春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

一期一会を大切に、市内案内

2015-05-22 19:46:00 | 観光案内

集まって下さ~い」市内史跡拠点で、振り絞って声かけども、
一向になびかぬ群れを相手に、虚しく呼びかける。
列の先頭から終端まで、こんなに離れてしまった。
軍隊の行軍ではないので、足並みを揃えてまでは強制は出来
ない。
かっては、町を元気よく闊歩していた衆も、一歩一歩確かめ
ながら歩むも中には転ばぬ先の杖ではないが、道具を頼りに、
懸命に列を追う人もいる。


離合集散を繰り返し予定した分刻みのスケジュールを
時間通り、案内を終わらせなければならない。
こんな足並みの揃わぬバラバラの集団を束ね、案内する難し
さを改めて遭遇する。、
説明は通り一遍にならず、独りよがりにならず、多少の深さ
も加え、歴史を楽しんで貰う。


日野駅の西側、西の地蔵さん前の緩やかな坂道
ゆったり、もったりで始まった、道先案内であった。
かっては鉄道の専用軌道を跨いで、向こう側に旧街道は繋がって
いたが、今は完全に開かずの踏み切りになってしまった。
金網越しに鉄路を前に折り返す。

◇パンダ隊士

法泉寺から旧甲州街道を縦断し、狭い道を辿りながら井上源
三郎さんの生家へ案内する。
しかし、開館時間より早すぎていたので、未だ閉まっていた。
開館日は判っていたが、開館時間が変わっており、すっかり、
その確認が抜けていた。
多数の引率を背後に特別の計らいで何とか開けてくれた。
館内に案内して貰い、説明がはじまり、徐々に熱帯びた説明
が伝わってくる。

向かい側で、新選組隊士姿で身を帯刀したパンダ隊士が縁台
で腰掛けている。
おおきな頭にちょこんと、小さな鉢金を被っており、戦闘体
勢にあるが、そのゆったりした姿に、緊迫感は余り感じられない。
「そこの~、まあゆっくりして、いけや」
パンダ隊士と向き合い、忙しく動き回る間の一日に、しばし骨休
みすることが出来た。

◇鳳凰のすがたに

宿の真ん中、現代でも残す江戸の文化を今日伝える、唯一の建物。
何時も家の中からであるが、外側からの説明はこんな時に限ら
れる。
式台のある玄関口の入母屋作りの屋根に何時も得たいの知れない
動物が見下ろしている時代の経過を物語り、風化しているが、
その姿は今なお健常である。
頭の前はキリン、後ろは鹿、首は蛇、あごは燕、背中は亀、尾っ
ぽは魚と言われる

古来中国で言われている象徴的な動物、鳳凰(ほうおう)だそうである。
木造家屋は燃えやすい。建物の火災の守り役を担っている。


◇道案内

石田地域は多摩川と浅川の合流点に有るため、昔から現代まで
出水の歴史。
多摩川の渡しが流された、歳三の生家や石田寺も水没などなど。
そんなことから、道が正に入り組み、複雑怪奇である。
住宅地の中、特に目立った目標がないため、たまに行くと迷走
する。
とうかん森、石田寺に行く時に、道案内してくれるのが、この
巨木である。
森といわれる看板も10数本あった巨木が今や僅か2本残されるの
みで、切り落とされてしまった。

石田寺はかやの木 、この巨木が住宅にあって、建物の影から顔
を除き、此処だぞと道案内してくれる。

◇日野高校
南側に日野高校が隣接するが、2013年の高校野球の地方大会は
私立のシード校を次々と倒し、あれよあれよと言う間に決勝ま
で進んだが、惜しくも甲子園行きを逃してしまった。

この快挙は地元の雄、歳三の機智と武勇の気が時代越えて、草
の根の日野球児に乗り移り、戦勲が生れたのではと勝手に想像した。
同校の応援歌は同校のOBの亡き忌野清志郎の代表作RCサクセシ
ョンの「雨あがりの夜空に」が鳴り響き、選手たちを鼓舞した。
甲子園で鳴り響けば、忌野もほくそ笑んでいるであろう。

日野、石田、高幡廻りきって、もうヘロヘロ、しかしやり終えて
最後のご挨拶。
拍手が総て、何とかやり遂げた。

一期一会を大切に、また再びお会いできることを誓って

案内人の刺激的1日、市内案内

2010-12-12 22:58:00 | 観光案内

朝の1時間半に及ぶ行脚に周に2回は欠かさず歩いているのがこの浅川である。
そんな浅川を主役に紅葉真っ盛りの折りに高幡不動から、石田寺まで歴史史跡散歩が実施され、その案内役の大役を仰せ使った。

毎年、この時期、日野市観光協会の主催で行われているが、ローカル紙などの広報活動をやっているが、伸び悩み参加者も20名前後であった。所が今年は読売新聞に載ったせいか、都内近郊からの参加者もあり、普段の倍、約40名の申し込みがあり、三大新聞の広報力の強さを改めて、思い知らされた。
揃いのユニフォームにヘッドマイクを装着し、携帯スピーカを肩から下げ、あれもこれも、読む暇もないのに、いざと言うときの保険のための資料をデイーバックにぶち込み、両手には当日のスケジュール表と案内メモを握りしめる、重い武装姿で、高幡不動に参上する。
40名の集団を一気に案内すると、固まりが生まれ狭い歩行路に一般者に迷惑をかけることから、20名単位に分け、2組の単位で移動した。但し、その移動も、歩行速度が軍隊の如く、一定ではないため、どうしても長い行列が生まれてくる。そんな固まりを上手く誘導しながら、安全に決められ時間の中で、移動する事の難しさを痛切に感じる。
そんな道案内人も、浅川護岸歩きは、見通しも効き、先ず道に迷う事はない。しかし、モノレールの東側は、石田寺、とうかんの森歳三の生誕地は住宅地で、道も昔のままで入り組み、行き止まりもあったり複雑ではあるが、「ああ、間違えてしまった」などは絶対許せない。
さあ、そんな中でのご案内であるが、月1回の建物案内は繰り返しの効果で鈍化した頭でも体に染み込んでおり、言葉や、嘉永、文久など西暦年もあわせ年号は滑らかに出てくるが、年に1、2度の市内案内は中々出てこない。
この日のためにと思い、学生時代の期末試験にふともどって、万端準備したが、衆目の目の前では緊張の余り、言葉が出て来ない。
当日は某国の首相も外交上の要人と会談する折りは官僚の準備したメモを一時も離さず活用していたが、それを真似するわけでは無いが言葉やデータの誤りは是れ又許されず、恥も外聞もなくメモはしっかり離さず活用した。
さあそんな中でスタートは挨拶を踏まえ、全体一括で碑の前で、新政府が「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」とのくだりからマイクを通して、建立まで14年の歳月がかかった戊辰の怨念をと演説をぶったが果たしてどの程度伝わったか、聞く側の表情を伺う間もなく、目線はメモから離れられなかった。
悪い事に碑の隣には、出店の流すスピーカからラジオの雑音もいやがおうでも入ってくる、ざわついた中での滑り出しであった。
反応を確認する余裕もなく、隊列はスタートした。

ふれあい橋で遥か離れてしまった高幡山を振り返り、もうあんなに小さくなった五重の塔の姿を確認し、感嘆の声もあがる。
戊辰の戦いで勝沼戦争で破れ、高島藩の先導で新政府軍が日野宿に厳しい探索の手が入り、あのこんもりした高幡山も隠れ場所になった説明に頷いていた。
土方資料館に到着、この長い行列を予定通りの時間で案内出来た事に先ずは一安心。
さ~て、問題はモノレールの向こう側、いよいよ迷路の石田地区へ
北川原公園で階段に登り、多摩川と浅川の合流点にあたるこの付近は出水も多い。
弘化3年(1865)記録的な大雨で歳三の家の土蔵の一つが流され、母屋も時間の問題と村中総出で現在の家に移築した事実を更に大雨で渡し船が川留めとなり、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆 30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故もあったこと。現代でも河川敷のねぐらを襲撃、ヘリコプターで助け出される事実も記憶に新しい暴れ場所である。

後は石田寺に到着。歳三の引き墓で手を合わせ、既に薄暗くなった時間になってしまった。六地蔵の前で輪廻転生から守ってもらい拙い説明に最後まで耳傾けていただき、お別れの挨拶、拍手を頂き、感動の一時であった。
11時に家を出て、殆ど歩き詰め、18時に我が家に倒れ混むように到着、刺激的な1日は終わった。

甲州街道を行く、市内案内

2007-12-15 14:56:00 | 観光案内

市内を誇る物は豊かな緑と清流がある。
その一つである清流は市内を張り巡り、豊かな土壌とも併せ、米作りを支え、徳川の天領地として、貴重な遺産として残されている。
一部はコンクリートで暗渠化されているものもあるが、こうしたオープン化された水路はあちこちで見受けられる。
天気も良く、比較的温かった冬の午後、地元に生まれ、育ったY先生に市内の旧甲州街道を案内して貰った。流石地元ッ子、書籍化されずに、埋もれた史蹟が沢山あり、その話に耳をそばだて集中しながら、先生の後を追っかけた。
この用水は「精進場」と言われ、多摩川の渡しの日野側の旧甲州街道沿いにある。
「精進」とは神仏参詣に先立って水を浴び心身を清める禊(みそぎ)のことである。
また講を組んで富士山を参詣する「富士講」の人々が此処で心身を清め、日野台の富士塚から富士山を拝んだと言われている。・・・現場の案内板から
一方では甲州街道を江戸から西下し、此処多摩川の渡しで越えて辿り着いた中には江戸から連行された囚人もおり、此処で精進する。
この旧甲州街道を更に西に向かうと、浅川が待ち構え、大和田の渡しがあり、その近くに有名な処刑場があった。
その処刑前に此処で精進するという、まさに娑婆の別れを行うまえに此処で身ぎれいにすることも行われたようである。
歩いて1時間程の道のりに大和田橋があり、最後の道となる。

爽やかな秋日和、市内案内

2006-10-18 06:24:00 | 観光案内

「こちらは文久3年(1863)建てられ140年以上経過した江戸時代末期を物語る本陣の建物」
「甲州街道に面し、お江戸日本橋から10里(約39㎞)大名、公家、代官などが参勤交代で休憩所として利用した由緒ある建物」
月に1、2度であるが、ここで案内の大役を承っている。
今や秋真っ盛り、平日であると、時間に束縛のない、段階世代のおじさん、おばさん達が、デイバックを背負い、スニカーを履いた定番のスタイルでクラブティーリズムなどの旗をかざした団体や或いは個人でやってくる。
上気した顔にタオルで汗吹き、18畳の畳み部屋に案内すると、皆「ドテッツ」と崩れるように座り込む。しばしの休憩に皆ホットした表情にかなりの疲労感が伝わってくる。「どちらから来たんですか?」昭島、中にはつつじヶ丘からの強者が甲州街道を歩け歩けでひたすら西へ下り、ここに立ち寄ったようである。朝8時半に家を出て、途中休み休みといいながら、既に午後2時を廻り、4~5時間は歩いて居ると言う。
東海道を歩き、今回は甲州街道にチャレンジしているようである。
一通り案内してから、「これから何処えと」余計な事を聞いたら、「更に甲州街道を西下、八王子迄、1時間以上はあると思うが、頑張ります」と簡単に言ってのける。
「よっこらしょ」とすのこで再びスニーカーをはき、旅発つ姿に「お大事に」と声をかける。
秋の日は短く、果たして明るいうちにたどりつけるか、車両が激しく往来する、国道筋の騒音の中、歩け歩けの行者行進は続けられる。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/