透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

テンプレートのデザイン

2007-03-04 | A あれこれ

 「前のテンプレートの方がよかったと思います」 友人からもらったメールに書いてあった。別の友人からは、前のテンプレートのバラバラと出てくる椅子に癒されていたとメールをもらっていた。私自身今回のメタリックなデザインには少し違和感を覚えていた。だからメールを読んでそうか、やはり・・・と思った。

「透明タペストリー」というタイトルに合うテンプレートを自分でデザインすればいいのだが、パソコンにめっぽう弱い私にはできない・・・。既存の中からイメージに合うものを探した。「透明タペストリー」というイメージのデザイン、今回はどうだろう・・・。

住宅のデザインでも「くつろぎ」とか「やすらぎ」とは無縁でいつもきちんとしていなければならないような雰囲気のものがある。心身ともにリラックスできそうにない空間、常に緊張感を強いられるような空間、私は苦手だ。もちろん時にはそんな空間に身を置くことも必要なことは知っているが。

たかがテンプレートされどテンプレート、これほどイメージが変わるとは・・・。



美って、なに?

2007-03-04 | A 読書日記



『前川國男 現代との対話』

 クレーメル(音楽に疎いので知らないが、内藤廣さんによると現代最高のヴァイオリン奏者だという)の言葉が紹介されている。 

内藤さんは**作曲家を建築家と、現代音楽を現代建築と読みかえると、みなさんもお考えになることがあるかもしれません。** と紹介し、続けて**(前略)現代音楽の作品には、ただそれ自体のために存在し、外界に何の影響も与えないものが珍しくない。これは、そうした作品に価値がないというのではなく、むしろ逆です。(中略)私はそうした作品が鑑賞のために知的な理解力を要求し、聞くものの心を直接揺さぶり動かすにはいたらない、という理由によって、机の引きだしや図書館の中で埃をかぶっているのではないかと危惧している。(後略)**とクレーメルの言葉を読み上げている。

現代音楽についてのこの指摘はそのまま現代建築にもあてはまる、という内藤さんの指摘、その通りだと思う。私がこの文章で注目したのは下線をひいた部分だ。

「美」の知覚における知性と感性の問題。 

「知的な理解力を要求し」とは知性による理解を求めるということ、「心を直接揺さぶる」を鑑賞者の側から捉えると感性によって知できるということ、と理解しても文意から外れないだろう。

創作者が作品を「美しい(すばらしいでもなんでもいいのだが)」と鑑賞者に感じさせるのに知性を求めるようではダメで、鑑賞者の感性でそのように感じさせることができなくてはいけない・・・という主張。

先日読んだ『美の構成学』で著者の三井さんは「美しさ」は数理的に分析できると指摘していた。「知性による美の把握」が構成学の前提だった。

知性と感性は同位にあって対をなす概念ではないのだろうか・・・両者の共同によって美を知覚するということではないのか・・・。

「美」って、なに?「美しい」ってどういうこと・・・。