後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

カトリック小金井教会のミサへ行きました

2017年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
毎週、日曜日は教会のミサに行きます。
今日は主任司祭のディン神父さまが軽井沢のある修道院での黙想会に行っていて留守です。代わりにイエズス会の竹内修一神父さまが司式して下さいました。助祭のディンさんが聖書を朗読しミサの進行をあれこれ助けていました。
カトリック小金井教会では毎日ミサがありますが、日曜日は午前10時から約1時間の主日のミサがあります。毎回、150人から180人の参加者がいます。
洗礼を受けていない人々も沢山参加していますし、見学だけの人もいます。教会では誰でも歓迎しています。
玄関でその日に使うパンフレットや聖歌集を受け取って自由に好きな席にお座り下さい。初めて出席する人でも美しい聖歌を楽しみ、気分良く時を過ごすことが出来ます。献金はしないで結構です。
是非、お気軽にご参加下さい。

教会の地図と交通の便は、https://www.koganei-catholic-church.com/%E5%B0%8F%E9%87%91%E4%BA%95%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E6%89%80%E5%9C%A8%E5%9C%B0-%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%A1%88%E5%86%85/ に出ています。

それでは今日のミサで撮った写真をお送りします。

1番目の写真は説教中のイエズス会の竹内修一神父様です。イエズス会と言えば1549年に初めて日本へキリスト教を伝えたザビエル神父さまが、ロヨラ神父さまと共にフランスで作った修道会です。

2番目の写真は聖書を朗読中のディン助祭さんです。ベトナムから来た方です。

3番目の写真は竹内神父さまとディン助祭さんがパンと葡萄酒の入った金の器を捧げ、祈っている場面です。祈るとパンと葡萄酒がイエスの体と血に聖変化するのです。

4番目の写真は竹内神父さまが信者一人一人にイエスの体と言ってパン片を手渡している場面です。

5番目の写真はディン助祭さんが会堂の右で信者一人一人にイエスの体と言ってパン片を手渡している場面です。ちなみにここに写っている子供を抱いた長身の外人さんはこの教会で数年前に結婚式を挙げた東欧の人です。赤ん坊が生れて、もうこんなに大きくなったのです。時の流れは速いものですね。彼の前に写っているのが日本人の奥さんです。

兎に角、教会のミサは気楽で心がやすまるので多くの人々が溢れるように出席しています。
今日はミサの風景をご紹介しました。
カトリック教会を検索すると皆様のお住まいの近所の教会を見つけることが出来ます。日曜のミサの時間は教会ごとに少し違いますから、ご出席の場合は確認なさって下さい。宗教というものは気軽にお付き合いするのが良いと思います。無理に洗礼を勧められたり、献金を要求されたら、それは悪い教会です。お付き合いは即刻やめましょう。長話になったのでこれで終わります。失礼しました。

日本の天皇制を考える(4)日本の天皇制の特殊性と永続性 

2017年07月16日 | 日記・エッセイ・コラム
前回の『日本の天皇制を考える(3)世界の立憲君主制と絶対君主制の比較』では現在の日本の天皇制を立憲君主制と定義し、世界各国の立憲君主制と絶対君主制を広く紹介しました。
例えば現在のイギリスや日本は立憲君主制です。一方、絶対君主制はイスラム教の諸国の幾つかに現在でも厳然と存在しています。
そして大きな視点で考えれば日本でも大和朝廷から平安時代までは天皇の力が大きくて絶対君主制と言っても間違いではありません。
そして鎌倉時代から以後は政治権力が将軍に移り天皇の政治力が無くなったのです。勿論、鎌倉時代も江戸時代も憲法などというものが存在してませんから「立憲君主制」と言えば間違いです。しかし天皇の政治権力が無いので、それは立憲君主制と非常に似た形式になっていたのです。
しかし同じ立憲君主国でもその歴史や文化はそれぞれ非常に違います。ですからそれぞれの立憲君主制の内容をみるとお互いに大きな相違があるのは当然です。
特に日本の天皇制は飛鳥時代から連綿と世襲が続く世界的にも最も長く続いている非常に特殊な君主制です。
この天皇制は日本の権力者が天皇の権威を借りる必要性がある限り永遠に続きます。これは世界にまれに見る永く安定した君主制なのです。

それではこの天皇制は何時頃から始まったのでしょうか?
皇室の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を皇室の祖先とする説、皇室祖先の王朝は4世紀に成立したとする説などの多くの説が提出されており定まっていないのが現状です。
始めの大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられています。
そして、7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、飛鳥時代の701年の大宝律令によって律令制が確立します。
日本という国号と大宝という元号が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進されました。
こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われたのです。710年には平城京に遷都し現在の天皇制へ続く君主制が確立したのです。
しかし天皇の権力は時代とともに弱くなります。9世紀ごろから貴族層が実質的な政治の決定権を持つようになり、10世紀には天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立したのです。
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈します。承久の乱で幕府側が勝利を収めると権力は将軍が掌握します。

織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治的に利用することによって自らの権威を高めていったのです。
江戸幕府も天皇の権威を利用したので天皇制は安定して続きます。
明治維新で政権を握った薩長土肥の藩閥政府は明治天皇を東京に連れ出し、その権威を積極的に利用して、富国強兵に成功したのです。
1945年の敗戦後は天皇は実権の無い立憲君主になって現在にいたっているのです。

日本の天皇は平成時代の今上天皇が125代で2600年以上の歴史があるという説もあります。
それでは本当に初代の神武天皇は実在したのでしょうか?
結論を言えばそれは後の世の人が考え出した架空の神話です。
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されています。
このため、6世紀前半に在位したとされる第26代・継体天皇の実在は確実と考えられるものの、それ以前の天皇については、第21代・雄略天皇を別として、第25代・武烈天皇までは実在の可能性が薄いという見解があるのです。
雄略天皇に関しては埼玉県行田市の稲荷山古墳の副室から出土した金錯銘鉄剣の「獲加多支鹵大王」を雄略天皇の名である「大泊瀬幼武」と解しその証とする説があります。この説に則れば考古学的に実在が実証される最古の天皇が雄略天皇であるということになります。
ちなみに「天皇」という名称は、7世紀後半に在位した第40代・天武天皇の頃に、それまでの「大王」(おおきみ)に代わって用いられ始めたと考えられているのです。
神話を信じる人は神武天皇以後125代の天皇の実在を信じています。信じない人は第26代・継体天皇以後の天皇の実在を信じています。
日本は自由国家ですから人それぞれどちらでも良いのです。

さて何故日本の天皇制が飛鳥時代から約100代以上も続いたのでしょうか?
一番大きな理由が政治権力を握った藤原氏や鎌倉幕府や室町幕府や江戸幕府が天皇の権威を利用して人々を統治をしたからです。
現在の日本の総理大臣も内閣も国会議員も天皇陛下に任命されるのが好きで、またそれが自分達の権威を強くしているのです。
権力者が天皇の権威を必要としているのです。ですから日本の天皇制は永遠に続きます。
しかしこの天皇の永続性の原因は日本の精神文化の重要な一部になっていることも大きな原因になっています。
言い換えれば永続性のある天皇制を持っていることが日本文化の特徴になっているのです。
したがって天皇制の廃止論が時々主張されますが、大多数の日本人は日本の天皇制が好きなのです。天皇制は日本文化の象徴でもあるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先月、小金井公園で撮ったいろいろな色合いのタチアオイの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









日本の天皇制を考える(3)世界の立憲君主制と絶対君主制の比較

2017年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の天皇制に対していろいろな考え方があります。天皇制こそ素晴らしい制度だという人もいますし、まったく不要な制度だと言う人もいます。
しかしそのように簡単に言い切れるものでしょうか?
そこで今日は世界の国々の立憲君主制と絶対君主制を比較してみようと思います。
立憲君主制とは憲法によって天皇や君主の政治への関与を禁止している君主制です。一方、絶対君主制は君主が絶対的な権力を持ち自由に政治を行う制度です。
例えば現在のイギリスや日本は立憲君主制です。一方、絶対君主制はイスラム教の諸国の幾つかに現在でも厳然と存在しています。
日本でも大和朝廷から平安時代までは天皇の力が大きくて絶対君主制と言っても間違いではありません。
そして鎌倉時代から以後は政治権力が将軍に移り天皇の政治力が無くなったのです。勿論、鎌倉時代も江戸時代も憲法などというものが存在してませんから「立憲君主制」と言えば間違いです。しかし天皇の政治権力が無いので、それは立憲君主制と非常に似た形式になっていたのです。この日本の特殊性は次回に考えることにして今日は世界の国々の立憲君主制と絶対君主制を比較してみましょう。
現在の世界には以下のような立憲君主国があります。
=======================
アジア
カタール国(首長)
カンボジア王国(国王)
クウェート国(首長)
タイ王国(国王)
日本国(天皇)
バーレーン王国(国王)
ブータン王国(国王)
ブルネイ・ダルサラーム国(国王)
マレーシア(国王)
ヨルダン・ハシミテ王国(国王)

ヨーロッパ、北米、オーストラリア
英連邦王国、
英連邦王国の諸国はイギリスと同一の国王・女王を君主とする。
 イギリス(女王)
オーストラリア連邦(オーストラリア国王)
 カナダ(カナダ国王)

オランダ王国(国王)
スウェーデン王国(国王)
スペイン王国(国王)
デンマーク王国(女王)
ノルウェー王国(国王)
バチカン市国 (教皇)
ベルギー王国(国王)
モナコ公国(公)

アフリカ
モロッコ王国(国王)
===========================
そして現在の絶対君主国は以下の通りです。

アジア
ブルネイ(国王)
アラブ首長国連邦
アブダビ(首長)
ドバイ(首長)
オマーン国(国王)
カタール国(首長)
クウェート国(首長)
サウジアラビア王国(国王)
バーレーン王国(国王)
============================
君主が必要か、必要でないかはヨーロッパ社会の近代化の過程で、それぞれの国々が結論を出して来ました。
現在、欧米には絶対君主制はモナコ公国とバチカン国以外は存在していません。
ヨーロッパで中世の王国にとって代わって国民国家が隆盛なりと、革命が起きたりして君主の居ないフランスやソ連が誕生したのです。
その一方、イギリスのように三権分立を原則とした憲法に従って、君主の権力が制約を受ける政治体制、すなわち立憲君主制が生まれたのです。
これは市民階級の台頭により妥協として生まれたものとも考えられます。
日本の天皇制は明治維新の後、このイギリス流の立憲君主制を導入したのです。
しかし軍隊の統帥権は天皇が持っていたので絶対君主制の性格も合わせて持っていたのです。

さてフランス革命は「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」(人権宣言3条)として君主主権の原理を否定し、国民主権原理を確立したものです。
アメリカ合衆国はこのフランス革命の精神で建国されています。ですから「自由の女神像」はフランスから寄贈されたのです。

イギリスは立憲君主制国ではあるが、政治の実態はアメリカや今日のフランス、ドイツ等の共和国と同じです。
第二次世界大戦後も君主を擁する国々は多数存在するが、ほとんどはイギリス型立憲君主制を取っており、ベルギーやルクセンブルクのように憲法上で国民主権主義を明記している国もあるのです。
戦後日本では、憲法上で国民主権主義を明確化し、天皇は政治的権限を持たない象徴的地位に就いたのです。この意味で戦後の日本は、事実上、国民主権主義をとる民主国家と規定することも出来ます。
しかし日本の天皇制と現在の欧米の立憲君主制は異なる部分もあり、その問題は次回に考えて見たいと思います。

今日の挿し絵代わりの写真は「KITAHOのデジカメ散歩」からお借りしたカサブランカとギボウシとヤマユリの写真です。
URLは、http://kitaho321.blog25.fc2.com/page-2.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:カサブランカとギボウシとヤマユリの説明============
「KITAHOのデジカメ散歩」
1、カサブランカ コンカドールの開花をというユリは、日本のヤマユリ(Lilium auratum)、カノコユリ(Lilium speciosum)、タモトユリ(Lilium nobilissimum)などを元に、育種されたオリエンタルハイブリッド中の一品種です。
とても雄大な生育をし、何輪もの花を付けた様は圧倒させます。

2、ギボウシ;
淡い藤色は魅力的・・・・ギボウシ(擬宝珠)の花.
秘密基地自生種のギボウシ、とっても素敵な、淡い藤色を見せています。
キジカクシ科のギボウシ(Hosta)は、東アジア特産で、シーボルトがアメリカへ持ち帰り、欧米で交配が盛んに行われ、多くの品種が作出されました。
今や、欧米でのホスタ(ギボウシ)熱は衰えることがありません。
秘密基地では自生種のギボウシを大切にしています。

3、ヤマユリの実生の開花
ヤマユリの実生の開花です。
 このヤマユリは・・・たぶん、秘密基地建設時に、福島の知人から頂いたヤマユリのこぼれ種から芽生えたものでしょう。
ヤマユリの苗らしきものを確認し、まだかまだか、と、待っていました。
小さな株ながら、大きく花開いてくれました。









劉暁波氏の死、沈黙の日本政府、低い人権意識

2017年07月14日 | 日記・エッセイ・コラム
中国の独裁共産党に対して敢然として戦い、中国の民主化を要求し続けた劉暁波氏が拘束されたまま死にました。享年61歳でした。
欧米の政府や首脳は中国政府を非難する声明を公表しました。しかし日本政府は沈黙です。
日本の政治家は中国の民主化に関心が無いのでしょうか?日本人は人権意識が低いのでしょうか?
アメリカのティラーソン国務長官は声明を発し、劉暁波氏を「彼の国や人類をより良くし、正義と自由を追求するために人生をささげた」と言明しました。そして中国政府に対して軟禁中の妻、劉 霞さんの中国からの出国を認めるようにに再度、強く要求しました。

ドイツのメルケル首相も、「市民の権利と表現の自由のために闘った勇気ある人物だった」と追悼の声明を発表しました。
そして国連人権高等弁務官のザイト・フセイン氏は緊急声明を発し、「中国と世界の人権活動は、中心的役割をはたす闘士を失った」と追悼し、妻の劉 霞さんの外国への移動の自由を中国政府に強く要求したのです。
アジアでは台湾の蔡英文総統が悲しみの意を表し、香港では劉暁波氏の追悼集会が開催され花々が供えられています。

それでは劉暁波氏とはどんな人だったのでしょうか?
彼こそが中国の民主化運動の象徴的な存在だったのです。国家反逆罪で実刑判決を受け、その服役中にノーベル平和賞を受賞しました。
1980年代半ばに、文芸評論家として、中国の民主化の重要性を訴えて注目されたのです。
1989年の天安門事件の際には、民主化を求める学生らの運動の中心メンバーとなり、その後も政治改革の必要性を訴える評論などを発表し続けます。
2008年には中国の民主化の必要性を訴え、共産党の1党支配を批判した「08憲章」と呼ばれる文章を発表します。それが国家と政権の転覆をあおった罪に問われ、懲役11年の判決を受け、刑務所に収監されました。そして今回、釈放されないまま病死したのです。

この「08憲章」をもう一度見てみましょう。以下の文章を読めば胸を熱くする人も多いと思います。中国の独裁政治の実情に心を暗くする人も多いと思います。中国は暗黒です。

これは2008年12月9日に中華人民共和国の劉暁波氏ら303名が連名でインターネット上で発表した文書です。中国の政治・社会体制について、中国共産党の一党独裁の終結、三権分立、民主化推進、人権状況の改善などを求めた宣言文でした。

それではその文書の前文だけを示します。少し長い文章ですが、根気よく読めば中国の暗い現状に呆然とすると思います。

今年は中国立憲100周年、「世界人権宣言」公布60周年、「民主の壁[2]」誕生30周年、「公民権利と政治権利国際公約」10周年の年である。長きに亘る人権災害と艱難曲折の抗争を経て、覚醒した中国公民は自由・平等・人権が人類共通の普遍的価値であり、民主・共和・憲政が現代政治の基本的制度構築であることを日増しにはっきりと認識するようになった。これら普遍的価値と政治制度の基本的構築から引き離されてきた「"現代化"は、人としての権利の剥奪し、人間性の腐蝕させ、人としての尊厳の破壊してきた災難のプロセスだった。21世紀の中国はどこに向かうのか。今のような権威主義的な統治の下での"現代化"を継続するのか。それとも普遍的な価値を認め、主流文明に融け込み、民主的な政体を打ち立てるのか。これは回避し難い選択である。
19世紀中期の歴史の激変により・・・・中略・・・

抗日戦争に勝利した中国は再度憲政への道を開いたが、国共内戦の結果中国は現代全体主義のどん底へと陥っていった。1949年に建国された"新中国"は、名前こそ"人民共和国"だがその実は"党の天下"である。政権政党は政治・経済・社会の全ての資源を壟断し、反右派闘争、大躍進、文化大革命、六四天安門事件や、宗教活動及び維権運動の弾圧など一連の人権災害を引き起こし、数千数万の命が奪われ、国民も国家も無残なつけを払わさせられた。
20世紀後半の"改革開放"により、中国は毛沢東時代の普遍的貧困と絶対的な全体主義から抜け出し、民間の富と民衆生活水準は大幅に改善され、個人の経済の自由と社会権利を一部回復し、公民社会が成長を始め、人々の間で人権と政治的自由を求める声が日増しに高まった。為政者も市場化・私有化へ向けた経済改革を行うと同時に、人権を拒絶する方針から次第に人権を認める方針へと転換する。

中国政府は1997年、1998年の2回にわたって重要な国際人権公約に署名し、全国人民代表会議で2004年、「人権を尊重し、保障する」という文言を憲法に加える改憲が承認され、今年更に「国家人権行動計画」を制定・推進することが承認された。しかし、これらの政治的な進歩も今のところ大部分は文字上だけのものにとどまっている。法律あって法治無く、憲法あって憲政無く、というのが誰の目にもはっきりとした政治の現実である。為政者集団はなお権威主義的な統治を堅持・継続し、政治変革を拒んでいる。このことから、官界が腐敗し、法治が妨げられ、人権が霞み、道徳が失われ、社会が両極に分化し、経済が奇形の発展を見せ、自然環境と文化環境が幾重にも破壊され、公民の自由・財産と幸福を追求する権利が制度化された保障を得られず、各種の社会矛盾が絶えることなく積み重なり、不満が膨らみ続け、特に官民の対立と群衆事件が激増し、破滅的な制御不能の趨勢に陥っている。現行体制の立ち遅れぶりはもはや改めないでは済まない段階に至っている。 (続きは、http://www.a-daichi.com/freetibet/charter08/ にあります。)


安倍総理大臣は何も言いません。しかし心ある国会議員は居るはずです。せめて国会議員の有志だけでも人権のために命を捧げた劉暁波氏を高く評価し、追悼の声明を発すべきではないでしょうか?
森友学園や加計学園の問題だけを騒いで、人類共通の人権問題の重要性が理解出来ない国会議員を尊敬出来ないのは私だけでしょうか。

今日の挿し絵代わりの写真は劉暁波氏の霊に供えるために安らかな花々の写真を選らびました。過日、都立小宮公園で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









季節の花の写真をお楽しみ下さい

2017年07月13日 | 写真
九州の豪雨被害に大変心が痛みます。一方、東日本では連日猛暑が続いています。
梅雨明け宣言の無いまま盛夏へむかっているようです。
この季節は花の種類が少なくなります。庭のスイレンやムクゲやアジサイだけになってしまいました。そして真紅のサルスベリももうすぐ咲き出すでしょう。
そのような季節の花の写真をお送りします。お楽しみ下さい。









人はみな宮沢賢治の『風の又三郎』になって此の世を去って行く

2017年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 宮沢賢治の作品は美しい散文詩のようです。そして人間の喜びや悲しみが賢治の心象風景とともに謳いこんであります。読むたびに心がわくわくします。
でも分かりにくいのです。他人には理解出来ない自分だけの心象風景が出てくる上に、書き言葉では表現出来ない花巻地方の東北弁が無理に書いてあります。読みにくいのです。
そこで私は自分なりに作品の構成を整理し、編集して読むようにしています。
今日は風野又三郎という童話をご紹介します。そして終りの部分で、「人はみな風野又三郎になってあの世へ飛んで行く」という私の幻想を書きます。
青空文庫には「風の又三郎」と「風野又三郎」の2つが掲載されています。
少し内容が違いますが今日は「風野又三郎」の方をご紹介します。

この童話は次のように3つの部分からなっています。
(1)夏休みの終った最初の登校日の九月一日に小学生達が学校にやって来る場面です。

 どっどどどどうど どどうど どどう、
 ああまいざくろも吹きとばせ
 すっぱいざくろもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな四角な学校がありました。
 学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜まりも教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。
 先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰も来ていないのを見て
「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫さけびながら大悦びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

この不思議な赤い髪の子供が風の化身の又三郎だったのです。

(2)子供達はこの風の又三郎から一週間、不思議な話を聞いたり、一緒に仲良く遊んだのです。
この部分が「風野又三郎」と「風の又三郎」が違う部分です。遊びの内容が違うのです。前者は理屈っぽい話が多く、後者は楽し気な田舎の子供達の遊びが紹介してあります。
ですから一般的には「風の又三郎」の方が広く読まれています。
しかし「風野又三郎」の方がより幻想的なのです。

(3)そうして仲良く一週間遊んだ後の九月十日に風の又三郎との別れの場面です。
人間の子供に化身していた又三郎が再び風になって北の方へ飛んで行くのです。
「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。
この悲しい場面を「青空文庫」から転載します。

「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、
 ああまいざくろも吹ふき飛ばせ、
 すっぱいざくろも吹き飛ばせ、
 ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ
 ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」
 先頃又三郎から聴きいたばかりのその歌を一郎は夢の中で又聞いたのです。
 びっくりして跳ね起きて見ましたら外ではほんとうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで咆えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障子や棚たなの上の提灯箱ちょうちんばこや家中いっぱいでした。
 一郎はすばやく帯をしてそれから下駄をはいて土間に下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら風がつめたい雨のつぶと一緒いっしょにどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。
 一郎は風が胸の底まで滲しみ込んだように思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけ出しました。
 外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云うように烈しくもまれていました。青い葉も二三枚飛び吹きちぎられた栗のいがは黒い地面にたくさん落ちて居りました。
 空では雲がけわしい銀いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。

 遠くの方の林はまるで海が荒れているようにごとんごとんと鳴ったりざあと聞えたりするのでした。一郎は顔や手につめたい雨の粒を投げつけられ風にきものも取って行かれそうになりながらだまってその音を聴きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだろうかそれとも先頃約束したように誰かの目をさますうち少し待って居て呉れたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさら波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんオホーツク海の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔かけて行くように胸を一杯にはり手をひろげて叫さけびました。

「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」
 その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯ういう声がきれぎれに聞えたのです。
「ドッドドドドウドドドウドドドウ、
 楢の木の葉も引っちぎれ
 とちもくるみもふきおとせ
 ドッドドドドウドドドウドドドウ。」
 一郎は声の来た栗の木の方を見ました。俄かに頭の上で
「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。一郎は高く叫びました。
「又三郎さん。さよなら。」
 かきねのずうっと向うで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い頬とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思うと、もうすうっと見えなくなってただ雲がどんどん飛ぶばかり一郎はせなか一杯風を受けながら手をそっちへのばして立っていたのです。
「ああひで風だ。今度はすっかりやらへる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおじいさんが潜りの処でそらを見上げて立っていました。一郎は早く仕度をして学校へ行ってみんなに又三郎のさようならを伝えたいと思って少しもどかしく思いながらいそいで家の中へ入りました。(終り)

この童話を読むといろいろな連想が湧いて来ます。
子供を産んでやっと小学生まで育ったと思ったら死んでしまうという辛い経験をした親がいます。その子は風の子だったのです。もとの風になって大風の日にはるか北の海のかなたへ飛んで行ってしまったのです。
そして私は、人はみな風の又三郎になってあの世へ飛んで行くという幻想を持つのです。邯鄲の夢の此の世を去るのです。
それは「風野又三郎」の深読み過ぎでしょう。でもこの幻想を私は大切にしています。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、船の上から撮った横浜港の夕暮れの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










アメリカ、そして日本から差別が無くなった! 区別と差別の違い

2017年07月11日 | 社会・経済
先週、大型客船で伊勢の鳥羽に行きました。そうしたら車椅子の人は上陸出来ませんと言うのです。客船から小さな通船に乗り移るのが危険なので上陸お断りというのです。
足が弱くて杖を使っている私は何となく嫌な気分です。これは差別なのだと一瞬感じたのです。
しかし乗り移る時に、若い乗組員の心からの手助けを受けて、嗚呼、これは差別ではなく区別なのだと納得しました。差別とは他人をさげすむ行為です。少数者を貶める行為です。区別にはさげすみの感情が皆無なのです。
それにしても最近の若い日本人は全ての場面で差別をしない美徳を持っているのです。
ところが、戦前、戦後の学歴差別、男女差別、職業差別、出生差別、身体・心に障害のある人への差別などなどの強かった日本社会で育った高齢者、特に後期高齢者の心の底には差別意識が残滓のように巣くっていると思います。私の心の底にもこの残滓があります。
それにしても日本の社会から全ての差別が無くなったことを嬉しく思います。差別されて悲しい思いをする人がいなくなっただけでも幸せです。人々が平等に楽しく暮らすようにお互いに気を使っている若い日本人に感謝しています。

ところが何故、日本社会からこのようにあらゆる差別が消えて無くなったのでしょうか?
結論を言えば、アメリカ社会で全ての種類が無くなった影響で日本でも差別が消えてしまったのです。
このように書くと反発する方々が多いと存じます。しかしその前に以下の文章を静かにお読みください。
昔のアメリカは黒人差別の激しい国でした。自分が留学した1960年当時は黒人は白人と同じトイレを使ってはいけません。同じレストラン、同じ映画館もいけません。バスの中の前部が白人と黄色人専用の席で後ろが黒人専用の席でした。当時の私はその状態を当然と思っていました。
ところがそれがひっくり返るような法律が出来てしまったのです。1964年に制定された公民黒人を平等に扱うという公民権法です。
その公民権運動を指導したのがマーティン・ルーサー・キング牧師だったのです。
彼が現在の日本の差別の無い社会を作る引き金を引いたのです。
このように書くと日本は黒人差別をしていないからキング牧師とは関係無いと言う人がいます。しかしもう少しお読み下さい。
キング牧師は1929年に生まれた公民権運動の指導者で、ノーベル平和賞受賞者です。マハトマ・ガンジーに倣って非暴力抵抗運動の先頭に立って闘い、1968年志半ばで凶弾にたおれたのです。享年39歳の若い死でした。
このキング牧師の公民権運動はやがて黒人差別撤廃だけでなくアメリカ社会における黄色人差別、原住民差別まで広がるのは当然でした。
その上、あらゆる弱者、マイノリティ、発達障碍者の差別撤廃へを拡大して行きます。
それが顕著になるのはべトナム戦争の頃でしょうか。そしてその後「差別用語」の撤廃運動が燎原の火のように燃え上がりました。
この差別用語の撤廃運動は怒涛のように日本社会を呑み込みました。大新聞やNHKは率先して差別用語を使用しなくなったのです。言葉の差別がなくなれば、気持ちの差別も次第に無くなります。
この頃から日本社会の全ての分野で差別というものが次第に消えて行ったのです。若者は柔軟です。高齢者は頑なです。差別用語を今でも使う高齢者が居るのは悲しいものです。

日本から差別用語が無くなり、差別そのものが消えて行くことは喜ばしい現象です。これはアメリカ社会の変化の影響です。その引き金を引いたキング牧師に感謝せざるを得ません。

今日の挿し絵代わりの写真は鳥羽沖で巨大な客船へ大きな台船を横着けして、小さな通船へ乗客を乗り移させている様子を示す写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=============================
(1)キング牧師の有名な演説;
「私には夢がある(I Have a Dream)」
1963年8月28日
職と自由を求めるワシントン大行進において、キング牧師がリンカーン記念館で人種平等と差別の終焉を呼びかけた演説。公民権運動に大きな影響を与えた。米国における最高の演説であるとされている。
- 演説の一部 -
絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。
私には夢がある、それは、いつの日か、この国の国民が立ち上がり、「われわれは、すべての人間は平等に造られいることを自明の真理とみなす」というこの国の信条を真の意味で実現させるという夢である。※
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。
これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。

(2)マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929年~1968年)の紹介;
1929年、ジョージア州アトランタで牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。父親と同じ名前であったが、父子とも「マーティン・ルーサー・キング」と改名。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。
6歳のときに、一緒に遊んでいた近所の白人の子供の母親から「黒人とは二度と遊ばせません」と最初の人種差別を経験。高校時代には、討論大会で優勝した帰りのバスの中で白人から席を譲れと強制される。
1862年のリンカーン大統領の奴隷解放宣言により、米国の奴隷制は廃止された。しかし、それは人種差別の撤廃を意味するものではなく、学校、トイレ、プール、バスなどにおいて、白人と非白人の区別により、異なる施設が用いられることは容認されていた。
1955年、白人に席を譲るのを拒んで逮捕されたローザ・パークス逮捕事件に抗議して、キング牧師はバス・ボイコット運動を指導。これにより、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決を勝ち取る。これ以降、キング牧師は全米各地で公民権運動を展開していく。
キング牧師の運動の特徴は「非暴力主義」。インド独立の父ガンジーに啓蒙され、一切抵抗しない非暴力を貫いた。1963年のキング牧師の有名な演説「私には夢がある(I Have a Dream)」は広く共感を呼ぶ。これらの運動により米国内の世論も盛り上がりを見せ、1964年に公民権法が制定された。
その後、キング牧師は「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始める。敵も増えていくなか、精力的に活動を続けたが、1968年にテネシー州で「私は山頂に達した(I’ve Been to the Mountaintop)」と演説後、モーテルで白人男性の凶弾にたおれる。









竜宮城を模した遊覧船に乗って浦島太郎伝説を考える

2017年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
先週、鳥羽湾を遊覧船でめぐり、島々が点在する夢のような美しい風景を楽しみました。その上、乗った遊覧船が夢の中の竜宮城のようなのです。
浦島太郎も亀も乙姫様も居る竜宮城でした。
浦島太郎の伝説は日本各地にありますが、漁師の多い鳥羽ではこの伝説が信じられているのです。本気で遊覧船を竜宮城のように造り上げているのです。
各地にある浦島太郎の話は少しずつ違いますが、その一般的なストーリーは次のようなものです。
漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところを見ます。太郎が亀を助けると、亀はお礼として太郎を海の中の竜宮城に招いたのです。
竜宮城では美しい乙姫が太郎を歓迎し、もてなしてくれます。楽しさに我を忘れて、時を過ごしましが、故郷をフト思い出し、帰ることを決心します。
すると乙姫は「決して開けてはならない」と言いながら玉手箱を渡したのです。
太郎が亀に連れられ浜に帰ると、故郷には太郎が知っている人は誰もいません。
悲しくなった太郎が玉手箱を開けます。すると、中から煙がたちのぼります。その煙を浴びた太郎は老人の姿に変ってしまったのです。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々はあまりにも楽しかったので数日のように思っていましたが、地上では随分長い年月が経っていたのです。
それでは今回、鳥羽湾で撮って来た写真をお送りします。











この浦島太郎の伝説は日本書紀にも掲載されているそうです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E より抜粋。)
浦島太郎(浦嶋子)が文献に登場する初見は、8世紀の初めに成立した『日本書紀』の「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述です。
丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だけだった。
するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明。いずれにしても『日本書紀』が完成した養老4年(720年)頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる。
そして万葉集にも次のように書かれているのです。
『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われているのです。次はその現代訳です。
水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。

さてこの浦島太郎の原型は8世紀に成立した『丹後国風土記』にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」であると言われています。浦島太郎の物語は『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しいので原型と言われています。この詳しい原型は長すぎるので省略します。


しかし、この浦島太郎の話は『丹後国風土記』よりももっともっと古く、旧石器時代や縄文時代から語り伝えられていたのでしょう。
この物語りの主要な部分は、「海で辛い漁をすると美しい乙姫さまに会える」という部分と、「海の底には竜宮城という楽しい場所がある」という部分です。
辛い漁をしている男性の漁師の夢は海で美しい娘に会えることです。海が荒れて不運にも溺れてしまった漁師の行く場所が竜宮城という極楽なのです。その部分は海で亡くなった漁師のなぐさめです。鎮魂の物語です。
海に生きる人々の憧れや楽しみや悲しみの物語です。悲しみの部分があるから何時までも長く語り継がれているのです。そんな事を考えながら鳥羽湾の遊覧船に身を任せてしばし空想に耽っていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本の本当の食料自給率は1.5%という計算結果

2017年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリックでは毎年7月の第二日曜日を『船員の日』と定めて世界中の船で厳しい労働条件で働いている船員の安全と幸せを祈る日です。
我々は普段、船で働いている人のことを意識しないで日常生活をしています。しかし現在の日常生活は運送船の船員が陰で支えているのです。今日のミサでは世界中のカトリック教徒が船員の安全と幸せのために祈るのです。

特に日本は鉄鉱石の全てを輸入しています。石油も液化天然ガスも100%輸入しています。日本の発電量の88%は輸入原油や天然ガスや石炭で発電しています。毎日家庭で使っている電気の実に88%(2014年度)は火力発電なのです。その火力発電の燃料はほぼ100%船で運んだ輸入品なのです。
この位は知っていましたし、食料の自給率は39%ということも知っていました。魚も毎日のように食べるので魚類の自給率も高い筈です。
そこでミサ後に家に帰りもう一度、日本の食料の自給率を調べ直したのです。
そうしたら見かけの自給率は39%だが真の自給率は1.5%だという計算結果を見つけたのです。
確かに米や卵や牛乳はふんだんに生産していますが、稲を育てる肥料や鶏や牛を育てる飼料は96%輸入しているのです。せすから食料のカロリーベースの自給率39%に100分の4を乗ずると真の自給率はたったの1.5%になってしまうのです。

その計算法は以下の記事に明快に説明してありますから、ご一読下さい。
===日本の“真の食料自給率”は1.5%?――【農家の窓から】=====
2015年01月04日 ニュース ( https://hbol.jp/17895 )

トラクターなどを使う大規模農業は、外国から輸入した化石燃料がなければ成り立たないのです。
 以前から「食料自給率」という言葉は知っていましたが、漠然と「日本の自給率39%って低いんだな」というくらいの認識でした。(実はカロリーベースで計算しているのは日本だけ。生産額ベースだと2013年で68%と高くなりますが、それでも先進国中で最低です)。
 畜産物に関しては、エサの自給率も按分されます。例えば卵はほぼ国産(95%)なのですが、ニワトリのエサの大半は輸入(エサの自給率が10%)なので、卵の自給率は9%となります。
 また食品廃棄も大量に発生しています。その廃棄分のカロリーも分母として含まれるので、廃棄が多いほど低くなります。
ほとんどの肥料・エネルギーを外国に依存しているので、これを野菜や穀物にあてはめてみるとどうでしょうか。
 ほとんどの農家が使っている化学肥料、特にリン酸・カリウムはほぼ輸入に頼っているのが現状です。

 また大規模農業にはトラクターなど農業機械が必要ですが、その燃料は軽油やガソリンなど外国から輸入した化石燃料です(チッソは国内で製造していますが、その製造に必要なアンモニアを生成するために、莫大なエネルギーが必要となります)。
 つまり日本の野菜や穀物は、肥料もエネルギーもすっかり外国に依存しているのです。
 日本のエネルギー自給率は約4%。語弊を承知で大ざっぱに言えば、生産にかかるエネルギーを按分した日本の“真の食料自給率”は「39%×4%≒1.5%」なのかもしれません。
 現にアメリカはリン鉱石とカリウムを「戦略的物質」と位置づけ、輸出を禁止しています。肥料価格の高騰は日本の農業に多大な影響を与えますし、いつまでも外国から輸入できる保証もありません。
 自給率を「国防」という観点から考えるのであれば、食品単体ではなくそれを生み出す肥料やエネルギーなど、トータルに考えなければ意味がないように思います。以下省略。
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さて日本での生活には海外から船で全ての物品を運び込まなければなりません。
飛行機による運送もありますが、それは微々たる割合です。

ですからこそ日本のカトリック信者にとっては今日の『船員の日』は特に重要な日です。
熱心に船員の安全と幸せを祈らなければいけません。
そこで挿絵代わりの写真として大型輸送船の写真をお送りいたします。

写真は順々にコンテナ船、タンカー、液化天然ガス専用輸送船、自動車専用輸送船、そして最後はセメント専用輸送船です。









日本の天皇制を考える(2)陸軍士官学校卒のある高齢者の想い

2017年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昔、戦前に日本にあった陸軍士官学校の卒業生は天皇制と平成天皇の生前退位をどのように考えているのでしょうか?
大変興味のある問題ではありませんか?
そこで私が尊敬している立石 恒さんへご寄稿をお願いしました。以下がその解答です。
===天皇制に関する陸軍士官学校卒業生の想い==============
6月16日に天皇の生前退位に関する特例法が公布されました。これから1、2年のうちに平成の時代が終わるのです。
現在の天皇は神話時代を通して第125代目で、万世一系と言われています。
そうして最近、女性宮家の問題が提起されています。それは皇位継承者の絶滅が心配されているからです。
先の敗戦の直後、イギリス、オーストラリア、ソ連などは天皇制の廃止を強く主張したのです。
しかしマッカーサーは天皇制の存続と宮家の数を減らし三宮家にすることを実行したのです。

明治維新以後全ての日本人は名前に姓を持つことになりました。明治政府が個人を識別し税金を課するためにそうしたのです。
それまでは武士階級を除いて多くの庶民は姓を持たなかったのです。江戸時代までは税金を納めるのは農民だけだったのです。
農民は領主から土地を借り、地代として年貢米を納めていたのです。それは米本位の経済体制だったのです。
さてそれはさておき現在でも姓を持たない日本人が2人居るのです。その2人とは天皇と皇后です。この理由は宗家の当主には姓は要らないという考えなのです。
イギリスのエリザベス女王はウンザーという姓を持っています。そして終身在位します。

日本人は天皇を尊敬し、マスコミは敬語を使います。
そして憲法の第一条に、天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって・・・と明記してあります。
戦前の天皇は軍国主義によって利用されました。
平和の象徴としての天皇を私は否定しません。
陸軍士官学校の当時から、私は天皇が日本に必要な一つの機関だという「天皇機関説」に近い考えを持っていました。
あれ以来70年以上経ちますが現在でも天皇機関説に近い考えを持っています。
ですから天皇の生前退位も否定はしません。
天皇制がますます日本の発展に寄与することを願うものです。(終り)
=================================

「天皇機関説」とは内閣の承認を条件にして天皇が国の政治を主宰するという考えです。天皇制はそのような役目を持つ国家の一機関なのです。現在の天皇制に近い考え方です。この考え方を主張した美濃部達吉は弾圧され貴族議員を辞めました。1935年のことでした。軍部は内閣の承認は必要は無いと主張したのです。軍隊の統帥権は天皇にあり、内閣が干渉してはいけないと言うのです。
明治憲法では天皇の国政、特に軍事行動の発布には内閣の承認は不要だったのです。それで軍部独走が起きたのです。
「天皇機関説」にはいろいろな解釈があって現在でも議論が混乱する立憲君主制に関する一つの学説です。

この立石 恒さんは昨年の10月26日に以下の記事をご寄稿しました。
参考までに再掲載します。
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『昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯』、2016年10月26日 
まえがき、
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された立石 恒さんの生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
=======================================
あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。

今日の挿絵代わりの写真は昨日と一昨日に撮った船の見える風景の写真です。一番初めの氷川丸の写真は横浜港で撮りましたが残りの写真は三重県の鳥羽湾の遊覧船から撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










三重県の鳥羽への客船の旅

2017年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
何処までも広く碧い海を巡航する客船の旅に行きました。デッキの上で缶ビールを飲みながら心地良い潮風に吹かれながら考えました。地球の70%は海と言います。陸地の方が少ないのです。
地球は青い水の惑星なのです。人間の小さな、小さな存在をしみじみと想います。何故、人間は戦争を果てしなく繰り返すのでしょうか。

夕方に横浜の大桟橋を出て、翌朝に鳥羽の沖に投錨します。伊勢神宮や二見ケ浦などを巡り、夕方帰船します。そして今度は夜を徹して横浜に帰ります。午前10時30分に着岸します。
2泊3日の小さな旅ですが気持ちが爽やかになります。
それでは写真に従って旅日記をお送り致します。

1番目の写真は横浜の大桟橋に横着けしてあるパシフィック・ビーナス号を後方から撮った写真です。総トン数、26000トン、乗客定員、696名、全長、183mの日本で2番目に大きな客船です。

2番目の写真は午後5時に出港してずぐにくぐる横浜ベイブリッジです。
まもなくメイン・ダイニングで夕食の宴が始まります。私共のエメラルド婚を祝うためにフィリピンの楽団が来て一曲かなでてくれました。
夕食後はショールームでジャズの演奏を楽しみました。

3番目の写真は翌朝、三重県の鳥羽湾に投錨した客船の姿です。
船体の真ん中に巨大な台船を固定し、その台船の階段に小さな船を着けてお客を鳥羽の港へ運びます。
私共は自由に観光することにして、まず鳥羽港の遊覧船に乗りました。この写真と次の写真は鳥羽湾めぐりの遊覧船から撮った写真です。

4番目の写真は投錨しているパシフィック・ビーナス号を後ろから撮った写真です。

5番目、6番目、7番目の写真は遊覧船から撮った鳥羽港の風景です。

鳥羽港の外は伊勢湾です。豊かな漁場があるらしく漁船が何隻も向かって走っていました。

鳥羽湾には緑の林に覆われた小島が散在し、丁度、松島湾のような風景でした。島々の集落を結ぶ鳥羽市営の連絡船と何度も行き交いました。
鳥羽港の遊覧船巡りは1時間ほどでした。三木本真珠島もまじかに見ました。
その後は鳥羽駅の傍の一番街まで歩いて行き、お土産を買い、昼食をして帰って来ました。
鳥羽市は世界で初めて養殖真珠を育んだ美しい海に囲まれています。独自の暮らしぶりを色濃く残す離島もあるそうです。そして古来より受け継がれてきた海女文化もあると言います。
鳥羽市の全域が伊勢志摩国立公園に指定されていて本当に美しい所でした。

午後は船に戻り、船内の映画館で日本映画を見ました。過疎の島の村おこしの喜劇でした。あまり出来の良い映画ではありませんでしたが、まあ楽しめました。
夕食は洋食のコース料理でした。
夕食後はショールームで和楽器の合奏を楽しみました。
三味線、太鼓、篠笛、尺八、鳴り物の合奏なのですが、ジャズ風の編曲もあり、なかなか楽しい合奏です。外国でも演奏しているグループだけあって洋風な感じもありかなり楽しめました。
その後10階の後部デッキで星空の観測会がありました。航海灯以外の外部の電灯を全て消して星が鮮明に見えるようにして船長が星の説明をしました。惑星と恒星の違いを含め、かなり詳しく星座の説明をしていました。星の観察が好きで航海士になり、やがて船長になったような雰囲気の男でした。なにせ大型船は夜も航海し、昔は星を観察して船の位置を決めていたのです。
次の日は朝に大島沖を通り、やがて城ケ島を回り浦賀水道に入りました。ここからは昔、ヨットで東京までセイリングしたことがあったのでその思い出を楽しみながら飽かず海を見ていました。
そして客船は予定通リ午前10時30分に横浜の大桟橋に着岸しました。駐車して置いた車で自宅に帰ったのは12時30分でした。

今回の旅は碧い海を静かに眺める時間が長い旅でした。地球は青い水の惑星なのだと実感しました。人間の小さな、小さな存在をしみじみと想いました。何故、人間は戦争を果てしなく繰り返すのでしょうか。いくら考えても果てしが無い問題なのでしょう。

海上から見た東京の街の美しさをお楽しみ下さい

2017年07月07日 | 写真
2009年に東京湾でヨットをする機会がありました。その折に撮った写真から東京の街の風景をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

1番目の写真は芝の日の出桟橋に係留してあるシンホニー・クラシカ号です。昼と夜、ディナーを食べながら東京湾を遊覧する客船です。

2番目の写真は浜離宮です。浅草を出る遊覧船で隅田川を下ると浜離宮の桟橋による便がります。

3番目の写真は20-09年に乗ったヨットです。手前がババリア39で中央のヨットがハンスクリスチャン41です。どちらも豪華なヨットでした。

4番目の写真は芝浦の沖から見た夜景です。中央に東京タワーが写っています。

5番目の写真はお台場から見たレンボーブリッジの夜景です。
これから梅雨が明けて夏が来ます。海で遊ぶ季節ですね。皆様も夏の日々を大いにお楽しみ下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本の天皇制を考える(1)何故、天皇は自由に辞められないか?

2017年07月06日 | 社会・経済
日本の天皇制は大和朝廷から続く世界に類を見ない日本独特の文化です。日本の文化的土壌に育った制度です。
それは中國の頻繁に交代する帝王ともヨーロッパの王様とも違う性質を持っています。
そこでこの日本民族が守っている天皇制というものを連載しながら考えて見たいと思います。
その第一回目は「何故、天皇は自由に辞められないか」という問題を取り上げたいと思います。

しかしそんな理由は知っているという方々や、天皇制に興味が無いという方々のために、はじめに珍しい花々の写真をお送りします。
写真と説明文は、『KITAHOのデジカメ散歩」( http://kitaho321.blog25.fc2.com/)から引用しました。
特にKITAHOさんの説明文を丁寧に読むと『KITAHOと花の世界』がしみじみと見えて来ます。ご一読下さい。

1番目の写真は西洋ニンジンボク(Vitex agnus castus )です。 4年ほど前に、挿し木苗を作り、八ヶ岳山麓の別荘に植え込みました。今は、背丈以上にも生長し、爽やかなスカイブルーを魅せています。 次回、別荘に行く際には、きっと爽やかなスカイブルーの彩りを見ることができることと思います。
クマツヅラ科の西洋ニンジンボク(Vitex agnus castus )は耐寒性低木 落葉樹で、地中海、南ヨーロッパから西アジアに分布しているものです。

2番目の写真はブル-の花、瑠璃色の美しいカタナンケの花です。和名もルリニガナ(瑠璃苦菜)と言います。
キク科なのですが、半透明の総苞片が珍しく、ここも魅力的なものです。
 今でこそ、苗の販売も目に付くようになりましたが、5年ほど前には躍起になって探し回りましたが、見付けることが出来ず、『じゃあ・・・種から育ててやるぅ~』と、イギリスのJonsons Seedsにお願いしたのを覚えています。

3番目の写真は東南アジアの洋ラン原種、Cirrhopetalum longiflorum 'Tokyo'  シルホペタラム ロンギフローラム ‘トーキョー’ というランの花です。

4番目の写真はハンゲショウの白くなった花です。夏至から数えて11日目・・・今日が7月2日。この日を半夏生と言います。
じつは・・・話の種にとドクダミ科 片白草(カタシログサ)を育てています。
このカタシログサは、ハンゲショウとも呼ばれ、6月小下旬頃から上部の葉が白変化するのが美しく、鑑賞価値ゼロのような、穂状の小さな花を付けます。 律儀に7月2日の半夏生の日を目指して白変化するというおもしろさがあります。
このカタシログサは水が好きで、大きな鉢植えで、腰水栽培をしています。

5番目の写真はオオタカネバラ(Rosa acicularis)の花です。別荘の傍の野山で撮った写真です。

さて花の話は終りにして、「何故、天皇は自由に辞められないか」という問題を取り上げたいと思います。
結論を書けば、天皇が辞めていなくなれば、総理大臣や閣僚を任命する人がいなくなり、政府が瓦解するからです。
現在の憲法にそう明記してあるのです。
日本国憲法における天皇に地位と役割は以下のように書いてあります。
日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定してあります。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)ことと書いてあります。
天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)ことになっています。
しかし国政に関する権能を全く有さない(第4条)のです。ですから天皇は政治的発言をしてはいけないのです。
現行憲法においては、実質的な(=内閣総理大臣が行使する行政上の)権限がない点で明治時代に出来た帝国憲法と非常に異っています。ですからこれを「象徴天皇制」というのです。

天皇の地位については以下のように書いてあります。
日本国と日本国民統合の「象徴」とされ、主権の存する日本国民の総意に基づくものとされる。
天皇が「元首」・また「君主」であるのか否か議論があるが、日本は外国からは、立憲君主制をとる国の1つと見られ、天皇は、諸外国から「君主」として扱われているのが実情です。

さて天皇は日本国憲法の定める国事を行うとされているが、それでは天皇の行う国事行為はどのようなものでしょうか?以下の通り。
それを以下に示します。
国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。
内閣の指名に基づく最高裁判所長官の任命。
憲法改正、法律、政令及び条約の公布。
国会の召集。
衆議院の解散。
国会議員の総選挙の施行の公示。
国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。
外国への全権委任状、派遣する特命全権大使・特命全権公使の信任状の認証。
大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権の認証。
栄典の授与。
批准書、条約など外交文書の認証。
外国の大使、公使の接受。
儀式を行うこと。
この他皇居内での斎事、各種団体大会への出席、地方での公務などなどもあります。
これらの天皇の国事行為は、内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う(輔弼と同義)。

ここで驚くべきことは国事の種類と数が多いことです。これでは天皇が忙しくてお疲れになるのが理解出来ます。
そして上記のように、
国会の指名に基づく内閣総理大臣の任命。
憲法改正、法律、政令及び条約の公布。
国会の召集。
衆議院の解散。
国務大臣や、その他の官吏の任免の認証。

したがって天皇が急に辞めて居なくなったら日本政府の機能が崩壊してしまうのです。
ですから国会は慌てて天皇の生前退位に関する法律を作り日本政府の機能が崩壊するのを防いでいるのです。

さて皆様、天皇は個人の意思で高齢になったら引退出来るようにした方が良いでしょうか?
天皇の職務である国事が多過ぎるとお思いになりませんか?
日本の天皇制ははたして必要でしょうか?
私は天皇制はその伝統文化的な価値が素晴らしいと思っています。ですから国事を含めて過剰に負担をおかけすることはひかえるべきと思っていますが、皆様はどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

静寂な湖に想う(2)悠久の三湖と人の心変わりの激しさよ

2017年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
信州の仁科三湖は本州を東西に別けるフォッサマグナの糸魚川ー静岡の構造線上に連なる三つの湖です。3つの湖は農具川で繋がっていて上流側から青木湖、中綱湖、木崎湖という名前がついています。
木崎湖から流れ出た川は最終的に信濃川に合流し新潟で日本海に流れています。
先日、この仁科三湖を丁寧にめぐりながら岸辺に立ってその悠久の自然湖の風景を眺めて来ました。
なにせこの3湖は数百万年も以前に出来たように考えられるのです。
富士山の山中湖は800年(延暦19年)の 延暦の大噴火で流出した溶岩流により桂川が堰止められ出来た自然の湖なのです。ですから、仁科3湖は山中湖に比べるととてつもなく古い自然湖なのです。きっと日本にある自然湖の中でも一番古い湖の一つではないでしょうか?

フォッサマグナの西側を西南日本、東側を東北日本と分けられます。西南日本に当たる飛騨山脈の地表は新しい火山噴出物で覆われていますが、大部分は5億5,000万年前 - 6,500万年前の地層(中生代や古生代の地層=中・古生層)であると分かっています。
これに対し、東北日本の頸城山塊付近は大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物(新第三紀・第四紀の地層=新第三紀層・沖積層・洪積層)から出来ていると分かっています。
この大きな地質構造の違いは通常の断層の運動などでは到底起こり得ないことで、大規模な地殻変動が関係していると考えられています。

さて仁科三湖のある地域は数百万年前までは海であり、地殻が移動したことに伴って海の堆積物が隆起し現在のような陸地になったと推定されています。
その時、幾つかの湖が出来、それが干上がったり、再び湖になったりして現在の三つの湖になったのでしょう。
このような仁科三湖の悠久な歴史を想いながら、この世の人々の心が変わる激しさを考えていました。

戦前は鬼畜米英と叫びながら戦争をして、敗戦になるとマッカーサー様と崇め立てまつります。軍備を放棄し、戦争を放棄し、そのことを憲法にうたいました。しかしやがて自衛隊を持ちます。
そして最近は急に平和憲法を改正し、軍備を強化し、戦争さえ辞さない勢いです。
安保反対のデモが国会を取り巻いて死者さえ出た、あの騒ぎは嘘のようです。日米安保を強化して日米共同作戦を考えるようになりました。
人の心の変わりかたの早さに驚きます。心の変わり方の激しさに嘆息がでます。

最後に芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の最後の文章をお送りします。
・・・ 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様のおみあしのまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢て居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。(終り)・・・

仁科三湖は人の心の変わり方の激しさに一切頓着致しません。その悠久の碧い湖面に残雪の山稜を静かに写しているばかりです。

今日の挿し絵代わりの写真は先日撮ってきた信州の仁科3湖の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は木崎湖です。

2番目の写真は中綱湖です。

3番目の写真は青木湖です。

4番目の写真も青木湖です。

静寂な湖に想う(1)相模湖と山中湖

2017年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム
考えてみると私は若い頃から湖にある種の憧れを持っていました。
ですから十和田湖、田沢湖、猪苗代湖、五色沼、中禅寺湖、奥日光の湯元の湖、丸沼、霞ヶ浦、諏訪湖、富士五湖、芦の湖、野尻湖、琵琶湖などを何度も訪問しました。北海道の阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖、洞爺湖なども幾度か行きました。
これといった特別な目的もありません。ただ湖の畔をゆっくり歩き、そこはかとなく流れる静かな時間を楽しむだけです。
この時、重要なのは湖の水面の輝きや水の美しさです。そしてそれを取り囲む林や森と、背景にある山々のたたずまいが重要です。
静かな湖を巡り歩くのは何時しか私の趣味になってしまいました。
趣味と言ってもただ湖の静謐な雰囲気の中で新鮮な高原の空気を楽しむだけの趣味です。
しかし湖畔に佇んでいるといろいろなことが思い出されます。この美しい邦の将来も考えます。
そして外国で見た湖の風景や風の香りを思い出します。脈絡も無く思い出します。アメリカのエリー湖、ミシガン湖、ドイツのボーデンゼー、エビネゼー、スイスの山麓に青く輝く数々の湖、イギリスの湖水地方の湖沼、などなど。
そこで今日から幾つかの湖の写真をご紹介しながら、思い出や湖のほとりで考えたことを『静寂な湖に想う』と題した連載として書いてみたいと思います。
今日の第一回目の連載は足繁く訪ねた相模湖と山中湖をご紹介します。
相模湖は神奈川県の大きなダム湖ですが、その水は富士五湖の山中湖から桂川を流れてくるのです。ですから山中湖は相模湖の親なのです。
先週、また相模湖に行った時の写真をお送りします。湖畔は公園になっています。







そして数年前の紅葉の頃に撮った山中湖の写真をお送りいたします。
相模湖は人造湖で公園になっていますが、山中湖は自然そのままの風景という大きな違いをお楽しみ下さい。







山中湖は800年(延暦19年)の 延暦の大噴火で流出した溶岩流により桂川を堰止められ出来た自然の湖です。そこから流れ下る桂川が現在の相模湖に流れ込んでいるのです。
相模湖は1947年に完成しました。それは山中湖が自然に出来た800年から1147年後のことだったのです。
さて先週、相模湖の湖畔で少し考えました。
日本の多くの人は政治家を信用しません。政治家の悪口を書きます。政治家を差別し蔑む人が多いようです。
これでは日本の政治家の質が良くなる筈がありません。政治家のレベルが上がるわけがありません。
もっと政治家を尊敬すべきです。そんな想いで、昨日、東京都知事の小池百合子さんを褒めるような記事を書いたのです。
ですから今日はこれだけで終わりにします。

そして自分で撮った相模湖と山中湖の涼しそうな風景写真を何度も眺めて暑い日々を過ごしています。
皆様はこの相模湖と山中湖の写真をご覧になって何をお想いになられるでしょう?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)