日本人はこの有名な演説を以下のように誤解しがちです。
(1)この演説には反省とか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な反省とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度の間違い。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対してするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。
(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。少数派ながら良識的なドイツ人なら同様に考えています。しかし大多数のドイツ人は戦前のドイツを悪とは認めたがりません。
しかるに朝日新聞など一部の自虐史観の持ち主たちはあたかもドイツ人全員が例外なくヴァイツゼッカーさんと同じ考えの持ち主だと吹聴します。これは明らかな誤解です。意図的誤解です。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
日本人は心にもないくせに反省します。そして謝罪しますと気楽にいうのが文化です。しかし深刻に反省したらそんなに気楽な言葉が出ないというのが彼等の文化です。謝罪は教会の告白室の中で神に対してするものです。
心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・
以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。
反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあればヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。
いかがでしょうか?コメントを歓迎いたします。
(1)この演説には反省とか謝罪するという言葉や文章が皆無なので真摯な反省とは言えない。
(2)この演説だけを取り上げてドイツは反省し、日本人は反省していないと非難する自虐的な態度の間違い。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
さて上の3つの誤解について私の感じ方を説明致します。
(1)キリスト教文化圏では罪は個人が犯すものである限り、謝罪も神に対してするべきである。従ってヒットラーとその直属の部下の個人的な罪を関係の無い戦後のドイツ政府が謝罪すればキリスト教の教えに反することになるのです。これはヨーロッパ人共通の認識です。
(2)過去の悲劇を真摯に見つめ心に刻んでいるのは良識的なヴァイツゼッカーさんだけではありません。少数派ながら良識的なドイツ人なら同様に考えています。しかし大多数のドイツ人は戦前のドイツを悪とは認めたがりません。
しかるに朝日新聞など一部の自虐史観の持ち主たちはあたかもドイツ人全員が例外なくヴァイツゼッカーさんと同じ考えの持ち主だと吹聴します。これは明らかな誤解です。意図的誤解です。
(3)数々の殺戮と悲劇を心に刻むことは誰にでも出来る。何故それが真摯な反省になるか分からない。
日本人は心にもないくせに反省します。そして謝罪しますと気楽にいうのが文化です。しかし深刻に反省したらそんなに気楽な言葉が出ないというのが彼等の文化です。謝罪は教会の告白室の中で神に対してするものです。
心に刻むことが何故真摯な反省になるか分からない方々には、以下の痛切な文章をもう一度読んで頂きたいと思います。。
・・・・・われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
銃殺された人質を思い浮かべます。
ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
死者への悲嘆、
傷つき、障害を負った悲嘆、
非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
空襲の夜の悲嘆、
故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。・・・・・
以上の文章を読むと痛切な嘆きに満ちています。そして、「 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。」という言葉で終わっています。
反省とか謝罪とかいう日本人の好きな言葉は出て来ませんが深い反省と謝罪の真摯さを感じます。異文化の人々を許しその文化を理解してあげる寛容さがあればヴァイツゼッカーさんの「荒野の40年」を誤解する筈はありません。
いかがでしょうか?コメントを歓迎いたします。