春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

かっての料理屋も無惨

2006-07-26 18:11:00 | 事件だ~!!

縁の場所、六国亭がどうなっているんであろうか、野次馬根性むき出しで、自然と多摩丘陵の山頂へ足が進んでしまった。
山と言っても高い平山の住宅地、かなりきつい勾配を登って行くと住宅地を越え、眺めの良い尾根伝いの山道に出る。我が家から大凡4、50分でたどり着ける距離である。
その尾根道を進むと、樹木が濃くなり、舗装も途切れ道幅が狭く車での乗り入れも困難になる。
かっては野猿峠ハイキングコースであった、この尾根道も長沼側に繋がっていたが、道は荒れ、途中で行き止まりになっている。
従って、此処に訪れる人も、犬の散歩で僅かに来る程度で人影も少ない。
その尾根道を尚も進んで行くと途中で、プ~ンと焦げた匂いが立ち込めた火災跡に出る。
丸で最前線の戦場の様で焼き尽くされ、骨組みと僅か壁が残された六国亭の無惨な姿があった。
建屋の外れに駐車してあったセダンタイプの乗用車も、ご覧の通りフレームを残し、内装始めタイヤなど炭の様に真っ黒に燃え尽きていた。
火の気の無い所から燃え広がり、火勢の勢いは家屋と周辺に置かれた可燃物を呑み込むように燃え尽き廃墟にしてしまった。
かっての六国亭は窓腰の風情を眺めながら座敷と囲炉裏を囲み、名物の野性味豊かな野鳥焼きで舌鼓をうち、杯を交わした面影が微かに蘇るが、その面影が完璧に廃墟になってしまった。
ただでさえ狭い尾根道、恐らく多数の消防車もこの火災現場に取りつくには大変な障害になったであろう。しかも山の上、急斜面の崖に僅かに取りつく住宅の他は樹木に覆われた場所だけに肝心の消火水をどのように、確保したのであろうか?
ようやくたどり着いた火災現場であったが目の前の火勢に、手だてを加えられず、悔しい思いをしたのではなかろうか。
しかし、こんな火勢の前に、この時期の長雨が幸いしたのであろうか、或いは懸命な消火活動の成果か、鬱蒼とした樹木に燃え移らず大規模な山火事にならなかったのは不幸中の幸いである。
それにしても、この廃墟化した焼け跡を見るにつけ、何故こんな事が行われるのであろうか、この繰り返される蛮行に、改めて怒りと虚しさが、目の前を駆け抜ける。
場所を選ばず、市域全域を狙った放火に関係当局や地域の住民に対する、愚かな挑戦である。
その再発も十分予知されるまま、何処かで、次のターゲットを狙っているかも知れず、この悪行は続いている。威信にかけても、探し出し安心して暮らせる世界に立ち戻って欲しい。

win-meも最早終わり

2006-07-16 10:33:00 | パソコン・電子製品

とうとう相手の策略に乗せられ、win-me.win2000など多くのユーザーが利用しているOSのサポートは7月11日を持って打ち切られてしまった。
当面、インターネットなどを通じて侵入するウイルス対策などハッカからの攻撃に対しての対策が取りにくくなるようである。
今取れる対策としてはOSをwin-XPに乗り換え、継続的なサポートを受けるしかないようである。しかし、そのwin-XPも2年そこそこの製品寿命のようであり、早くもポストwin-XPの途上を示唆している。
慌ててwin-XPに乗り換えても、win-meなどと同様、すでに先が見えてるようである。先が見えてる高価なソフトを購入しても、敵の思う壺、全く無駄な投資になってしまう。
果てさて、拙宅もwin-meを使い続けている一人、このまま騙し騙し、使い続けるしかないないのであろうか、寡占状態にあるメーカの言いなりになっている事に憤りを感じつつ、何の手だても持てない弱者に救いの手は無いのだろうか?


威嚇のミサイル発射

2006-07-13 21:48:00 | 事件だ~!!

打ち上げ花火であるまいが、国威発揚なのか、近隣国を驚かせる、威嚇のミサイルを連発発射した。
その殆どが日本海の一部に集中して着弾したが、果たして、その意図は判らないままになっている。
射程距離1.3KMを持つノドンを例に上げるといったん大圏外に打ち出し、再突入して自然落下後、地上に突入するとマッハ5以上に達すると言われている。
首都圏を含む日本全土が射程内に入り、発射後5分程で着弾してしまうようである。
例え、そのミサイルの発射が捕らえられても、物理的にそのミサイルを着弾前に捕捉することは殆ど不可能に近い。
某旧防衛庁長官曰く、狙われたら最後、防ぎようはない、せいぜい、地下に潜るか、大きな建物の影に隠れるかの極めて無防備に近いものでしか身を護ることも出来ないようである。
某月、某日、掩蔽壕に隠されていた移動車両に載せられた燃料満載のミサイルが突如、白日の元に晒され軍司令部の発射指示を待ち、何時でも発射出来る状態で数人の兵士は待機する。
着弾点の指示を受け、計算された方位が発射台で設定される。
「発射」の合図の元に轟音と点火された燃料の火炎と煙を立てながら、発射台を離れ、天空高く飛び立って行った。
発射してから数分後、日本の目標値に着弾、炸裂と破壊、炎上の海の世界に陥ちいる。
いやあ~こんな事があっては欲しくない、物語である。
北東アジアで起きた火種に声高に唱える制裁論も振り上た拳も、国際協調を得られないまま日本は追い込まれ、騒ぎ過ぎとまで言われる始末。
そこで俄に起きた先制防衛論、「やられる前にやっちまえ」「ノーガードの戦い」なんて暴言もチラチラ、そんな暴挙は許しがたく、何とか平和に収束して欲しい。この間、世界から注目される中、中国から派遣された特別訪朝団も将軍様に会えぬまま説得工作は失敗。韓国の太陽政策を背景に南北朝鮮会談も途中で決裂してしまい、北も益々孤立無縁の状態に自然に追い詰められてしまった。
今正に揺れる不穏なアジアで日本が確かめられている。

横田基地「第374部隊」

2006-07-09 07:41:00 | 事件だ~!!

先日、隣接国の北朝鮮から、「スカット」「ノドン」「テポドン」など北朝鮮の保有する弾道ミサイルを多数打ち上げ、その威力のほどをアッピールするには過分なほどの多数のミサイルが打ち上げられ国内を恐怖の渦に巻き込んでしまった。
「ノドン」だけでも射程距離は1300kmもあり、首都圏を含む日本全土を総て射程内に入ってしまう性能を持ち、その配備数は既に200基もあると言われている。
その後、マスコミを通じて、色々な先生が解説が加えられたが、諸説紛々としておりその打ち上げの真意の程は推測の域を出ず全く判らない。
しかし、共通して言えることはそれを迎え撃つ迎撃ミサイルは今の所、何も持っていないことで、どうやら無防備であること判ってきた。
一方、拙宅の住まいの隣接に横田基地を抱える。
戦後間もなく接収されアジア太平洋領域の巨大な物流基地の要として「第374空輸航空団」を持ち、大量な輸送機を抱え、7.13k㎡と言う広大な敷地面積に軍人、軍属、及び家族が10、000人も生活していると言われている。
朝鮮戦争勃発当時の航空団は立川基地にあり、アジア地域でのにらみを効かす唯一の空輸航空団であった。
北朝鮮が侵略を始めるや否や「第374部隊」は韓国に支援部隊を送り、その初めの決定的な数時間内には、朝鮮半島より非戦闘員・軍属を救出した。
ベトナム戦争では危険な空輸を背景にケサンで包囲された海兵隊を支援し、負傷した兵士や大量な弾薬、物資を運んだ。
更にハノイに戦争捕虜交渉団を送り込み、捕虜の引渡にまで係わった、最前線にある「第374部隊」の歴史的な姿があった。
今日 「第374部隊」は太平洋地域の米軍の空輸隊としての役割を担いながら、写真のような配下の輸送機が地域を跨ぎ、飛来続けている。
一見国内平和裡に見えるが、当地初め国内に米軍配下の基地が多数あり、当然のことながら軍事拠点としての性格上、ノドンの矛先の一つとして数えても不思議はない。こうした蛮行が繰り返され、きな臭いことが起きると、この「第374部隊」の巨大な存在がある以上、避けて通れない危うい問題が霞めてくる。
時々、上空を掠める音にめざとく、その方向を確かめ、その機影を追ったりして、少なからずともその爆音が妙に気になる。

消え去るプリンスホテル

2006-07-02 18:03:00 | 世の中変わる

最後の輝きと名をうって横浜プリンスホテルが「50年アリガトウ」の文字をともすライトアップで、50年の歴史を6月末を持って閉じてしまった。
ホテルは投資会社が買収。建物を壊して大規模マンションを建てる。
その影響力は大きかったのであろう、朝日新聞の朝刊に写真入りで報じられていた。
横浜の一つの看板でもあるが、寂しく消えてしまうのだ。
一地方のホテルの閉幕にに何故、それほどに未練がましく取り上げるのか?
実は小職が川崎事業所の勤務時代に4年弱、憧れの横浜の地の外れであるが磯子の間坂に住んで居た。
プリンスホテルに繋がる急な傾斜地の一角に住まいがあり、その目の前の高台の一角が敷地面積900坪の美空ひばり御殿であった。
高台の立地から、大変眺めも良く、横浜港に接する眺望があった。当地では港に停泊する汽笛音を一斉に鳴らす音を聞きながら新年を迎える、港の情緒もたっぷりと残されていた。
その御殿の坂を上がるとプリンスホテルがあり、近くに此れと言った遊興地もないことより、夏になるとプリンスホテル専用のプールにホテルの利用客に混じってチョットリッチな気分に浸ったことなど僅かな記憶が残されている。
もともと海水浴場として、近くに海岸があったが埋め立てられ、石油会社や食用製油会社など工業化開発が進み、その海岸線は遥か彼方になってしまった。
一方、横浜周辺も港みらい開発で三菱ドックの跡地を含めた観光開発が進められ、鉄道路線も港町中心に益々賑やかになってきた。
"磯子"その中心街から取り残されたローカル、風光明媚な唄い文句だけではもはや集客能力に欠け、採算面から最早維持することは出来ない状態に陥ってしまったのであろう。
ついこの間、孫娘と広々としたホテルのガーデニングショップへ寄ったが、平日とは言えその閑散とした姿に何となく、寂しかったがまさか閉幕とは思えなかった。
この高台とその空間がまたまた、一大マンションに吸い込まれ、此処で暮らした記憶迄消されてしまうのかと思うと全く残念である。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/