透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

アトリエ・ワン展  週末東京-5

2007-03-11 | A あれこれ



ギャラリー間は国立新美術館から程近いTOTO乃木坂ビルにあります。そこで開催中の「アトリエ・ワン展」をちょっとのぞいてみました。

塚本由晴と貝島桃代のユニット、「アトリエ・ワン」。なかなか独創的な住宅の設計をいくつも手がけているふたり。

手塚貴晴と手塚由比 「手塚建築研究所」こちらも開放感に溢れた大胆な構成の住宅を設計しています。

で、今回観てきたのは「アトリエ・ワン」。私が人の名前を間違えるのは、昔からのこと。今でも勤務先で所員の名前をしょっちゅう間違えます。○本くんに向かって□本くんというような間違いが多いのですが、Tさんに向かってYさんと、全く関係のない名前を呼ぶこともあります。

塚本由晴と手塚貴晴  そんな私ですからこのふたりは頭の中では完全にスクランブル状態。おまけにパートナーの貝島桃代と手塚由比、全く似ていない名前ですが、写真で拝見するかぎり雰囲気がよく似てます。

週末の東京、友人と再会して話をしていて、混乱。

ところで、展示作品の解説文「いきいきとした空間の実践」にグローカル・デタッチド・ハウスという言葉が出てきていました。なんとも??な言葉です。この人たちの作品のことは勉強していませんので尚更分かりません。

グローカルってグローバルとローカルをひとつにした言葉かもしれません。文脈からなんとなくそう判断できます。デタッチドはしばらく前に読んだ茂木健一郎さんの本『「脳」整理法』に出てきた、ディタッチメントの関連語なのかもしれません。グローカルでデタッチなハウスってどんなハウス?

展示されていた模型をじっくり観察すればこの言葉の意味を理解することがあるいはできたかも知れません・・・。

子供のころ夏休みの宿題帳を集中して一気にやってしまうことが好きでした。もちろん休みの始めに。で、今回は週末東京を一気に書きます。


 


美に関する本2冊  週末東京-4

2007-03-11 | A 読書日記

 

● 前稿で、新宿の紀伊國屋書店について書いた。購入したのは「美」に関するこの2冊、ネットで美学について検索していて見つけた本。『形の美とは何か』三井秀樹 はNHKブックスの棚で簡単に見つかった。『脳は美をいかに感じるか』は著者も出版社もメモしてこなかった。

自分で探しようがない。カウンターで若い店員に書名を伝えたところ、直ぐに1冊もってきてくれた。すばらしい!!頭に入っているではないか。さすが紀伊國屋書店の店員。最近では書店員は本をパソコンで検索して探すということがむしろ多いのではないだろうか・・・、確実、合理的。でも私はこういう店員のいる書店が好きだ。

さてこの2冊について。『形の美とは何か』 宿泊したホテルで前半を、帰りの電車で後半を読んだ。先日読んだ『美の構成学』中公新書 と内容的に重なる部分が多いのは同じ著者だから仕方がない。

「繰り返し」から入りこんだ美学という迷宮的な世界。秩序づけられた構成だけが美学ではない・・・。知性、左脳だけでは知覚できない美の世界。虫の声を美しいと聴く感性、秋の紅葉を美しいと思う感性。右脳が感じる美の世界。この本でも最後の第5章を「複雑系の美学」に割いている。日本文化と複雑系、茶の湯とフラクタル、感性とフラクタル、主な小見出しを拾うとこうなる。

分析的になればなるほど本質が見えにくくなることがある。自然の美、複雑な対象の美を全てフラクタル理論で解き明かすことができるのかどうか・・・。でもこの著者はあくまでも分析的な手法で美にアプローチしていく。

**リズムは本来、音楽的な時間軸に添った道律・旋律を表すが、一定間隔に基本の形が並んだような造形的な視角上の効果にも同じような現象が生じるのである。これを見た場合、美しい音楽を聞いたときの印象にも似た快感が生じるのである。このくり返し(反復、連続性)によって生じる造形的快感を、古代の人々は本能的に会得し、これを装飾することを喜びとしてエンジョイするようになったわけである。**

「繰り返しは美しい」ということの傍証はもういい。文献を探せばいくらでもこの手の指摘が見つかるだろう。その先の世界に進んでみよう・・・。

『脳は美をいかに感じるか』 著者のセミール・セギ氏はロンドン大学の神経生物学の教授だという。**視覚情報処理過程の成果に立って、絵画の創作や鑑賞のメカニズムを紹介したもの**と監訳者があとがきで書いている。定価3,500円なり、高い本だ。難しい内容だ、じっくり読もう。積読状態からそろそろ解放してやらなければいけない本たちも机上に何冊もあるな・・・。


紀伊國屋書店観察  週末東京-3

2007-03-11 | A あれこれ






 新宿の「紀伊國屋ビル」 建築家前川國男の代表作品のひとつ、東京で生活していた頃はよく出かけました。先週末(0309)久しぶりにこの書店で書籍を購入しました。

前川さんは幾何学的な抽象形という測り得るものによって測り得ないものをつくるという近代建築の本質的なテーマや建築材料や構法の開発、さらに設計行為と組織の問題といった主要なテーマに生涯取り組んだ建築家でした。

この「紀伊國屋ビル」は都市というコンテクストにおいて建築はどうあるべきか、という重要な建築的なテーマに明快に答えています。建築は都市に対して開いていなくてはならないのだ、都市と繋がっていなくてはならないのだ、と。上の写真でも理解できると思いますが、最近の自閉的な建築、都市との関係を断ち切った建築とは全く違います。

また、内藤廣さんが自分の建築観に重ねて指摘したように、前川さんは「時間の流れの中で成熟していくことのできる建築」を創った、ということがこの建築によって実感として理解できます。竣工したのは1964年、東京オリンピックが開催された年です。いまだに健全な外壁は前川さん自ら開発した焼き物の打ち込みタイル。前川さんの後半の作品によく使われた材料です。

今回は上野の「東京文化会館」や、現在オルセー美術館展が開催されている「東京都美術館」を観察する時間はありませんでした。いつか観察したいと思います。

「オルセー」も観たいけれど会期は4月8日まで、無理です・・・。

美術館の椅子たち  週末東京-2

2007-03-11 | A あれこれ


と白」

 国立新美術館の地階の休憩スペースの椅子。偶然ですが最近変更したこのブログのテンプレートの椅子と同じです。ヤコブセンというコペンハーゲン生まれの建築家がデザインした椅子。

有名な近代建築家は皆椅子をデザインしています。椅子も建築の一部、空間構成上とても重要ですからむかしの建築家は皆自分でデザインしたんでしょう。


アトリウムの隅の椅子たち

これも有名な椅子に違いありませんが、デザイナーも椅子の名前も分かりません(え!、これ知らないのと友人の声が聞えてきそうです)。椅子の紹介文が掲示してあればいいのに・・・。どちらもデザインもすわり心地も抜群です。

黒川さんがデザインした椅子が展示してありました。オブジェとしてはいいかもしれませんがすわり心地はよくありません。展示会場内の作品ですから、写真を撮ることはできませんでした。

今回は「美術館の椅子たち」というタイトルにしましたが、同名の本があったような気がします。美術館にある椅子の写真集、こんど探してみます。


異邦人たちのパリ  週末東京-1

2007-03-11 | A あれこれ

 アトリウムに掲示してあったポスター

国立新美術館で現在開催中の「異邦人たちのパリ 1900-2005 ポンピドー・センター所蔵作品展」と「黒川紀章展」を観てきました。 

ポンピドー・センターの所蔵作品約6万点!から今回は約200点の作品展示でした。 20世紀の絵画の大きな流れを観ることができました。 

ざっくりとその流れを掴むと、具象から抽象へ、また新たな具象表現へ、そして芸術表現の多様な展開へ・・・。作品を一通り観終わって思いました、やはりわたしは抽象絵画が好きなんだなと。

ところでカンディンスキーの「相互和音」という作品に「幾何学的な形態と有機的な形態の響き合い」というキャプションがついていました。

円錐形の風除室や楕円形のキャノピーとフラクタルな曲面の外壁が特徴であるこの美術館のデザインの説明にもそのまま使える説明文です。

話題の展覧会、やはり混んでいました。本当はお気に入りの作品は時間をかけてじっくり鑑賞したいところですが、仕方がないですね。次回、訪ねるとすれば今月30日にオープンするこちらの美術館。



● サントリー美術館(070310)

見立ての手法

2007-03-08 | A 読書日記



 数日前の新聞に載ったケータイの広告。①の写真ではケータイを超高層ビルに見立てています。斬新なデザインの超高層ビルです。②の写真はケータイがビルの一部になっていますね。こういう発想は昔からありました。例えば白砂を敷きつめた庭を海に、庭石を船や島に見立てる、というように。

一見建築とは全く無関係のモノを建築に見立てると、ユニークな造形が出来そうです。生命体からイメージした都市の構想が紹介されたりもしました。

③    ④

『人間の都市』菊竹清訓/井上新書は昔の本ですが、塔状都市が紹介されています(④の写真)。かつては建築家が構想したこのような未来都市がしばしば発表されました。ちょっと写真が分かりにくいですが、これは超高層の集合住宅です。

ここで問題。この超高層の集合住宅から何をイメージできるでしょうか。ケータイから超高層ビルをイメージしたのと逆のパターンです。何からこの超高層をイメージしたか、と考えても同じことですが。

どうでしょう・・・、皮をむいた「とうもろこし」。1つの住戸をとうもろこしのひとつの粒に見立てる。こんな風に発想するとあるモノが全く違ったモノに見えてきます。建築だけでなく様々な分野に必要な発想法かもしれません。


赤と白

2007-03-06 | A 読書日記



 赤い表紙で鮮烈なデビューを果した新潮社の雑誌「yom yom」。

先日発売された2号、表紙は白でした。表紙のデザインがかわいいと人気があるらしいですね。人気作家の作品が何作も収録されているのも、好調な売れ行きの理由なんでしょう。今回も川上弘美さんの小説が載っています。

さて、今回は内容の話ではなくて、表紙の色「赤と白」について。
赤と白という色の組み合わせに最初に出会うのは「赤勝て、白勝て運動会」でしょうか・・・。大人になると、赤ワイン、白ワイン。 私はちょっと渋めの赤が好きですが、ワインを飲む機会はあまりありません。

他にはどうでしょう、赤と白の組み合わせ・・・。

そうだ、建築史家で建築家の藤森照信さんは日本の建築界を赤派と白派に分けてみせました。以前このことについては書いたと思いますが、復習です。ル・コルビュジエを祖として物の実在性を求める赤派、ミースを祖として抽象性を求める白派。 お見事!と言うほかありません。

先日、白の「yom yom」を買い求めた時、書店員さんとこの次は何色でしょうネ、と話をしました。どうでしょう・・・。次号は6月27日の発売だそうです。黄色い蝶と本、黄色でしょうか。もしかしたら次号の色を少しだけ使う、というルールかも知れません。他の色となると青か緑。

♪ならんだ ならんだ 赤白黄色 どの花みても きれいだな・・・

やっぱり黄色でしょう。   

 


「ひとり日和」

2007-03-05 | A 読書日記



 久しぶりに文学、今話題の芥川賞受賞作『ひとり日和』青山七恵/河出書房新社を読んだ。

**電車は少しもスピードをゆるめずに、誰かが待つ駅へとわたしを運んでいく。** こうして静かにこの小説は終る。 上手い、そう思った。

**20歳の知寿(ちず)と71歳の吟子(ぎんこ)さんが暮らした春夏秋冬** 小説のプロットは本の帯のこの紹介文だけで充分だろう。

週刊ポスト(3/16号)の「著者に訊け」、青山さんはインタビューにこう答えている。**人間ひとりが基本・・・・なんでしょうね。ひとりが普通の状態で、そこに誰かが足し算されることもあれば、去って元に戻ることもある(中略)自立してひとりになるには、自由も淋しさも全部引き受ける冷静な覚悟が要る。(後略)** そうなのだ、『ひとり日和』は著者のこの認識をそのまま素直に作品にしたものだ。

ヒロインの知寿はこう思う**わたしは思春期のころから、母の若々しさとかなれなれしさが、心の中ではいちいち気に障っていた。理解されないことではなく、理解されることがなんとなくいやなのだった。**

**すっぱり縁を切って、誰も、何もないところで一から出直したい。それでも、またそこで新しい関係が始まるのだろう。そして気がつくと終わりを迎えているのだろう。** 

**頼れるのは自分の心と体だけだが、これもいまいち信用ならない。それでも、なんとか一人で、どうにかしなくてはいけないのだろう。**

**そうやって知っている人を入れ替えていく。知らない人の中に自分を突っ込んでみる。(中略)ただ、目が覚めるとやってきているその日その日を、一人でなんとかこなしていく。**

文学作品をこんな風にきざんでしまっては味も素っ気もなくなってしまうが、先に書いた「人間ひとりが基本」という認識がこのように繰り返されている。 

親戚先のおばあさんの家で暮らした一年。失恋をして、仕事を変えて、また恋をして、自立していくヒロイン・・・。静かに物語りは終る、最初の一文によって。


テンプレートのデザイン

2007-03-04 | A あれこれ

 「前のテンプレートの方がよかったと思います」 友人からもらったメールに書いてあった。別の友人からは、前のテンプレートのバラバラと出てくる椅子に癒されていたとメールをもらっていた。私自身今回のメタリックなデザインには少し違和感を覚えていた。だからメールを読んでそうか、やはり・・・と思った。

「透明タペストリー」というタイトルに合うテンプレートを自分でデザインすればいいのだが、パソコンにめっぽう弱い私にはできない・・・。既存の中からイメージに合うものを探した。「透明タペストリー」というイメージのデザイン、今回はどうだろう・・・。

住宅のデザインでも「くつろぎ」とか「やすらぎ」とは無縁でいつもきちんとしていなければならないような雰囲気のものがある。心身ともにリラックスできそうにない空間、常に緊張感を強いられるような空間、私は苦手だ。もちろん時にはそんな空間に身を置くことも必要なことは知っているが。

たかがテンプレートされどテンプレート、これほどイメージが変わるとは・・・。



美って、なに?

2007-03-04 | A 読書日記



『前川國男 現代との対話』

 クレーメル(音楽に疎いので知らないが、内藤廣さんによると現代最高のヴァイオリン奏者だという)の言葉が紹介されている。 

内藤さんは**作曲家を建築家と、現代音楽を現代建築と読みかえると、みなさんもお考えになることがあるかもしれません。** と紹介し、続けて**(前略)現代音楽の作品には、ただそれ自体のために存在し、外界に何の影響も与えないものが珍しくない。これは、そうした作品に価値がないというのではなく、むしろ逆です。(中略)私はそうした作品が鑑賞のために知的な理解力を要求し、聞くものの心を直接揺さぶり動かすにはいたらない、という理由によって、机の引きだしや図書館の中で埃をかぶっているのではないかと危惧している。(後略)**とクレーメルの言葉を読み上げている。

現代音楽についてのこの指摘はそのまま現代建築にもあてはまる、という内藤さんの指摘、その通りだと思う。私がこの文章で注目したのは下線をひいた部分だ。

「美」の知覚における知性と感性の問題。 

「知的な理解力を要求し」とは知性による理解を求めるということ、「心を直接揺さぶる」を鑑賞者の側から捉えると感性によって知できるということ、と理解しても文意から外れないだろう。

創作者が作品を「美しい(すばらしいでもなんでもいいのだが)」と鑑賞者に感じさせるのに知性を求めるようではダメで、鑑賞者の感性でそのように感じさせることができなくてはいけない・・・という主張。

先日読んだ『美の構成学』で著者の三井さんは「美しさ」は数理的に分析できると指摘していた。「知性による美の把握」が構成学の前提だった。

知性と感性は同位にあって対をなす概念ではないのだろうか・・・両者の共同によって美を知覚するということではないのか・・・。

「美」って、なに?「美しい」ってどういうこと・・・。


 


近代建築の巨人を語る

2007-03-03 | A 読書日記



● 前川國男は確かに近代建築の巨人だが、私は今までそれ程関心を寄せてはいなかった。だから2005年の暮れから翌年の3月まで東京ステーションギャラリーで開催された「モダニズムの先駆者 生誕100年・前川國男展」にも出かけなかった。「宿題の本」を読了した今そのことを後悔している、やはり観ておくべきだった。

この本はこの展覧会にさきがけて開催されたセミナーと会期中に行なわれた記念シンポジウムをまとめた記録集。錚錚たるメンバーが前川國男を語っている。どれも興味深い内容で、前川建築を読み解く上で大いに参考になると思った。とりわけ富永譲さんの「ル・コルビュジエの建築的プロムナードを越えて」と内藤廣さんの「建築に時間を取り戻すために」が印象的だった。

富永さんはコルビュジエと前川さんの作品の空間構成を比較して両者の共通点と相違点を建築家としての視点から論じている。

内藤さんは母親がピアノをやっていたので小学生のころから「神奈川県立図書館・音楽堂」と「東京文化会館」に月に二回ほど通っていたという。 

松隈洋さんが**身近に手に入る素材を用いて、大地に根づき、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと(後略)**と前川さんの活動を評しているが、これはそのまま「建築に時間を取り戻さなくてはいけない」と主張する内藤さんにも当て嵌まる。

前川作品といえば、確か学生時代「プレモス」がまだ残っていると聞いて見学に行ったような曖昧な記憶がある。一般によく知られた作品を挙げるとしたら「東京文化会館」「東京都美術館」それに新宿東口の「紀伊國屋書店」あたりだろうか。どの作品も既に30年以上経過しているがいまだに健在、確かに時間の流れの中で成熟していくことのできる建築だ。

今度機会を見つけて前川建築を観察してみたい。

『前川國男 現代との対話』松隈洋 編/六耀社 


繰り返しの美学について考える

2007-03-02 | B 繰り返しの美学

 繰り返しの「美学」  美学という語を深く考えないで使ってきた。改めて美学とは何かと自問するもよく分からない。広辞苑によると美学とは「自然・芸術における美の本質や構造を解明する学問」とある。新明解国語辞典にもほぼ同様の説明が載っている。


『美学への招待』佐々木健一/中公新書 には**学問としての美学とは、十八世紀半葉にヨーロッパで確立した、美と藝術(この本では芸術とは表記していない)と感性を論ずる哲学です。**と説明がなされている。

この本の美学に関する論考は、私には論理の展開がよく理解できなくて読了するのに時間がかかった。



デュシャンの『泉』(写真)に関して著者は**何より重要なことは、藝術そのものが美的=感性的なものであるよりも、知的な性格を強めてきた、という事実に、解釈の概念は対応しています。たとえば、マルセル・デュシャンの『泉』(一九一七年)は、美的=感性的にはつまらない対象で、知的なレベルにしかその存在意義はありません。このような対象に対して美的体験の概念はまったく無力です。**と述べている。

藝術には感性で知覚されるものばかりではなく、知性によって知覚されるものがあって、『泉』はその一例だ、と理解できるだろう。先日私は「繰り返しの美学」について、これと同じ指摘をした。つまりそれは感性ではなく知性によって知覚される対象ではないかと。 この本は私の考えを整理するのに少し参考になった。



『美の構成学』三井秀樹/中公新書 で著者は構成学をこう説明している。**直感やインスピレーションといった従来の美化された芸術的方法論に頼るのではなく、構成学は造形における美の原理を普遍的な造形理論として、科学的な論理システムに組み込もうとした造形の科学であるといえよう。**

美の構造学は、「繰り返しの美学」を解くのに有効ではないか、そう思ってざっと読んでみた。第三章「造形の秩序」ではシンメトリーが「単純明快で形の美しさを演出する造形原理」としてとり上げられている。

シンメトリーは一般的には左右対称(鏡映、反射)のことと理解されているが、点対称(放射対象、回転)や平行移動、拡大縮小もその範疇だという。そしてこれらの二つの組み合わせ、三つの組み合わせを加えるとざっと十四種の組み合わせが生まれるという。

著者の次の指摘は実に興味深い。 **絵画や形(フォルム)そのものが美醜の対象となる構成やデザインでは、さまざまな造形要素を統合する統一の原理が作品やデザインのクオリティ(質)を決定する条件となる。つまり全体を構成するそれぞれの要素や原理は、共通性や多様性や変化をもっている。統一とはこの多様性を全体にまとめ、造形としての統一感を与えることである。(かなりの中略)人を引きつける全体の統一感がなければ作品やデザインとしては魅力のないものになってしまう。ユニティは造形のそれぞれの要素を繋ぎ全体をひきしめる力であり、コンセプトであるわけだ。造形表現は、このユニティをつくりあげるための作者の渾身の力をこめた創作のプロセスであるといいかえることができる。あるときは(中略)全面リズムのパターンで埋まった構成であるかもしれない**

引用が長くなったが、ここに「繰り返しの美学」がきちんと説明されている。因みに以上の記述のあるページには「構成の原理と要素」を示す表が示されていて造形の秩序のひとつとしてリピティション(繰り返し)が挙げられている。



● リズムの右にリピティション(繰り返し)が載っている。

この本は大学の美学の講座のテキストとしてとり上げられることがあるらしい。案外必読本なのかもしれない・・・。

 

こんな本があることがわかった。しばらくは「美」「美学」に関する本読むことになりそうだ。


赤い階段

2007-03-01 | A あれこれ



このブログでシリーズものといえば・・・「繰り返しの美学」「民家 遠い昔の記録」「ブックレビュー」そして季節ごとの「フォトアルバム」それと「路上観察」。

今回は久しぶりに「路上観察」。 最近の美容院はなかなかモダンな内装で、なぜか外部に対して「スケスケ」のデザインが多いと思う。この写真も美容院を撮ったもの。

黄昏時に松本市内を歩いていて、「あ~、美しいな」と思った。白の内装に赤い階段がアクセントとして効いている。シルエットとなって黒く見えているサッシのフレームとの組み合わせもいい。

この通りはよく歩くが初めて気がついた。 内部が浮かび上がる黄昏時は建築が美しく見えるものだ。