると、未完成条例で周知とそれに伴う予算等の準備がなされていないので、児童虐待防止より、埼玉県での出生抑止化、埼玉県での幼児は育てられないと方向に行く気がする。日本の緩やかな児童監視は根本が崩れると一挙にアメリカや中国の様に学校送迎等の親の関与が必要となる。
 初めてのお使いという訓練も児童放置とか虐待になる。これは日本の村世界から来ている風俗で外国からだと違和感があるかもしれない。島国日本は簡単に異国に出れない。
 低予算で児童を監視するには、消防団等の公費により支援と保険制度が必要となる。行政が関与するとそれだけの覚悟が必要で埼玉県議会はそこまで考えていない男性議員の声が大きかったと思われる。子育てはしていなかった議員と思われる。エリ-ト男子による福祉活動支援と思った。議員報酬は県会議員なら多額となる。条例提出の時期が準備不足で早すぎた。
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寒い 冬支度

2023年10月10日 | 宅老のグチ
9日朝起きて新聞を取りに行くと小雨で寒い。これで一日の日程が冬支度と外に出ないことの決断。それでも図書館からのメ―ルが来ていて借り出すために出る。最近は江戸末期の塩に関する本を読んでいる。ある程度読んでから本所吾妻橋のタバコと塩の博物館で本格的に調べる予定。検索していたら福島県郡山市で石井研堂のイベントがある。見に行きたいが一か所だけでは物足りない。二本松と宮城県と岩手県に行ってみたい。頭の中の旅行は費用も掛からず、どこにも夢見る。今の所味覚に夢はないが、老柴犬は夢の中か寝ながら口を動かしている

 ふと 昨年コロナ下で101歳の老衰で亡くなった母のことを思い出す。デイサ-ビス以外では家族以外の人と話すことは無くなっていた。多くの知人も同じの年の人もいなくなった。孤独感があって、孫も自立していて、昔話の繰り返しで、気のない返事でいつも口癖のように死なせてくれと言っていた。日に一回ということはなく聞き飽きていた。あまりしつこいくらい言うので、息子を犯罪者にすることを望んでいるのかと言ったこともある。気が付いたようで黙っていた。自分が介護される状況になるとこのようなこともある。
 今日久々に歯医者へ行く。口の中が違和感があって、調べると金属で保護されていたところが欠けたようだ。自分の老化が進行中。

 バブルのはじけつつある中国の対策がもどかしい。先例のある日本を研究していても、研究の分析がどうやら日本の学者から聞いて対策しているように見える。従って庶民のバブル時の心を見過ごしている。中国の秋の連休で人出は多かったが期待した経済効果が無いように見える。バブル崩壊後の日本は家がまだ高く、さらに就職難も見えていて、また預金も金利が下がるし、デフレとなって焦って家を買うより、会社等の存続が気になっていた。すると使うより預金となる。今の中国の預金の伸びが大きい。将来不安なのだろう。
 日本に逃避している中国小金持ちの世界は隔離したタワマン世界の中で、格子による出られない牢獄でなく日本の中で人生の時間を消費している。もったいない。
 冷静に見ると、テレビで知ったかぶりしているコメンテ-タは高額収入のある人で引退しても過去のチヤホヤが忘れられない。そんな人がコメントで物価高で困窮している老人のことを語ってもチョットずれている感がある。そこでは収入が減っても付き合いのレベルが落とせない高齢者がみえる。これは江戸時代末期の幕臣のように見える。交際費と砂糖消費が異常だった。日本の甘味は旨味でひらがなで検索すると甘味と出て来る。中国のデフレはこれから始まる。日本の凋落は配送料がタダから来ていて、タダは値上げできない。これは吉野家の牛丼についている紅ショウガから感じる。タダ物のは品質が落ちても苦情は来ない。食べないだけ。配送のタダは買いに行けばよい。雪の時ピザ屋が忙しい。取りに行けば二枚なのに。
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豊洲移転の5年で想う

2023年10月09日 | 築地市場にて
5年前の10月6日に築地市場の営業が終わった。最後の築地市場の水産部の店舗移動はいつだったか忘れたくらい昔と頭の中に記憶が残る。店舗移動は水産仲卸だけの行事で4年に一度あった。豊洲は築地市場と違って形が整っていて予想だが一斉の店舗交換は無いと思う。
 水産仲卸の店舗移動は自分がいた時に2回ほど記憶がある。移動日は5月の3連休で新店舗開業日は5月6日となる。買い出し人が地図を手にして今までの仕入れ先を巡る。店舗一斉移動のテレビ番組を見たがこれで落ちぶれる仲卸もあれば復活する仲卸もある。それによって従業員の店舗移動もあったと思われるが語られることはない。雇い主にとっては不祥事だろう。
この店舗移動の大義名分は店舗の場所による不公平を無くすという理由だった。バブル前に1600ほどあった水産部仲卸は最後は600程となり今では460と言う。神田にあった青果仲卸が大田市場に移転した時に、自分と神田の漬物業者と雑談した時、神田の業者は期待していたが自分は大手は大八車的運搬からフォ―クリフト使用で時間が減り、今まで営業できない所に手を出すからますます大きくなると言った。なんだか納得がいかないような顔をしていたが一番影響があったのが築地市場の青果部だった。東京の南の地区の八百屋の大口顧客が渋滞の無い大田市場に仕入れ先を変更した。東京都の統計デ―タを見ていて大田に移転するまで神田が3で築地が2の割合だった。ところが今では2対1の割合となって大手量販店の青果は大田市場になってしまった。それゆえ豊洲移転については青果部は表向きは移転に難色を示していたが、実際問題として築地の設備では、産地で予冷したレタスが築地で冷気がない所に置かれ、大田経由のレタスと痛みが一日以上の差があった。
結果は豊洲市場を営業している生命保険の女性から、水産と青果の差が激しいと言われた。どうも青果部の要望は無茶な設備要求以外は東京都からすべて認められた気がする。水産仲卸は移転反対派が多く、設備の要望を東京都の人が来ても、移転設備構想を考えてなく、使い勝手の悪い設計のようだ。素人が考えてもマグロの業者、活魚の業者、貝類、佃煮、かまぼこ等々の必要な設備が異なる。そこに衛生と問題があって、閉店後に閉めるいう世間の常識が加わる。さらに銃刀法も出るとは。だれも築地と同じと思っていたのが個別に今の法律と条令が来る。マグロをさばく包丁は長さが2mもあって、それを研ぐ業者が1ケ所に纏められて揉めていたと聞く。どうなったのだろうか。
 もう5年経った。そこでさらに中国の汚染水禁忌で香港中国が消えた。ただ世間の協力で通過するしかない。東京の水産部の困難な歴史は聞くに堪えがたい。明治の10年代のコレラでは夏場の水産部は休業状況だったようだ。衛生知識が入って対応策が取られたが戦後でもコレラはあったし、放射能もあった。原爆マグロも築地で廃棄して、引き取るところが無く築地市場に埋めた記録があって、掘り出しても放射能は検出されなかった。
 もう5年まだ5年。この5年でコロナもあったし、中国のいやがらせもあった。それも間も無く終わる。次は戦争の予感がする。それとも豊洲不動産バブルか?来年の温浴施設で観光客混雑か?だれも予期せぬことがおこりそう。現役でないので不祥事でお詫び会見もしないで引退した。不祥事でジャ二ーズのタレントが謝罪会見するとは今年の6月まで誰も思っていなかっただろう。
 東京都のいつもの言い草で(都民の貴重な税金で中央卸売市場を運営し、安価な賃料であるので日本国民の信頼を得る仕事をするように)と年頭の市場長の定番の挨拶がある。この時は都民でなく国民となる。これが築地人の天狗意識の元となる。世界の常識は築地・豊洲を超えている。世界の常識の無知が豊洲移転の厚生官僚の危機感だった。温度管理は国際公約だった。このことに言及していたライタ―は見かけない。多くはノスタルジ-であるが魚河岸の不祥事の歴史は衛生の部分が目立つ。
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浦賀の千代ケ崎砲台跡の見学で想ったこと

2023年10月08日 | 宅老のグチ
横須賀市西浦賀の千代ケ崎砲台跡が少し前に公開されたことを先日訪問した浦賀ドック跡で開催されている幕末イベントで聞いた。このイベントで千代ケ崎行きの整理券が配布されていて、家で調べると歩いてゆけるのではないかと考え向かった。
千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により造られた平根山台場跡地に隣接し、1892(明治25)年から1895(明治28)年にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台だった。横須賀市は無料公開していて、さらに無料のガイド付きで砲台見学が出来る。土日のみで普通に公開すればよいのにと思っていたが、実際にガイド付きで数人の人とめぐると、ガイド無しでは危険な部分もあった。大きな砲弾を移動させる穴。砲弾の重さは一つ200kgを超える。
 6基の榴弾砲があったが先の戦争で金属供出で大砲も扉の金具も撤去されていてた跡が見える。砲弾の飛距離は7Kという。これは浦賀水道の中間まで飛ぶという。ガイドの人に聞くと反対側の房総半島には砲台はない。その理由は浦賀寄りが水深が深く、ほとんどの船が浦賀寄りを通るという。
 千代ケ崎砲台の前に燈明堂を見学していて案内板を眺めていた。慶安元年(1648年)幕府の命令で作られ明治5年まで役割を果たした日本式灯台で「燈明堂」と呼ばれていた。「燈明堂」は浦賀港に出入りする船にとって灯台の役割を長い間担ってきた。燈明堂海岸は横須賀市浦賀町に残された昔の面影を残す横須賀市指定史跡でもある。燈明堂の所に死者を弔う墓石のような碑があった。鈴ヶ森の首がさらされている写真は今でも残っている。ある人の燈明堂に関するブログを読んでいたらバブル期にこの地域が手つかずに残ったのはこの地の亡霊が妨げたようだ。
 砲台見学の後浦賀駅に歩いて向かったのだが特養の太陽の家の出口の所に未開発の工事予告看板があった。気になって見ると平成5年8月の申請でホテル及び商業施設となっていた。もう30年近く工事が止まっていて、草が生い茂っている。
 燈明堂と千代ケ崎砲台跡は平根山台場と言って砲台があった。天保8年1837年に日本人漂流民を届けると言ってアメリカ商船が浦賀に停泊し、浦賀奉行と交渉したが、平根山台場から砲撃され退去した。モリソン号事件と言う。この平和交渉を無視した行為を批判したのが高野長英だった。今に伝わる『戊戌夢物語』である。この当時の浦賀に異国船が来ていた時の絵があって、舟が多くの漁船等に取り囲まれていて、東京湾内に入らないようにしていたので砲弾が当たらないとわかっていても動けないので逃げたと思わる。帆船は風が無いと動けないがペリ―のサスケハナ号は蒸気で外輪を回して前後に動くことも出来る船で驚いたようだ。また大砲の数もすべての浦賀の大砲よりも多く、さらに飛距離もあった。 
 千代ケ崎砲台見学後にガイドの人に浦賀駅まで歩くとどのくらい時間がかかるかと聞くと1時間弱と言う。3Kmという表示があった。バスは久里浜―浦賀駅行きは1時間に一本位なので歩いて浦賀ドックのイベントに行き、中島三郎助と遊ぶ会の人と福神漬の事で話す。
 歩数は17000歩だった。すんなり千代ケ崎砲台行きなら40分も歩けば着くが愛宕山とその下の浦賀奉行所跡地を回ったので時間と疲れが残った。中島三郎助の会の人とはなしたとき、浦賀のドック跡地が無償で住友重機械工業から横須賀市へ譲られたということの真実を知った。これは築地市場の豊洲移転の問題騒動の余波だった。浦賀ドックの地下には汚染物資があって、豊洲の東京ガス跡地と同様の処理を行っても、日本の今の技術では減っても取り除かれない。豊洲の様に跡地が高価に転売できるのは浦賀のバブル崩壊から期待できない。西浦賀のヨットハ-バ-隣接のリゾ-トマンションの70m2の中古価格のサイトで調べると築37年で2千万円強だった。今ならリモ-ト勤務が出来そうだがバス便が少なく、浦賀駅から歩くと30分はかかると歩きながら思っていた。
 横須賀市は汚染除去をしないで、有効活用を狙っているがまだ知恵のある人がいないようだ。だが今回の浦賀のイベントを見ていると、浦賀の街おこしに若い人の行動力はまだ希望があると感じた。歴史を今風に解釈し、観光イベントとする。ただ見るだけでなく、飲食と体を動かす。
 横須賀市は居住人口が減っていて、高齢化で坂のある町から人が去り、無住の危険な家が増えている。まだ浦賀駅寄りのドックは住友重機械工業が持ち主のようだ。

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黒船来航170年で中島三郎助と福神漬の縁

2023年10月07日 | 福神漬
今横須賀市浦賀で黒船来航170年のイベントが開催されている。高校の歴史の本が2022年から替わって、近代日本史と世界史が混じった歴史を教えるという。歴史総合(高校新課程) 
 日本史教育で近現代の所になると学校行事等で教えることもなく卒業する。
 海外旅行が普通に出来るようになると日本の若者がアジアで過去の歴史を知らないことの不都合が目立ってきた。そこで学校で日本近代史と世界史を混合するという目的で歴史総合となったという。
 日本史の場合は黒船来航からという。その黒船に最初に乗り込んだのが浦賀与力の中島三郎助であった。そして明治維新の終わりとなった箱館戦争の最後の戦いで中島隊(浦賀の人たち)が戦死し、翌日に休戦となり戊辰戦争は終わった。新選組の土方歳三 は中島隊が亡くなる前に死去したという。この新選組の様子をスケッチした新選組隊士がいる。鳥羽伏見の戦い以後に新選組に参加した三多摩の中島登が敗戦後の獄中で描いた絵が残っている。有名なのが土方の絵であるが土方の洋服姿の写真もあって、スケッチに中島登の想いが今に伝わる。
 市立函館博物館 で戦友姿絵を見ることが出来る。この中に中島三郎助父子の絵もある。なお箱館戦争に参加していて、福神漬関連の文献に1人出て来る人物がいる。河鍋暁斎翁伝.  飯島半十郎(虚心) 著. 福神漬を命名した梅亭金駕は別名で暁斎画談と言う本を出している。
 福神漬を命名した時の経緯を日本缶詰協会の会合で話したのが鶯亭金升(長井総太郎)だった。このことは京橋の明治屋が従業員のための教本に福神漬が載っていて、文献として缶詰時報2号と大日本洋酒缶詰沿革史 である。

 鶯亭金升の父、長井昌言はペリ―来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の三男である。その長井家の墓がいま五反田の本立寺にある。本立寺の住職は戦友姿絵を描いた中島登の子孫になる。住職と話した時、長井家が明治の終わり頃四谷の寺が移転することになった時、墓を五反田に移したという。当時の感覚では五反田高輪台は郊外という。
 戸田伊豆守氏栄と旗本長井家の養子斡旋したのが筒井政憲でペリ―来航時の米国国書を翻訳した人である。筒井と長井家は四谷二番町の近所だった。今の日本テレビ麹町のあたりとなる。筒井家に出入りしていた松林伯円は南町奉行だった筒井から色々なことを聞き出し、講談としたようだ。後に歌舞伎の演目になった物もある。
 

 
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汚染水の国 個人で中国一番の金持ち

2023年10月06日 | 宅老のグチ
福島での汚染処理水の排出の二回目が始まる。先ごろ中国の長者番付で聞いたことない会社の創業者の名前があった。どうやらミネラルウオ-ターの会社のようだ。日本を旅行している異国人のユ-チュ-バ-の動画をよく見ているが、日本各地の水道水が基本的にはそのまま飲めることを知らないようだ。多分ホテルにはミネラルウオ-タ-が冷蔵庫に用意されているし、コンビニと自販機が日本中にあるので、水道水が飲めることを知らないようだ。最近日本のテレビ通販で飲料水の宣伝があって、ネットで調べると通常の水道水で普通に飲めるのが世界で9か国と言う。日本も入っているが、日本の通販会社の宣伝では、マンションの貯水槽の管理が悪いと汚染があるという。宣伝では不適の地域は大都市が多い。多分都市の人しか水をお金を出して購入しないのだろう。確か昔の築地市場にフランスのエビアンが売られていて違和感があった。
戦前は都会を除くと井戸水と川の水を漉して飲んでいた気がする。しかし、ペリ―来航後に交易が盛んになり、外国との時間距離が短くなると、新規の感染病が交易都市から伝染するようになった。コレラは激しく下痢を伴い、コロリと言われるくらい急速に体調が変化して亡くなる。そこでコロナの対処方から下水の管理となった。東京都の町田市が地図だと変に東京から飛び出ているのはコロナで下水が神奈川県だと管轄外になるためと言われている。
 食品(水を含む)は恒常的に口に入れるものの安全が確保されねばならない。東京の様に日々違う産地の食品を食べている人は多少の害のあるものを食べてもへいきだ。ただ例外があって腐敗したものはよろしくない。水俣病の判決があって、やはり同じ産地の汚染した魚等を継続的に食べれば発症する。同じ魚でも福岡市民の発症が見えないのは量も少なく、産地も変化していたとおもう。福岡市民でも良く検査すれば体内に水銀の残っている人が発見される気がする。
 汚染水を日常的に川の水のとしている国は汚染に敏感かもしれない。中国の今の政権下ではミネラルウオーターの水源は少ないので安泰だろう。苦しくなれば川とか農地の汚染を騒げばよい。水は重い。従って人の手で運ぶには環境問題ではマイナスになる気がする。
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朝からショボショボと雨の音 水琴窟の夢

2023年10月05日 | 宅老のグチ
起きる前に雨の音。寒い。これでは老柴犬の散歩は中止としてまた寝る。でも寝れないので雨の音を聞きながら、水琴窟の事を思い出した。
家で漬物業をしていた時、得意先から回収した樽を洗う水槽があった。その水槽から排水すると水の量が最後に少なくなって、ポトン・ポトンと残響音があって、きれいな音だなと思っていた。その音の呼び名が茶席の手洗いの水が落ちる所に用意されている仕掛けと同じだった。水琴窟と言う。この音も築地市場で一回聞いたことがある。排水桝に貯まった水に水滴が落ちて、マスの壁に音が絶妙に反射して良き音が出ていた。こんなところで茶席の音が聞こえるとは思ったこともある。記憶にある音は多分70年前の音となる。
 水琴窟とは日本庭園で、地中に伏せた瓶(かめ)に注ぎ落とす水が、琴の音を思わせてかすかに響くようにした仕掛け。周りが静かな時に微かに聞こえる。
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築地市場解体工事記録の本を読む

2023年10月04日 | 築地市場にて
中央区京橋図書館が移転して、本のもり中央となった。この地は水没の危険性ががない。前の中央区役所の地下と言う所よりましな位置となった。武蔵小杉の水没事件の時、川崎市と大学の図書館が水没した。後の検証で水没の危険があるところだった。
築地市場解体工事記録
[東京] [豊洲市場・銀鱗文庫]
[2022]
 都営浅草線宝町駅で降りて、歩く。図書館はJRと日比谷線八丁堀駅の隣にある。この地は戦後まで堀が多かった地域で、中央区の施設も堀の埋め立て地となる。
 図書館の二階に郷土資料室があって、いつものように築地市場の本棚に行く。今は豊洲へ移転後4年も経って、新規の本はあるのだろうかと眺めていて、あるのはコロナ以前の築地場外飲食店物しかないなと思っていたら、背表紙がしっかりしていた本があった。
 廃線マニアが喜びしそうな、築地市場解体物の本。読んでいると水産仲卸の大通りの通路の天井に穴が開いていて、人気のない時に舗装通路に水玉のような光の円がある。もうこの風景は忘れていた。いつもは仕事で天井の穴を気にすることはなかった。
 水産仲卸の店舗の下の石畳は水産部の人はピンコロ石と言っていたようだ。今は次の再開発まで埋まっている。著者が言うには2020東京オリンピック開催という名分で十分な地下調査をしないで壊した部分もある。当然だが何万もいると言われたネズミの住処の調査はない。次の解体は浜離宮との間に築地川上の仮設道路撤去だろう。この川と言う名前の付いている場は銀座ヨットクラブと言ういかがわしいこともあった。大型ヨットには十仁病院と言う美容整形の広告があった。ここが奇麗になると江戸の昔に戻る。後は江戸城再建は難しいが浜離宮の施設は木造で再建できるかもしれない。今はバリアフリーということで昔のままの再建は難しい。
 2024年の春に旧築地市場再開発の企業が決まる。築地場外市場はほっとするだろう。それにしても図書館の築地市場のコ-ナ-にある豊洲地下汚染本は寂しそうだ。今でも汚染水が出ているのに誰も気にしないで豊洲直送と言って魚を売っている。この騒動で無駄な金が数兆円消えた。当然このことで利益を得た人もいる。

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福田村事件の映画評を読んで気が付いたこと

2023年10月03日 | 宅老のグチ
9月1日に日本全国に公開された福田村事件は最初の公開時は40程で今は170程に公開映画館が増えている。関東大震災物の映画を6月頃から見ていて、福田村事件の広告も見ていたが、観たい映画とは思っていなかった。
 もらった映画のパンフレットに福田村(現野田市)と書いてあって、いろいろ福神漬とか叔父の出身校が野田市にあって、急に気になって映画を観ることになった。1日は東京ではテアトル新宿で舞台挨拶があって、9月1日は予約で満員。そこで渋谷のユ―ロスぺ-スへ行った。結構朝早く行けば評判の高い人気の映画でもないので初上映を選んだ。予想外に混んでいて145席の内で空いていたのは10席もなく、長い映画上映中に左右の人とくっついているので窮屈だった。
 映画の半分以上は最後の場面の暗示となることを終映後に知り、電気がついて多くの人が出た後にやっと立って帰った。映画館のロビ-には次の上映を待つ人で混んでいて、このような映画を観る人がこんなにいるのかと思った。

福田村事件の映画公開からひと月ほど経って、映画評を見ているとやはり普通の人は心にショックを受けただけと感じる。自分の様に調べようとする人は少ないが福田村事件の本は売れているようだ。
 千葉県史と柏市史には少しは震災時に起きた虐殺事件に触れていても扱いは少ない。しかし野田市史にまだ見つからない。
 この福田村事件の起きた関東大震災の直前に第一次野田労働争議があった。大正10年頃から全国で労働争議を経験した労働運動経験者が野田市に集まってきた時期でもあった。割と景気の良かった野田市に鉄道工事などの仕事が増え、朝鮮人労働者も存在していた。朝鮮飴の話はその労働者へ売っていたのだろう。今の日本でも日系ブラジル人が働いている街にはブラジル食品の店が出来ると同じである。
 野田市は左右に利根川と江戸川に挟まれ、隣に行くには船を乗るしかない。その船の乗るところで逃亡者と勘違いされ、留め置かれた時、隣接の村からが応援が来て虐殺が始まった。後に殺されたのが日本人とわかり非差別部落の人だった。裁判が始まり、判決が出た。軽い判決で大正天皇の崩御後の恩赦で釈放されて事件は忘れ去られた。
 この映画の見方は悲劇と言うことでなく、今後もこの様なことが起きることを示している。
 ごく最近の事例ではジャにーズのセクハラ問題で、今はほぼ黙認することは人道に反する行為と認定されている。6月までは誰がこのようなことになると予想していたのだろうか。今は京都のアニメ会社の放火事件の裁判中でさらに宝塚でも事件になりそうなことが起きている。清く正しいと信じていた世界がチョットしたことから崩れる。多分黙っていれば世間は75日過ぎればと忘れると思っているがネットの世界は消えないし、それにフェイクニュ-スも消えない。
 区の図書館の福田村事件の本の蔵書数が9月初めに予約した時は4冊が今では12冊と大幅に増えて、最初の予想では来年に読めると思っていたが、何とか11月には読めそうだ。
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バブル崩壊後の想いで

2023年10月02日 | 宅老のグチ
日本でバブル崩壊と記憶に残るのはやはり東証の株価が89年末に4万円までいきそうになり、翌年の正月からどんどん下がったことが記憶にある。
 人によって記憶の時期が異なるが、10月からの日経の私の履歴書では1990年2月26日の暴落で4.5%下がった時のようだ。それから約20年間ダラダラと下がり続け、失われた20年となり、2009年3月に7054円となり、最高値からの率だと18%ほど位となる。株の格言をすべて無視した下げであった。追加のリ-マンショックで10年余分と低迷が続く。
 この低迷した30年間はひたすら築地市場の移転問題を考えていたので余分な記憶が消えている。月末とか5・10日に銀行と道路が混んでいたのはウソのようだ。
 ようやく落ち着いた日本にコロナがやってきて、また3年自宅軟禁となる。随分無駄な時間を使った。残り時間を考えると動ける時間が少ない。
 中国が今不動産の下落で注目されているが、色々な事情が日本と違っているので日本化とは言えないが、言えることは不動産がずっと上がることが無いと知ったことだろう。それでも日本バブルの後下がりつつの時でも、不動産業者は年齢を言って、下がるまで待っていたら家は買えませんよと言っていた。
 家を買うことは人生でのギャンブルと言える。そして日本の多くの人は勝ったと思っているが、本当に勝ったかどうかは家を売った時に決まる。買い手がいなかったら負けで、相続で子孫に渡しても、判定の先送り。人口の減っている日本は殆どの人の最後は消え組となり、草生す墓に無住の寺。
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開国の地 浦賀のイベント行き

2023年10月01日 | 宅老のグチ
グ-グルアラ-トと言う機能に中島三郎助の名前を登録してある。26日に中島三郎助のイベントが10月9日まで京急浦賀駅で降りたところにある浦賀ドック跡地で開催しているという。
 ペリ―来航時に黒船に乗り込んだ中島三郎助は副奉行と地位を偽り、通詞の堀辰之助とともに乗り込んだ。ペリ―等に気に入られた香山栄左衛門 は浦賀の与力たちに妬みをかい、閑職に回された。香山の死後に子息の手で香山の功績を叶神社に石碑を建てた。この石碑を観に行きたいと思っていたが機会が無く、このイベントのついでに行くことにした。アメリカとの交渉は香山の功績があるのに、あまりにも米国人と親しく振舞うので日米交渉の場から戸田浦賀奉行と香山等の浦賀組が外された。今は横浜が繁栄しているが、JRの駅の横浜と開港した時の横浜の位置は違っていて、JR桜木町駅が文明開化の地となる。この地に開港の港を決めたのが香山の案内で米国人の了解を受けたようだ。足して二で割る精神は米国人には理解できなく、幕府は東海道から離れたところに開港という考えを持っていた。従って伊豆半島の下田は開港地として選ばれたのが離れているということになる。長崎は日本の外れ、箱館は北海道。しかし米国人には補給が出来れば同じと言う。開港の地が横浜であれば良くて、神戸が選ばれたのは政治の中心が朝廷と思われた時期からだろう。さすがに初期の開港地に神戸案は出せなかったと思われる。神戸開港が慶應3年12月なので大政奉還後だろう。この後神戸の居留地を通過した大名行列と異国人との騒動があって、京都政府が日本の武士を切腹させた。神戸事件。これで新政府が攘夷を行う名目がきえた。これは岩倉具視の策と言う。尊皇討幕と言うことから転換し諸外国が中立になって、錦の御旗で幕府があっという間に崩れた。そこから抵抗していたのは江戸庶民と浦賀の地場役人だった。
 中島三郎助は天保の改革で株仲間の禁止措置で西浦賀の塩商人が苦しくなった。同様に江戸でも塩問屋の流通から、棒手振商人が塩を扱い、流通網が乱れた。《「ぼうてふり」の音変化》魚・青物などを、てんびん棒でかついで売り歩くこと。移転前の築地市場で見たことがある。天秤棒で場外の料亭に運ぶ。
 浦賀の塩問屋から依頼された中島は水戸藩に西洋の船の作り方を教え、交換に水戸藩の旗を浦賀の塩輸送船に許してもらった。IHI石川島造船所の始まり。この辺りで行徳の塩仲間と浦賀与力衆と交流が あって、戊辰戦争の最後の戦闘で中島と行徳塩商人喜兵衛が戦死し、幕末の混乱が終わった。従って中島三郎助が(義)と言う言葉で江戸時代を終わらしたことになる。
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