後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「太平洋航路の花形だった氷川丸の輝きと残照」

2025年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

戦前の日本では洋行が憧れでした。南米や北米に渡り成功して故郷に錦を飾人もいました。飛行機が普及していなかったので船で海を渡って行来したのです。そんな時代に氷川丸は太平洋航路の花形として輝いていました。洋行しない人でも氷川丸に憧れていました。

氷川丸は日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12,000t級の貨客船です。 1961年から横浜の山下公園に係留され一般公開されています。
私は2013年のある日、横浜に行って、氷川丸の船内を見て回りました。
今日はまずその時私が撮った写真を示します。
1番目の写真は横浜に係留されている氷川丸を船尾から撮った写真です。2013年に撮りました。
2番目の写真は氷川丸の舷側です。舷側から船に登り船内を見学しました。
3番目の写真は操舵室から見下ろした船首部分です。
4番目の写真は一等客の食堂です。
5番目の写真はアールヌーボーの雰囲気の1等客室です。客室が好評で戦前にチャップリンはじめ有名人が数多くこの船を利用したそうです

6番目の写真は一等客の個室です。2等は6人部屋、3等は大部屋です。


7番目の写真は船内の見学が終わって甲板から見上げた救命ボートです。


さて写真で示した氷川丸は1930年に横浜ドックで建造され、それ以来19

61年まで31年間、シアトル、サンフランシスコ、ハワイなどと横浜の間を

往復する豪華客船として華やかな航海を続けたのです。当時の日本の花形客船

だったのです。

しかし1961年からは山下公園に係留されたままで、再び太平洋へ乗り出す

ことはありませんでした。

私は全長163メートル、11622トンの大きな客船の中をくまなく歩き

昭和という時代のあれこれを懐かしく思い出しました。

日本が貧しかったころに精一杯頑張って作り上げた客船という感慨に打たれ

ます。

余談ながら私が留学したオハイオで親しくなった小林 實さんはこの氷川丸に乗って渡米しました。そこで小林さんに頼んでその時の思い出の記を寄稿して頂きました。茫々60年前のことです。

===小林 實さんの乗船記===============

私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。 ・・・以下省略します。

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上記のように氷川丸は日本郵船のフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の客船として活躍しました。横浜シアトル間は13日かかります。
氷川丸は戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船です。

当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円、しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。


氷川丸は戦前より唯一現存する日本の貨客船であり船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産です。2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定。2007年(平成19年)に経済産業省の近代化産業遺産として認定。さらに2016年(平成28年)8月には国の重要文化財(歴史資料)に指定されました。 

今日は昭和時代に太平洋航路の花形だった氷川丸をご紹介いたしました。
この国の重要文化財は横浜の山下公園に係留され一般公開されています。是非一度ご覧下さい。
     
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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