後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

カトリック小金井教会のミサへ行きました

2017年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
毎週、日曜日は教会のミサに行きます。
今日は主任司祭のディン神父さまが軽井沢のある修道院での黙想会に行っていて留守です。代わりにイエズス会の竹内修一神父さまが司式して下さいました。助祭のディンさんが聖書を朗読しミサの進行をあれこれ助けていました。
カトリック小金井教会では毎日ミサがありますが、日曜日は午前10時から約1時間の主日のミサがあります。毎回、150人から180人の参加者がいます。
洗礼を受けていない人々も沢山参加していますし、見学だけの人もいます。教会では誰でも歓迎しています。
玄関でその日に使うパンフレットや聖歌集を受け取って自由に好きな席にお座り下さい。初めて出席する人でも美しい聖歌を楽しみ、気分良く時を過ごすことが出来ます。献金はしないで結構です。
是非、お気軽にご参加下さい。

教会の地図と交通の便は、https://www.koganei-catholic-church.com/%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E6%89%80%E5%9C%A8%E5%9C%B0-%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%A1%88%E5%86%85/ に出ています。

それでは今日のミサで撮った写真をお送りします。

1番目の写真は説教中のイエズス会の竹内修一神父様です。イエズス会と言えば1549年に初めて日本へキリスト教を伝えたザビエル神父さまが、ロヨラ神父さまと共にフランスで作った修道会です。

2番目の写真は聖書を朗読中のディン助祭さんです。ベトナムから来た方です。

3番目の写真は竹内神父さまとディン助祭さんがパンと葡萄酒の入った金の器を捧げ、祈っている場面です。祈るとパンと葡萄酒がイエスの体と血に聖変化するのです。

4番目の写真は竹内神父さまが信者一人一人にイエスの体と言ってパン片を手渡している場面です。

5番目の写真はディン助祭さんが会堂の右で信者一人一人にイエスの体と言ってパン片を手渡している場面です。ちなみにここに写っている子供を抱いた長身の外人さんはこの教会で数年前に結婚式を挙げた東欧の人です。赤ん坊が生れて、もうこんなに大きくなったのです。時の流れは速いものですね。彼の前に写っているのが日本人の奥さんです。

兎に角、教会のミサは気楽で心がやすまるので多くの人々が溢れるように出席しています。
今日はミサの風景をご紹介しました。
カトリック教会を検索すると皆様のお住まいの近所の教会を見つけることが出来ます。日曜のミサの時間は教会ごとに少し違いますから、ご出席の場合は確認なさって下さい。宗教というものは気軽にお付き合いするのが良いと思います。無理に洗礼を勧められたり、献金を要求されたら、それは悪い教会です。お付き合いは即刻やめましょう。長話になったのでこれで終わります。失礼しました。

日本の天皇制を考える(4)日本の天皇制の特殊性と永続性 

2017年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
前回の『日本の天皇制を考える(3)世界の立憲君主制と絶対君主制の比較』では現在の日本の天皇制を立憲君主制と定義し、世界各国の立憲君主制と絶対君主制を広く紹介しました。
例えば現在のイギリスや日本は立憲君主制です。一方、絶対君主制はイスラム教の諸国の幾つかに現在でも厳然と存在しています。
そして大きな視点で考えれば日本でも大和朝廷から平安時代までは天皇の力が大きくて絶対君主制と言っても間違いではありません。
そして鎌倉時代から以後は政治権力が将軍に移り天皇の政治力が無くなったのです。勿論、鎌倉時代も江戸時代も憲法などというものが存在してませんから「立憲君主制」と言えば間違いです。しかし天皇の政治権力が無いので、それは立憲君主制と非常に似た形式になっていたのです。
しかし同じ立憲君主国でもその歴史や文化はそれぞれ非常に違います。ですからそれぞれの立憲君主制の内容をみるとお互いに大きな相違があるのは当然です。
特に日本の天皇制は飛鳥時代から連綿と世襲が続く世界的にも最も長く続いている非常に特殊な君主制です。
この天皇制は日本の権力者が天皇の権威を借りる必要性がある限り永遠に続きます。これは世界にまれに見る永く安定した君主制なのです。

それではこの天皇制は何時頃から始まったのでしょうか?
皇室の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説などの多くの説が提出されており定まっていないのが現状です。
始めの大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられています。
そして、7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、飛鳥時代の701年の大宝律令によって律令制が確立します。
日本という国号と大宝という元号が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進されました。
こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われたのです。710年には平城京に遷都し現在の天皇制へ続く君主制が確立したのです。
しかし天皇の権力は時代とともに弱くなります。9世紀ごろから貴族層が実質的な政治の決定権を持つようになり、10世紀には天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立したのです。
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈します。承久の乱で幕府側が勝利を収めると権力は将軍が掌握します。

織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治的に利用することによって自らの権威を高めていったのです。
江戸幕府も天皇の権威を利用したので天皇制は安定して続きます。
明治維新で政権を握った薩長土肥の藩閥政府は明治天皇を東京に連れ出し、その権威を積極的に利用して、富国強兵に成功したのです。
1945年の敗戦後は天皇は実権の無い立憲君主になって現在にいたっているのです。

日本の天皇は平成時代の今上天皇が125代で2600年以上の歴史があるという説もあります。
それでは本当に初代の神武天皇は実在したのでしょうか?
結論を言えばそれは後の世の人が考え出した架空の神話です。
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されています。
このため、6世紀前半に在位したとされる第26代・継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、第21代・雄略天皇を別として、第25代・武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解があるのです。
雄略天皇に関しては埼玉県行田市の稲荷山古墳の副室から出土した金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解しその証とする説があります。この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇が雄略天皇であるということになります。
ちなみに「天皇」という名称は、7世紀後半に在位した第40代・天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられているのです。
神話を信じる人は神武天皇以後125代の天皇の実在を信じています。信じない人は第26代・継体天皇以後の天皇の実在を信じています。
日本は自由国家ですから人それぞれどちらでも良いのです。

さて何故日本の天皇制が飛鳥時代から約100代以上も続いたのでしょうか?
一番大きな理由が政治権力を握った藤原氏や鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府が天皇の権威を利用して人々を統治をしたからです。
現在の日本の総理大臣も内閣も国会議員も天皇陛下に任命されるのが好きで、またそれが自分達の権威を強くしているのです。
権力者が天皇の権威を必要としているのです。ですから日本の天皇制は永遠に続きます。
しかしこの天皇の永続性の原因は日本の精神文化の重要な一部になっていることも大きな原因になっています。
言い換えれば永続性のある天皇制を持っていることが日本文化の特徴になっているのです。
したがって天皇制の廃止論が時々主張されますが、大多数の日本人は日本の天皇制が好きなのです。天皇制は日本文化の象徴でもあるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先月、小金井公園で撮ったいろいろな色合いのタチアオイの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)