後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ユリの原種は北半球に約100種類が分布」

2022年07月09日 | うんちく・小ネタ
ユリの原種は北半球に約100種類が分布します。
(https://gardenstory.jp/plants/32998 )
そのうち15種が日本に自生。ヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、テッポウユリなど、美しい花が多いことが世界に知られています。
ヨーロッパにも十数種の原種が分布し、代表的なニワシロユリは、別名マドンナリリーと呼ばれ、キリスト教の宗教絵画によく登場しました(のちに、日本のテッポウユリがマドンナリリーの名を冠されることになります)。
白ユリは聖母マリアの純潔の象徴として描かれてきました。
日本では、ユリは本来、初夏~夏にかけて咲く球根の花。そのため、オトメユリ、ササユリなどの原種は、自然開花する夏のいっときだけ切り花用の花材として出回ります。
いっぽう、夏以外にも出回るのは、品種改良された園芸品種。花色も種類も豊富です。


「日本の宗教的風景(4)世界文化遺産の『 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』のご紹介」

2022年06月22日 | うんちく・小ネタ
国連のユネスコは日本の世界自然遺産、4件と世界文化遺産、19件を認定しています。今日はこれら日本の世界自然遺産と世界文化遺産をご紹介したいと思います。
さて世界遺産(World Heritage Site)とはそもそんも何でしょう?
世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて認定されたものです。そてらは文化や自然などで、人類が共有すべき貴重な物件のことです。但し、移動が不可能な不動産が対象となっています。ですから源氏物語や浮世絵などの文学作品や絵画芸術は対対象になっていないのです。
さて日本には世界自然遺産が4件と世界文化遺産が19件あります。
この中で 世界文化遺産の『 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』はカトリック信者にとって一番重要なものです。キリスト教関連の日本の 世界文化遺産はこれが唯一です。
そこでこの世界文化遺産をご紹介したいと思います。

さて「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産になったの結果、今まで外人観光客が知らなかった天草地方や五島列島へも外人観光客が行くようになったのです。そして日本の隠れキリシタンの歴史を知るようになったのです。世界文化遺産への認定の効果です。
隠れキリシタンの歴史は日本人の精神文化の誇りです。250年近くの禁制の中でも人々は勇気をもって、不屈の精神で信仰を を守ったのです。この日本民族の勇気と不屈の精神文化が高く評価されて国連の世界文化遺産として認定されたのです。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの離島にあるのです。
これはキリスト教の信仰が禁じられた禁教期に厳しい弾圧を受けながらも日本の伝統的な宗教や社会と共生しながら独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの精神文化の歴史を伝えるものです。
もう少し詳しくは構成資産の内容は次の3つの種類になります。
1、日本が厳しい鎖国政策をとるきっかけとなった「島原・天草一揆」で信者たちが立てこもった「原城跡」、
2、弾圧を逃れて移り住んだ離島の集落、
3、1865年に、潜伏キリシタンが外国人神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」の舞台となった「大浦天主堂」、などです。

登録がされた12の資産は以下の通りです。
1、原城址
2、平戸島の聖地と集落 - 春日集落と安満岳
3、平戸島の聖地と集落 - 中江の島
4、天草の崎津集落
5、外海の出津集落
6、外海の大野集落
7、黒島の集落
8、野崎島の集落跡
9、頭ヶ島の集落
10、久賀島の集落
11、奈留島の江上集落 - 江上天主堂とその周辺
12、大浦天主堂

この12の世界遺産は1原城址 と12大浦天主堂の2つ以外は全て集落になっています。
これはこの世界遺産の特徴です。何故、過疎の集落が世界遺産になったのでしょうか?
理由はその集落が禁教の江戸時代にどのような内容の信仰を守っていたかということに焦点が絞られているからです。
それぞれの集落で独自のキリシタン信仰を守って来たのです。その文化活動を高く評価して世界遺産として子孫へ伝承しようというのが認定への理由なのです。
10の集落の独自の信仰のあり方を全て説明するとこの記事はあまりにも長々しいものになります。
そこで1つだけ天草の崎津集落 だけを一例として以下に示します。

1番目の写真は天草の崎津集落とカトリック崎津教会です。
天草の﨑津集落は、生活、生業に根差した身近なものをキリシタンの信心の対象としていました。それは漁村特有の信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落でした。(http://kirishitan.jp/components/com004 )
﨑津集落では、指導者を中心として自分たち自身で信仰を続けるために、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝していました。そして、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝んでいました。これは漁村特有の信仰形態です。
明治5年の禁教廃止の後に﨑津集落の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てました。
認定されたものは、潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた旧﨑津教会堂跡などです。

﨑津集落は15世紀にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まりました。
禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏(えふみ)」が行われるようになりました。
村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理されたのです。
﨑津集落の潜伏キリシタンは、表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となったのです。
集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡があります。﨑津集落では、禁教期においても小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った来たのです。
 
1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草(あまくさ)崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収しましたが、村人は「心得違い」として処罰されなかったのです。
 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、カトリックへと復帰しました。
そして1888年、﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てたのです。
この木造教会堂は、老朽化により移転、新築されます。跡地には修道院が建てられ今日に至っています。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、踏み絵が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられました。
会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏が行われた場所を選んで設置されたと言われています。

上記と同じような歴史は認定される10ケ所の集落にもあります。しかし長くなるので省略します。もう少し写真を示します。

2番目の写真は無人島になってしまった五島列島の野崎島の集落跡に残った教会です。

3番目の写真は長崎の外海の出津集落の全景です。

4番目の写真は国宝の大浦天主堂の内部です。

今日は日本の世界文化遺産の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を少し詳しく説明しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「ヌルハチが満州と称し八旗制度を創設し清朝の基礎を作った」

2022年06月04日 | うんちく・小ネタ
現在の満州族の人口は約982万1180人です。満州族は中国の各地に分布し、その中でも遼寧省が最も多いのです。 
満州語はアルタイ語系、満州・ツングース語派、満州語分支に属しています。
漢民族とともに生活し密接に触れ合っているため、今の満州族は中国語を使っています。
満州語は16世紀末、モンゴル語を基礎としてつくられましたが現在の満州族は漢字を使っています。
満州族は多くの神を祭るシャーマニズムを信奉していたが現在ではシャーマニズム信仰はもう残っていません。
 満州族は長い歴史をもつ民族で2000年前の粛慎人までさかのぼることができます。満州族は長白山以北の黒竜江の中・下流、ウスリー川流域の広大な地域で生活していました。
1583年、満州族のヌルハチが女真族の各派を統一し八旗制度を創設し、1635年に、民族の呼称を「満州」としました。
八旗制度は政治、軍事、生産という三つの面の職能を持ち、満州族社会の根本的な制度となったのです。
1636年、息子の皇太極が帝となり、国号を清と改称します。1644年、清の軍隊が中国を統一し、中央集権の清国になったのです。
こうして満州族は中国の統一、国土の開拓、経済・文化の発展に大きく寄与したのです。
写真は満州族の写真です。
写真の出典はhttps://www.asahi.com/articles/ASM5Q5Q7BM5QUHBI01Q.html です。




中国遼寧省にある清朝の初代皇帝ヌルハチの故郷・新賓満族自治県で2019年5月 22日、満州族が祖先らに祈りを捧げる祭礼があった。毎年陰暦の4月18日に開かれ、中国各地から集う満州族が伝統の食事や踊りなどを楽しんだ。
 満州族の人口は約1千万人(2010年の国勢調査)で、中国の55の少数民族のなかで3番目に多い。


「鯉のぼりが待ちどおしい、しかし端午の節句は元々は女の節句だった」

2022年04月22日 | うんちく・小ネタ
皐月の空に舞う鯉のぼりが待ち遠しい季節になりました。
青空に鯉のぼりが泳ぐ端午の節句が近づきました。
そこで青空に鯉のぼりが舞う写真をお送りし、端午の節句はもともとは女の節句だったというお話しをしたいと思います。
昭和の初めころの鯉のぼりは真鯉と緋鯉と吹き流しの三つが普通だったような記憶があります。昭和11年生まれの私の家の庭には太い丸太の棒を立て、真鯉と緋鯉と吹き流しが五月の風に青空を泳いでいました。それは戦前のつかの間の平和な時代でした。
その頃は鯉のぼりは男の子のいる家で上げるという風習でした。

1番目の写真はそのような時代の鯉のぼりです。写真の出典はhttp://nobrin7.exblog.jp/11057098/ です。

2番目の写真は五島列島の鯉のぼりです。
写真の出典は、http://yonchiworld.blogspot.com/2016/05/blog-post.html です。

3番目の写真は富士山の朝霧高原にあるドライブインの鯉のぼりです。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/akatukinosuzu/3851302.html です。

4番目の写真は新潟県の鯉のぼりです。
写真の出典は、http://shinkai-y.seesaa.net/article/449406484.html です。
この出典にある写真の説明文も少しだけ抜粋します。・・・残雪の山並みをみる丘に鯉のぼりが泳いでいます。やわらかく吹く風はやさしくて、眩しいほどに遠くまで太陽の光が透き通っています。鯉のぼりはそんな中、多くの人たちが歩く姿を少し高い位置から眺めているのでしょうか?
この丘の向こうでは、一面にある菜の花畑の道を多くの人が歩いています。日曜日の午後、よく晴れてくれました。・・・
 
さて端午の節句にまつわるお話しをしたいと思います。端午の節句は時代によって随分と変化したようです。
端午(たんご)は五節句の一つです。端午の節句は菖蒲の節句とも呼ばれます。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習がありました。
現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ国民の祝日「こどもの日」になっています。地方では旧暦や月遅れの6月5日に祝う地域もあります。

旧暦では午の月は5月にあたり(十二支)5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になったのです。端(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初の午の日を意味していましたが、中国語で「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わったのです。

端午の節句はもともと女の節句だったのです。
昔、中国では五月は悪い月とされ、薬草をとって悪い気をはらう行事がありました。かおりの強いアオイや菖蒲には、魔よけの力があると信じられていたのです。
また、このころは、ちょうど田植えのシーズンでした。田植えは、昔、女性の仕事だったので、この日は女性が大切にされ、女性だけが菖蒲をふいた屋根のある小屋に集まり、そこで過ごし悪い気をはらう行事がありました。
これが「菖蒲の節句」でもともとは女の節句だったのです。
中国の「女の節句」が日本の鎌倉時代ごろから、菖蒲が「尚武(武を重んじること)」に変わり、男の子の節句となったのです。
鎌倉時代ごろから、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句となったのです。
端午の節句では鯉のぼりだけでなく、鎧、兜、刀、武者人形や金太郎・武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾ります。
ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となりました。
しかし京都を含む上方では、当時は見られない風習であったようです。
また端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習があります。
柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まりました。 
以上は、https://ja.wikipedia.org/wiki/端午 からの抜粋です。

それにしても端午は元々女性の節句だったとは面白いですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



「曹洞宗のお経の大悲心陀羅尼の意味」

2021年12月08日 | うんちく・小ネタ
仏法僧の三宝に帰依し奉る。
大悲者なる聖観自在菩薩に帰依し奉る。
おお、一切の恐怖を除去し給う者に帰依し奉る。
已に聖観自在菩薩に帰依し終わり、
私はまさにこの光輝ある観音の真言を宣説す。
この真言は、一切の願いを満足させ、
一切の鬼神も打ち勝つことが出来ない。
迷える衆生が清浄になる真言である。・・・

以下は、【現代語訳】大悲心陀羅尼、https://sousei.gr.jp/8617/ に続きます。

読経の映像は、https://www.youtube.com/watch?v=gbxgY8BquHY にあります。


「今日のミサも関口教会からの動画配信で与かる」

2020年05月10日 | うんちく・小ネタ
東京大司教区の本部は文京区にある関口教会にあります。この
教会の正式名称は東京カテドラル聖マリア大聖堂と言いますが通称、関口教会と呼んでいます。
丹下健三設計の近代的な芸術作品です。宗教的な伝統を感じさせない吃驚するような作品です。
カトリックの伝統的な建築を一切忘れこの建物を芸術的に鑑賞すると、なかなかの傑作です。
今日はまずこの建物の写真を示します。出典は、Wikipedeaの「関口教会」です。





この教会の建物に吃驚した土井枢機卿にまつわるエピソードです。
設計案を最終的に決めるのはカトリック東京大司教である土井辰雄枢機卿であり、必ずしも推薦された案を採用しなくてもよいと決められていました。
彼は「私は皆さんが選んだものを神様の御意思として受けます。私は委員の皆さんを信頼しています」と語り一切設計案を見ませんでした。
白柳誠一神父(のちの東京大司教・枢機卿)が模型や青写真を見るように頼んだのですが、「いいんです」と言って微笑して見ません。ところが、後で実際に建築プランや模型を見て、一瞬大変驚いたというエピソードが残っています。

それはさておき、日本の全てのカトリック教会はコロナ感染予防のためにミサを止めています。
しかしhttps://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos とhttps://www.youtube.com/watch?v=khS2uYS1F6Q で東京大司教区の本部の関口教会の主日のミサの動画配信をしています。
今日も自宅で10時からの主日のミサに動画配信でミサに与かります。この動画配信のミサには日本中のカトリック信者のうち2万人以上が参加し祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===追加の写真です====================
今日の動画配信のミサの写真を追加いたします。



薔薇の花のお好きな方々へお知らせ

2019年09月01日 | うんちく・小ネタ
いつも山梨県北杜市に行ったら必ず薔薇の花を買いにいく店があります。
国道20号線の左側にあるセルバ白州エブリ店です。大きなスーパーで、ymsaeki.saeki-selvahd.jp/store/白州エブリ店/ に詳しい地図があります。
隣が「道の駅はくしゅう」で、詳しい情報は、https://www.michi-no-eki.jp/stations/view/378 に出ています。
このセルバ白州エブリ店の入り口を入った右下に短い薔薇の花が驚くほど格安で売っているのです。近所の栽培家が間引いたものを無造作に10本ずつ束ねてあります。もう何年も買っていますが値段は変わりません。ピンク、オレンジ、白、バラ色など色別になっています。

1番目と2番目の写真は今回家内が買ってきた薔薇の花です。3日前に買ったもので少し疲れています。



3番目の写真はセルバ白州エブリ店です。
薔薇の花を昔よく家内に買いましたが非常に高価だった記憶があります。
その価格に比して10分の1以下なのです。
薔薇の花のお好きな方々は是非この店にお寄り下さいとお薦めいたします。
殆ど毎日薔薇の花はありますが念の為電話で確認してからお出掛け下さい。

セルバ白州エブリ店の住所、電話番号、営業時間など次の通りです。
〒408-0315
山梨県北杜市白州町白須1319-1
電話番号
0551-35-2780
営業時間
9:00~20:00
駐車場
有り(57台)


「玄奘三蔵法師の遺骨が埼玉県、慈恩寺にあることをご存知ですか?」

2015年06月22日 | うんちく・小ネタ
現在、日本の仏教界で読まれている経典の殆どすべては唐の玄奘三蔵法師が645年にインドから持ち帰り、漢文に訳したものです。
ですから日本の多くのお寺の本堂の脇には、玄奘三蔵法師が経典を大きな箱に入れ、背負ってインドから帰る姿の像が立っています。
私は玄奘三蔵法師が好きで、以前からいろいろ本を読んでいました。
したがって玄奘三蔵法師の像を見ると大変嬉しくなります。
彼は日本の仏教の大恩人なのです。
この玄奘三蔵法師の遺骨の一部が埼玉県の慈恩寺にあるというのです。
数年前に私は車を駆ってこのお寺を訪れ現在の住職さんと、先代の住職さんの奥様の話をお聞きしました。先代の住職さんが遺骨を受け取り、立派な玄奘塔を作り、遺骨をその塔の基部に祀ったのです。その玄奘塔も参拝して来ました。
しかしその玄奘三蔵法師の遺骨は本物でしょうか?
本物でないかも知れませんが、遺骨が中国から渡って来た経緯が面白いのでご紹介いたします。
埼玉県にある玄奘塔は慈恩寺から少し離れた畑の中にありました。
それは西遊記(孫悟空物語)で名高い玄奘三蔵法師の霊骨を埋めた石塔です。十三重で高さは約15mあり、慈恩寺が管理しています。
三蔵法師の遺骨は、宋の時代に長安(現西安)から南京にもたらされた後、太平天国の乱で行方不明になりましたが、第2次大戦中に南京を占領していた日本軍が、偶然にも土木作業中に法師の頭骨を納めた石箱を発見(昭和17年)しました。
頭骨は、当時の南京政府に還付され、昭和19年に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨されたのです。
日本へ渡った頭骨は、当初芝増上寺に安置されましたが、折しもその頃の東京は空襲の被害が広がり、一時埼玉県蕨市の三学院に移され、さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺にちなんで命名された慈恩寺に疎開しました。 第2次大戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、三蔵法師と縁の深い慈恩寺が奉安に最適の地とされ、昭和25年に十三重の花崗岩の石組みによって玄奘塔が築かれました。 その後、慈恩寺から台湾の玄奘寺(昭和30年)や奈良の薬師寺(昭和56年)へも分骨されています。
この遺骨は考古学的にも文献学的にも本物であるという証明は不可能です。しかし関係者の玄奘三蔵法師へ対する尊敬と崇拝の気持ちを考えると、それは本物でないと言うべきではありません。ある人々が信仰の対称としているものに真贋の詮索をしないのが良いと私は考えています。
一番目の写真は西遊記の絵で、出典は、http://4travel.jp/travelogue/10706944 です。
二番目の図面は玄奘が629年から645年までの16年間のインドへの旅の行程を示す図面で、出典は、「中国思想史」http://www42.tok2.com/…/yasu…/chinashisoushi/12tenjikuhe.htm です。
三番目の写真は埼玉県にある玄奘塔の脇にある玄奘の像です。
四番目の写真は玄奘塔の門です。
五番目の写真は玄奘塔で、その基部に現状の遺骨の一部が埋まってあります。
これら3枚の写真の出典は、http://www.ukima.info/feature/jionji/jionji.htm です。
====参考資料===============
玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳褘(チンイ)。諡は大遍覚[1]で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。
629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなった。以下は、https://ja.wikipedia.org/…/%E7%8E%84%E5%A5%98%E4%B8%89%E8%9… に続きます。










五畿七道の道は7つの行政区を意味し、同時に道路の意味もある

2015年06月15日 | うんちく・小ネタ
古代のことを調べていると五畿七道という言葉がよく出て来ます。
七道というから道路のことかと思うと間違いです。それは唐の真似をした行政区のことなのです。
そして紛らわしいことにはその行政区へ行く道路の意味でしばしば使われているのです。
行政区か道路のことかは前後の文章から分かりますが紛らわしい、ことですね。
そこで、以下に、http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/kodaimichi2.html から抜粋した明快な説明をお送りいたします。
古代の中央集権体制である律令制は7世紀後半から10世紀半ば頃までの律令その他の法に基づいた公地公民制を基礎とする支配体制です。それは「大化の改新」後に始まり、天智朝の近江令、天武・持統朝の飛鳥浄御原令、をへて文武朝の大宝律令によって完成されました。
古代の律令国家は全国を五畿七道と呼ばれる地域に区分していました。
五畿は畿内ともいい、山城、大和、河内、和泉、摂津の諸国で、七道は東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の諸道で、これらは地域の呼称であると同時に都からのびる道路の名称でも使われています。
下に7道の行政区の地図を示します。

大宝元年に(701)に制定された大法律令と、その後部分改修された養老律令(718)に、駅制・伝馬制の古代の交通制度が規定されています。
駅制(えきせい)
駅制は中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度で律令制に明記された交通制度です。
駅制を使った情報伝達には、特定の使者が最終目的地まで赴く専使(せんし)方式と、文書などを駅ごとにあるいは国ごとにリレーで送っていく逓送使(ていそうし)方式がありました。8世紀頃は逓送方式が取られ、専使は、使者本人の口から文書の補足を必要な場合などに派遣されていました。しかし、逓送方式の信頼性が失われていき、9世紀後半以降は、専使方式が中心となるようになりました。駅使(えきし)の行程は、緊急の場合は一日10駅以上、普通でも一日8駅以上とされていたようです。
駅路(えきろ)
駅路は都を起点に都と地方を結ぶ路で、古代の交通制度である駅制で使用すると規定された官道です。駅路は五畿七道のうち山陽道と西海道の一部(都から大宰府)を大路、東海道・東山道の主道を中路、その他を小路と三段階にわけています。
駅家(うまや・やくか)
駅路には、30里(約16キロメートル)ごとに駅家が配置されていました。ただし山間部など駅家が置けない場合など30里という規定の距離は柔軟に変更されています。また重要な路線の駅家間距離は短くされていたりもします。(この時代の一里は約550メートルで江戸時代の一里とはことなる。)
駅家は公務旅行者に乗用馬、宿泊、休憩、食事などを提供する施設です。駅家には駅馬(えきば・はゆま)が置かれ、大路では20匹、中路では10匹、小路では5匹とされていました。
駅馬は、群と諸国の間の緊急連絡、公文書の伝達、特別の要務による官人の旅行などに用いられ、その利用にあたって使者は利用証として駅鈴(えきれい・やくりょう)を携行するきまりがありました。駅鈴は、使者の位階によって剋(きざみ)数がことなり乗用の駅馬の数が示されます。剋が多ければ利用できる馬数が多くなることになります。
駅家には駅戸(えきこ)を配置し、駅戸から駅子が出て駅馬の飼養やその他の駅務に従事します。駅戸の中から駅長を一人任命し駅家の管理にあたらせています。駅家は全体的には国司の管轄下にありました。また駅家を維持・運営するために、駅田(えきでん)を置いて駅稲を当てて財源としています。

世界遺産候補のとして審査されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成

2015年04月16日 | うんちく・小ネタ

少し詳しくなりますが、この際、長崎県全体のキリシタン遺跡を知るために、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成を以下にご紹介いたしたいと思います。キリシタンにご興味のある方々には参考になると思います
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の紹介:
(http://www.pref.nagasaki.jp/s_isan/assets/)
構成遺産は、以下の3群の総計14資産から成り立っています。
(1)キリスト教の伝播と普及/キリスト教の繁栄と弾圧を示す遺跡 (日野江城跡、原城跡など)、
(2)禁教下の継承/禁教時代に形成された集落の内外にある、禁教時代から続く信仰の場、崇敬地等 (平戸の聖地や集落など)
(3)解禁後の復帰/潜伏して信仰を守ってきた場所に信仰の証として建てられた教会群 (黒島天主堂、頭ヶ島天主堂、天草の崎津集落など)

そして 構成資産リストは以下の通りです。
(1)大浦天主堂と関連施設
 大浦天主堂は、ゴシック様式の建物で、現存する最古の教会として国宝に指定されている。
加えて、厳しいキリシタン禁制の中で、約250年信仰を守り伝えてきた浦上キリシタンが、プチジャン神父に信仰を表白したいわゆる「信徒発見」の歴史的舞台でもある。それは、1865年3月17日の昼下がりであった。
1864年建設、煉瓦造、国宝・重要文化財・史跡、 長崎県長崎市

(2)出津教会堂と関連施設
 禁教時代の様相をとどめる小田平集落と、解禁後に建てられた出津教会堂、旧出津救助院の三つの要素から構成される。うち出津教会堂はド・ロ神父の設 計・指導により建てられた教会で、当初は現在の半分程度の規模だったが、1909年に2度目の増築で正面玄関部に、四角の鐘塔などが建ち、現状となった。 外海地区の強風を考慮した低平な外観と内部空間が特徴である。創建から増築まで一貫してド・ロ神父が関与した教会である。
 ド・ロ神父は、地域住民の生活向上はもちろん、子どもに伝える立場の母親や娘たちへの、小教育にも力を注いだ。平易な言葉で信仰教育に努め、司祭、修道者が他のどこよりも多く育つ為の基礎をつくりあげた。
 出津教会は建造から二回の増築に至るまでド・ロ神父が設計施工にあたった。国宝の大浦天主堂と同様、煉瓦の壁をモルタルで覆うという一見煉瓦造に見せない方法でつくられている。近隣のド・ロ神父記念館には、設計に関する書籍が残されている。
1882年建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(3)大野教会堂
 ド・ロ神父の設計・指導によって出津教会の巡回教会として建てられた、玄武石を外壁にした和瓦葺きの建物。赤土を水に溶かした濁液で砂と石灰を混ぜ、石材を積み上げるド・ロ壁を用い、信徒の奉仕で完成した。山中にひっそりと立ち、風土に密着した素朴な雰囲気と雅趣がある。
 山が海に急に落ち込み、平地もない場所にたたずむ外海の教会。大野教会は、出津から北上した角力灘を望む山間にある。
 自然石を用いた「ド・ロ壁」と呼ばれる、ド・ロ神父独特の工法により建てられた。入口側正面にある風よけの独立した壁が強風に耐え、素朴で風土に密着した建物である。
1893年建設、石造、国指定重要文化財、 長崎県長崎市

(4)日野江城跡
肥前西部で最大の勢力だったキリシタン大名・有馬氏の居城跡。
有馬氏はキリシタンを保護し、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。
城下には教会やセミナリヨがあり、かつて日本のキリシタン文化最先端の街だった。
近年、金箔瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(5)原城跡
徳川幕府の治下で最大の反乱といわれる「島原・天草一揆」。
その舞台となった原城では、老若男女を問わず、ほとんどの人々が殺され、島原半島南部の村には、全滅したところもあった。
城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
国指定史跡、 長崎県南島原市

(6)黒島天主堂
九十九島で最大の黒島に潜伏したキリシタンの教会復帰は早い。
信徒発見の2ヵ月後には20人の総代が大浦のプチジャン神父を訪ねて信仰を告白、その後ポワリエ神父が総代の一人・出口大吉の家で最初のミサを行い、1873年までに「カトリックの島」となった。
現在の煉瓦造教会は、マルマン神父の努力と信者の献身的な協力で建てられた。
煉瓦・資材は名切の浜からの急な坂を背負って運ばれた。
内観はアーケード、トリフォリウム、高窓を備えた壮大な空間。
有田焼タイルや黒島の御影石など地域の材料が使われ、個性的である。
1902建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県佐世保市

(7)田平天主堂(鉄川与助の設計・施工)
田平教会は、ド・ロ神父やラゲ神父の尽力で出津や黒島から開拓移住した信徒たちが、中田藤吉神父の指導と鉄川与助の設計・施工で建立。重層屋根構成で、正面には八角ドーム屋根の鐘塔をもつ。
堂々とした煉瓦造教会は壁面に2色の煉瓦が使用され深みがあり、平戸瀬戸からの景色によく映える。
教会傍らには墓地があり、先祖たちが温かく見守る。
1918建設、 煉瓦造、国指定重要文化財、 長崎県平戸市

(8)その1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
   その2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸では、ザビエルが1550年に布教して以降、キリスト教が盛んだったが、16世紀末からの禁教政策のため、キリシタンは潜伏を強いられた。
厳しい弾圧の中、教会堂の代わりに、先祖の殉教地や平戸島の安満岳、また平戸島の北西岸にある中江ノ島などが聖地とされ、信仰を守り伝えるよすがとされた。
これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観をとどめている。
国選定重要文化的景観、 長崎県平戸市
(2014年12月、「平戸島の聖地と集落」が1、平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)と2、平戸の聖地と集落(中江ノ島)に分割されました。
この結果、構成資産数は13資産から14資産へ、変更となりました。)

(9)野崎島の野首・舟森集落跡(野首天主堂は鉄川与助の設計・施工)
五島列島の北に位置する野崎島には、野首と舟森という2つのキリシタン集落があった。
野首集落に建てられた旧野首教会は、設計・施工にあたった鉄川与助にとって最初の煉瓦造教会。
舟森集落にかつて存在した瀬戸脇教会と交互にミサが行われ、二つの集落を繋ぐ里道を信徒は歩いて通ったという。
高度経済成長の下、野崎島では過疎化が進み、1971年、住民全てが島を離れた。
無人となった島で教会は一時荒廃してしまうが、小値賀町により修復・整備され、現在は野生化した鹿とともに生きている。
国選定重要文化的景観、 長崎県北松浦郡小値賀町

(10)頭ヶ島天主堂(鉄川与助の設計・施工)
県内唯一の石造教会は鉄川与助設計施工、大崎神父の指導により建てられた。
島外から石工を招き、信者たちが身代をかけ11年以上を費やしながら、本島内の石を切出し、積上げて完成した信仰の結晶である。
内部に柱はなく、五島の椿を模した花柄とブルーの色彩を基調とした装飾が一種独特の華やかな雰囲気を漂わせている。
1919建設、 石造、国指定重要文化財、 長崎県南松浦郡新上五島町

(11)旧五輪教会堂
五島列島久賀島の東部、奈留瀬戸に面し、険しい山を背にする小さな漁港の狭い平地に建つ。
1881年に浜脇教会として建てられた聖堂が1931年現在地に移築された。
外観は素朴な和風建築でありながら、内部は三廊式、ゴシックの木造リブ・ヴォールト天井からなる。
明治初期の教会建築史を物語る貴重な遺構である。
屋根裏には、竹でおさえて少しでも天井高に、また豪華にしようとした人々の努力が見られる。
老朽化と急激な過疎化により、一時解体の話もあったが、信徒の熱意と力で隣接地に新聖堂を建て、旧聖堂を守っている。
1881建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(12)江上天主堂(鉄川与助の設計・施工)
江上教会は奈留島の辺地、海岸沿いにあり、廃校となった小学校脇の林にひっそりと建つ。
外海から移住してきた潜伏キリシタンたちの多くは、漁業に従事していたが、僻地での厳しい生活を余儀なくされた。
1881年、洗礼を受けた江上の人々は当初聖堂をもたず、家でミサを捧げていた。
その後1917年には、現在の教会が鉄川与助によって建設された。
クリーム色と水色の木造教会は、リブ・ヴォールト天井やロマネスク風の窓があり、神の家としての美しさがある。
緑に包まれ青空を仰ぐように建つ教会を中心に、今も信徒が生活をしている。
1918建設、 木造、国指定重要文化財、 長崎県五島市

(13)天草の崎津集落
天草では、16世紀にアルメイダが布教して以降、キリスト教が盛んだったが、島原・天草の乱で多くのキリシタンが命を落としたため、崎津などの限られた集落にキリシタンが潜伏するのみとなった。
乱の後、天領であった天草も長崎奉行所の支配を受けることとなり、長崎で使用された踏み絵を用いて、庄屋役宅で絵踏みが行われた。
厳しい取締りの中、崎津集落の人々は、表向きは仏教徒でありながら、潜伏キリシタンとして信仰を守り伝えてきた。
※崎津の「崎」について、正しくは山偏に竒です。


地域限定の春の美味しいものー下仁田ねぎの苗

2015年04月04日 | うんちく・小ネタ
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
====横山美知彦著、「下仁田ねぎ」の苗========
   春の彼岸の頃になると「下仁田ねぎ」の苗が15cmほどに成長する。本来の収穫は、初冬の霜の降りる11月の下旬になるのだが、春の若い苗も捨てがたい美味さがある。
 農家では一年がかりで苗を育てて春の終わりにその苗を、一旦掘り起し肥料を充分に与えた別の畑地に人の手により植え替えるのだ。だが苗を作らない農家の為に種を多めに蒔き譲り分けるのだが、その一部がスーパーや近所の一般の家庭に「ねぎみそ」や「油炒め」にと販売される。これが柔らかくて実にうまいのだ。これは僅かな期間の地元の楽しみで、遠方への出荷はしていない。
 特に「油炒め」は全体が柔らかく、春の気配を満喫出来る米飯の友になり、酒飲みには堪えられない肴なのだ。
「つくし」「たらの芽」「蕗の薹」「わらび」「山みつば」「ぜんまい」「こごみ」等は春の味覚でどれも捨てがたいが、この「ねぎ苗」はそれらとそん色ない春の味と毎年楽しみにしているひとつである。
(終わり)
櫻の咲く下仁田ねぎの畑の2枚の写真は横山さんから送って頂いた写真です。



上野の国立博物館での「みちのくの仏像展」を見て来ました

2015年02月03日 | うんちく・小ネタ
仏教に興味のある方は必見の展覧会です。一部屋に19像の展示があり、比較的に小規模な展覧会ですが、道の奥深い青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島の平安時代の素朴な、そして篤い信仰がひしひしと感じられるような仏像展です。
奈良や京都の洗練された華麗な仏像ではありませんが何故か力強く、圧倒的な感動を覚えます。撮影禁止なのでこの展覧会のHP(http://michinoku2015.jp/highlight.html)から4枚の写真をお借りしてお送りします。はじめの写真は今日私が撮った会場入り口です。
二番目の写真は、国宝「薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)および両脇侍立像(りょうきょうじりゅうぞう)」 平安時代・9世紀/福島・勝常寺(しょうじょうじ)蔵 :
東北が誇る国宝仏。土地にゆかりのあるケヤキの巨材を用いて、一木造(いちぼくづくり)の技法で造られています。3体とも圧倒的なボリュームと風格を有し、みちのく仏教文化の繁栄をいまに伝えています。東京での公開は15年ぶりです。
三番目の写真は、重要文化財「薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)」 平安時代・貞観4年(862)/岩手・黒石寺蔵:
鋭い眼差し、厳いかつく堂々とした体つきですが、人々を包み込むような優しさがあります。一木造の像内は刳(く)られ、貞観4年(862)の墨書があります。7年後に東北を襲った貞観地震を知る像で、長く地域の人々に寄り添ってきました。
四番目の写真は、重要文化財「薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)」 平安時代・9世紀/宮城・双林寺蔵/画像提供:東北歴史博物館:
ケヤキの一木から彫りだされた像で、正面からみると衣のしわが細かく表され、軽やかな感もありますが、厚い胸の表現には、平安前期彫刻の力強さがよく表れています。
五番目の写真は、重要文化財「十二神将立像(じゅうにしんしょうりゅうぞう)」(丑神(ちゅうしん)、寅神(いんしん)、卯神(ぼうしん)、酉神(ゆうしん)) 鎌倉時代・13世紀/山形・本山慈恩寺蔵 :
本山慈恩寺は、山形県寒河江(さがえ)市にあります。ここはみやこの影響を早くから受け、仏教文化が栄えました。本像もおそらくは中央の仏師による鎌倉時代の像で、姿は個性にあふれています。東北を代表する十二神将です。









八丈島の生活を支えるフェニックス・ロベレニーの葉

2015年01月30日 | うんちく・小ネタ
島の人々の所得はフエニックス・ロベレニーの葉の生産量にかかっています。その生産量は国内生産の90%から100%近いそうです。
この俗称のロベはお年寄りでもできるので、特に高齢者は、お金持ちという話を聞きます。
しかし八丈島には昭和時代まで水田があって米が取れていたのです。現在は水田の記念の石碑に下のようなことが書いてあるだけです。
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島の中央平野は水田地帯でした。明治になると国の殖産政策或いは自給自足から商品経済への移行もあって八丈島にも新しい作物が導入され営利性を求める農業形態が奨励されるようになりました。野菜以外に島の気候風土を生かして発展したのが花卉園芸です。戦前からフリージア、水仙、百合等の球根を栽培していましたが、戦後になるとフェニックス・ロベレニー(通称ロベ)等が高値で取引される事から年々花卉園芸が増加の一途を辿り水田が無くなり水田の形を残したまま畑として利用しています。この一帯の畑は昔は水田でした。
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これを読みますと、減反政策より以前の事のようです。水田としての土壌もよくなく、台風など自然災害もあり、米作は大変と言うこともあって、お金にもなり、自然災害にそれ程左右されないロベに移行したと考えられます。八丈島の水田は石がゴロゴロしていて、それを根気よく拾い、水田の外へ投げていたのです。それで「石投げ踊り」という盆踊りが残っているそうです。
現在の八丈島の主な産業は、観葉植物やラン、アロエなどの花卉園芸と漁業と焼酎、黄八丈などだそうです。下の写真は島で一番重要なロベの栽培畑です。
以上のことは八丈島在住の郷土史家の細谷昇司氏から教えて頂いたことです。

冬至とクリスマスの関係について

2014年12月22日 | うんちく・小ネタ
今日は冬至です。一年中で夜の間が一番長い日です。
これから太陽の射す時間が次第に長く成長していきます。ですから冬至は一陽来復と言ってお目出度いと考える人もいます。日本ではカボチャを食べたりゆず湯に入ったりして運が良くなるように祈ります。
そしてヨーロッパの北方民族は古くから冬至祭をおこなって春が早く来るのを祈ったのです。この北ヨーロッパにもキリスト教が伝わると、この冬至祭をキリストの誕生日にして祝うようになりました。それが12月24日のクリスマスです。
少し詳しく言えばキリストの生まれたのが25日の明け方ですので誕生日は25日ということになります。ですから24日はクリスマスの前夜祭なのでクリスマス・イヴと言います。
北方民族の冬至祭だったのでトナカイの橇が出てきます。いつもはフィンランドの森に住んでいるサンタクロースがクリスマスの時にはトナカイが牽く橇に乗ってやって来るのです。そして家々の煙突から入って来て子供たちが寝ている間に贈り物を配るのです。全世界の良い子達へ同時に配るのです。
サンタ・クロースのモデルになった聖人は元来はギリシャ正教の東ヨーロッパで活躍していた聖ニコラスさんだったと言われています。とても子供が大好きな聖人だったそうです。そのせいでクリスマスには全世界の良い子へ贈り物を配るのです。もともと東ヨーロッパにいた聖人が何故フィンランドの森に引っ越したのかはさだかではありません。
さだかでないと言えば、実はイエス・キリストの生まれた年も月日も確定していません。西暦元年ではなく紀元前4年だという説も聞いたこともあります。
しかし私は西暦元年ころの12月25日の明け生まれたと信じています。
今日は冬至で、3日後の24日の水曜日にはクリスマスが来ます。
何時もお読み頂いている御恩に感謝して美いい花束の写真をお送りいたします。
いつも有難う御座います。後藤和弘
(写真の出典は、http://suntoryflowersgift.net/shopdetail/000000000057/です。)





クリスマスツリー物語

2014年12月07日 | うんちく・小ネタ
クリスマスツリーは世界中で飾られる12月の風物詩です。
もともとは北ヨーロッパに住んでいた古代ゲルマン民族の冬至祭に使われていた樫の木がモミの木に変わったものです。
ですから元来はキリスト教とは関係の無いものでした。それが中世の頃にキリストの誕生祝いを冬至祭の頃に行い、その飾り物としてのモミの木を使用したのです。その結果クリスマスツリーはキリスト教の行事に欠かせないものになったのです。
アメリカでは毎年、数千万本もの生木が消費されています。それらは農地でクリスマス用に栽培したもので自然の森の生木ではないのです。
アメリカで生活してみるとクリスマスツリーは幸福な家庭のシンボルとして家庭持ちのアメリカ人は熱心に飾ります。日本のお正月に飾る門松やしめ縄のようなものです。それが無いと幸福な家でないようなのです。
ですからアメリカではクリスマスツリーを非常に大切にしています。
下にニューヨーク・ロックフェラー・センターのクリスマスツリーの写真を示します。出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BCです。

日本でクリスマスツリーを飾る家庭はアメリカほど多くはありません。上の写真の出典にその歴史みると以下のように書いてあります。
日本では1860年、プロイセン王国の使節オイレンブルクが公館に初めて飾りました。1874年には原胤昭(はら たねあき)により築地大学(明治学院の前身)で行われたクリスマス・パーティーに、日本初のサンタクロースとともに登場しました。1885年に横浜で開業した明治屋が、1900年に東京銀座へ進出すると、銀座のクリスマス飾りは広く行われるようになり、同じころには、神戸でクリスマス用品の生産が始まったそうです。日本のクリスマス行事は、1928年の朝日新聞紙上で、「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるほど定着していたのです。太平洋戦争中は影を潜めますが、戦後すぐに復活し、1948年には東京駅などのクリスマスツリーが、(当時は国営鉄道であったため)宗教活動ではないかと問題にされ、運輸省が「季節的な装飾のひとつで宗教活動ではない」と釈明するひと悶着もありました。現代の日本においては季節的な装飾として定着しています。
しかし都会の裕福な家庭ではクリスマスツリーがありましたが地方の家庭にはありませんでした。日本ではお正月を大切にしますがクリスマスツリーはあまり普及していません。そしてそれはもっぱら商店の店先や公共の場所に季節の風物詩のように飾られ人々を楽しくしてくれています。それも12月の楽しい光景です。そこでクリスマスツリーの写真をもう少しお送りします。お楽しみ下さい。

この写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2135096152864408001/2135196575377338503です。

この写真の出典は、http://forum.arabia4serv.com/threads/48985-خلفيات-رأس-السنة-الميلادية-لكل-الأعوامです。