■ この3日間、酒席が続いた。
9日は年末まで続くある仕事が一段落したのを機に行われた関係者の慰労会、10日はあるプロジェクトの祝賀の宴、そして昨日(11日)は菩提寺のお施餓鬼会(おせがきえ)の後の慰労会。長年高野山大学の教職にも就いておられた名誉住職の法話を拝聴。
実は今夜も24会(高校の同期生の親睦会)の飲み会が予定されているが、さすがに4夜連続というのは肝臟にも財布にもきつく、パスすることにした。明後日には33会(中学の仲良し同級生の集まり)がある。
今月のアルコール摂取量は既に定量オーバーだが、読書量はまだまだ不足している。ということで、今日『ぼくの住まい論』 内田 樹/新潮社を読んだ。道場兼自宅というか、自宅付きの道場というか、その新築を通じて考えた住まい論の展開。『日本辺境論』の内田氏の論考は教育にまで及ぶ。
以下 なるほど確かに、という指摘を備忘のために記す。
**「家」は何よりもまず「集団内でいちばん弱いメンバー」のためのものであるべきだとぼくは思います。幼児や妊婦や病人や老人が、「そこでならほっと安心できる場所」であるように家は設計されなければいけない。家は、メンバーのポテンシャルを高めたり、競争に勝つために鍛えたりするための場じゃない。(中略) 家というのは、外に出て、傷つき、力尽き、壊れてしまったメンバーがその傷を癒して、また外へ出て行く元気を回復するための備えの場であるべきであるとぼくは思っています。**(16、17頁)
**そこに住む人間が家と対話を始めることで、家そのものがそれまで持っていなかった語彙や音韻を響かせる。(中略)奏者の技術や感覚によって楽器の出す音色が変化するように、住む人がその空間をどんなふうに使うか、その用途や使い方に呼応して建物がその潜在能力を発揮する。(中略)そういう能動性は、申し訳ないけれど、大手の住宅会社が作る既製品的な住宅には感じとることができません。それらは人間が住む前に、商品としてすでに完結しているからです。(中略)だから、住宅雑誌のカメラマンが家の撮影をするときには、住民の生活を意識させるものは徹底的に排除されます。(中略)人間がそこで生活すると「汚れる」から、なるべく人間には住んで欲しくないというようなことをアピールするような住空間をどうして人々はあんなふうにありがたがるのか、ぼくにはわかりません。**(65、68頁)
確かに。
建築雑誌に掲載される住宅には生活感など全く感じられないものが多い。酔っぱらって帰ってきたらケガをしそうな住宅も紹介されている。
生活が始まったら「作品」として成り立たなくなってしまうというのは、建築としての弱さの露呈に他ならない。生活が始まって、汚れようが傷がつこうが動じない住宅、そして人が写っている方がサマになる建築を創らなくては・・・。
**「電気の(あまり)ない生活はぼくにとっても、ひとつの理想です。経済成長論者は眼を三角にして怒り出すでしょうけれど、ぼくはエネルギーを「地産地消」できるような社会制度にこれから日本はシフトすべきだろうと直感しています。(中略)どうやって原発以存の体質から脱却するのか。そのソル―ションの一つが「低エネルギー消費社会」シフトです。**(76、77頁)
この言葉の実現可能性を問う意味はそれほどない。この国の目指す到達点として提示されていることの意義を評価すべきだと思う。
**学校というのは「母港」なんだと思います。教師は灯台守りです。暗い海に出て行った人たちはときどき振り返って母港の灯りを確かめる。(中略)母港のある船がいちばん遠くまで航海することができる。冒険の旅を事故なく終えることができるのは「帰ってくる場所」を持っている人間です。**(165、166頁)
**10年ほど前に高校を卒業した娘が東京へ行くときに、ぼくが娘に言ったのは二つだけです。「金なら貸すぞ」と「困ったらいつでも帰っておいで」。親が子どもに向かって言ってあげられる言葉はこれに尽きるんじゃないでしょうか。泊まるところがなかったら、いつだって君のためのご飯とベッドを用意してあるよ。この言葉だけは親はどんなことがあっても意地でも言い続けないといけないと思うんです。**(16頁)
学校も家も母港としての役目を果たすべきという指摘。そう言えばかぐや姫の「妹よ」にはこんな歌詞があった。
♪ 妹よ あいつは とってもいい奴だから
どんなことがあっても 我慢しなさい
そして どうしても どうしても
どうしてもだめだったら 帰っておいで 妹よ
これほど優しい呼びかけはない、ということだ。
**知性的・身体的な潜在能力をどうやって開花させ、引き上げてゆくか。今の教育制度はこれをもっぱら利益誘導によって行おうとしています。成果を数値的に格付けし、格付け上位者には報酬を、下位者には処罰を与えるという「人参と鞭」システムです。自己利益の増大を求める欲望と、処罰を恐れる恐怖心が人間を成長させると、この教育方法の推進者たちは信じています。それはずいぶん貧しい人間理解だと思います。
ぼくの経験が教えるのは、若者たちの能力が上がるのは、報酬や処罰によってではなく、「学びたいことを学び、やりたいことをやりなさい」と言ってくれる年長者の支援があるときです。**(172頁)
確かに。
まあ、数値的格付けという方法が一番楽なわけで・・・。でもそれは意味がない、それではダメだということはとっくに明らかになっているはずだが・・・。