春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

「競馬発祥の地」根岸

2021-03-01 15:05:00 | 歴史に向き合う
「さーて何処に行こうか?」孫娘の横浜の住まいを拠点に幾つか挙げられる場所の一つに根岸森林公園が挙げられる。我が家も根岸の隣、磯子に住んで居たこともあって、思い出深い場所でもある。
その根岸森林公園に足を踏み入れてみる。公園の中、手入れの行き届いた草原が続き遮るものがなく、見通しきいている。緩やかな小高い丘が続く中で、遥か彼方に3っの塔が並びさん然と輝き聳え立っている頂部だけが見える。
森林公園と言ってもピ~ンと来ないかも知れないが、公園の一角が「競馬発祥の地」である。近づくにつれ周りに此れほど高い構造物がなく、建物全体がモダンナ積み木細工のが洋風建築が目に入る。開放的に育種の窓が多数あるが、ボードで覆われ、塞がれ所々一部蔦が広がり風月に晒された姿が不気味さえ思えてくる。、無人化されている事もあって年月の経過を物語っている。これが歴史的な建造物の根岸競馬場である。


◇横浜競馬の歴史
1860年代、横浜で始まった洋式競馬は、もともと居留外国人の娯楽として始まった根岸競馬場は、やがて日本人も加わった社交場として賑わい、その後各地に設立された競馬場のモデルとなった。
1866年(慶応2)にこの地に完成した根岸競馬場を舞台に、 慶応3年(1867)に我が国最初の洋式競馬場が行われた所である。 慶応3年と言えば徳川慶喜が大政奉還し、翌年に鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰の戦いで国内が内乱状態の時に、既に洋式競馬の端緒が切られていたのである。
この聳える王城を思わす様な建物は米国の建築家が設計し、昭和5年(1930)に建設された観覧席の一部である。
<当時の観覧席は一等馬見所と二等馬見所があった。古写真に往時の姿が見える。北西側からは競馬場の背後に当たり、写真の左側に僅かにメインスタンドの縁が見える>


◇輝ける競馬の原点
1905年より明治天皇から御賞典が下賜されエンペラーズカップ(現在の天皇賞)が始まった。また、1928年には横浜特別(のちに横浜記念に改称、1944年限りで廃止)、
1939年からは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)がそれぞれ創設されている
第二次世界大戦の激化に伴い、横浜競馬の開催は1942年限りで休止された。1942年(昭和17)に幕を下ろすまで76年間行われた。クラブハウスは連合国の民間人の抑留所として交換船が来るまで使用された。
翌1943年6月10日には馬場を閉鎖して旧帝国海軍に売却した。

◇戦後>​
<この象徴的な米国旗のもと進駐した米軍に競馬場始め周辺地域は接収されてしまった。>

終戦直後の1945年、進駐してきた連合軍(実質はアメリカ軍)に接収された。その後払い下げを申請したが、進捗はなかった。 アメリカ軍によって馬場はゴルフ場や乗馬施設、駐車場などに転用されており、競馬場として使用不可能な状況な上、アメリカ側が接収解除に応じる様子も見られなかった。

<金網越しに広々とした庭にゆったりとした家が見える。
これが「U.S. Military Family Housing Area Negish」なのである。


1964年一部施設の接収が解除され、そのほかの土地の大部分も1969年にアメリカから日本政府へ返還を受けた。
1973年払い下げられ横浜競馬場は競馬会の所有となった。
しかし、周囲の住宅地化が進んでおり、競馬場復活させることは出来ず結局、1977年には横浜市所有の根岸森林公園と日本中央競馬会所有の根岸競馬記念公苑、馬の博物館が設けられ、競馬場の再建は果たせなかった。

<その、姿は>
第二次世界大戦までは由緒ある競馬場として使われ、その格式高い観覧席が往時の姿そのままに未だに残されている。
現存している所はその一部の一等馬見所だけである。
戦後に接収された、米軍のゴルフ場等が解除され、横浜市が公園として整備し、競馬記念公苑とともに昭和52年開園した。
しかし、象徴的な競馬場の姿は半分隠された状態である。肝心の観覧席から望む配下の競馬コースは未だに米軍の居住地として、米軍の配下にあり日本人が立入することが出来ない場所である。
従って、由緒ある建物も肝心のメインスタンド側はベールに包まれたままである。


多くのフアンが集まり見通しのきいたスタンドからのどよめき、今日の隆盛を極めた競馬の原点はこの根岸からだったのである。その歓喜の渦を読んだ競走馬とそれを支えた観客が熱い眼差しを送った観客を収容したフェンスが見えないのである。
今はひっそりと建物だけが、風雪に耐え、その姿を留めている。
<象徴的な建物を真っ正面から見れない歪んだ状態はこの看板が象徴するように未だ戦後の接収の姿を引きずっているのである>


夏休みの宿題.日野巡り支援

2014-08-05 18:00:00 | 歴史に向き合う
日中35~6℃と暑い、思わず叫びたくなる。
容赦なく照りつける太陽、湿っぽい空気に
日中は殆ど人の姿も見えない。
こんな暑い最中、夏休みのテーマに新選組がらみを
選んだようで、その素材集めに日野にやってきた。
宿題を纏めることもあり、各資料館が開いている日にちから
市内巡りは今しかないようである。

元より、市内観光はお手の物であるが、こんな時期は
幾らなんでも、避けている。
この暑い最中、本人は大丈夫と言うが、このかんかん
照りに歩くのは可哀相である。
何が出来るのであろうか、せめて出来るのは離れた新
選組拠点を車で橋渡しするぐらいである。

歴史館に迎えに行くも、中から中々出てこない。
待つ身にしびれを切らし、その様子を覗きに、
中に入ると、中高生位の女子軍団やら意気軒昂な老人の団体で
入り口ホールは何時になくごった返していた。
そんな中から新選組の羽織に帯刀した、姫と娘を見つけ、
屯所の背景写真を前に、その雄姿をカメラに修める。
「さあ~次の拠点に行くぞと」急かせる。
拝が迎えに来ている事を知らずに
お節介お姉さんが、出口まで付いてきて
「これから某資料館に行くには、バスに乗って行きな・・・」
のご丁寧な指図に大笑い。

某資料館へ案内し、乗合タクシーの様に周辺の一角で待機する。
屋敷の一角にテントを張り、入館者は否が応でもこの前を通る。
必死な売り込みに、誰でも声をかけられる。
故人とは全く異なる、観光目的のおみやげ屋の出現に、草葉
の影で故人も驚き言っているのではなかろうか

<とうかん森>

料館からとうかん森、歳三の墓のある石田寺へ
流石、ここまで来ると、タクシーで乗り付けるフアンも居るが、
人影が少ない。
石田寺に隣接するネット越しが日野高校である。
昨年の高校野球で西東京で決勝までゆき、
同校の応援歌でOBの亡き忌野清志郎、RCサクセションの
「雨あがりの夜空に」がTVから良く流れた。
今年は其処まで行けず「雨あがる・・・」前に破れてしまった。
歳三の気も昨年迄で、今年は繋がらなかった。

<高幡不動>

石田寺から、高幡不動へ
催しがなく、境内も何時になく参拝者が少なく、駐車場がスムース
に入れた。

<大日殿>

4時近く、奥殿は閉まりかかり、境内の一番奥の大日殿に向かう。
靴を脱ぎ、拝殿の前で願え事を唱え一礼後、思い切り手を
合わせると頭上の番線が響き、『バーン』と言う音が拝殿に
共鳴し、「鳴り龍」と言われる由縁である。
かりん姫も思わぬ仕掛けの、不思議な世界に楽しんだ様子である。

歳三像の前で当日、予定したコースは総て周り切れた。
土地勘もあって無難に、タクシー役は何とか勤め終えた。
予定した収録を終え、かりん姫も横浜に帰った。
さ~てどんな夏休みの宿題でまとめられるか、楽しみである。


龍馬、海軍の繋がり「横須賀」

2011-05-31 22:27:00 | 歴史に向き合う

10数人の歴史好きを引き連れて、2号台風の余波の中、横須賀の街を案内した。
当初、予定した3月は3.11大地震で電車も動かず予定が崩れ、旅どころではなかった。
その2カ月後、再度予定したが、今度は2号台風の影響で、何とも恨めしい天災のタブルパンチにあってしまった。
案内役を授かり、情報収集に時間が生れたものの、気持ちの高揚を長期間維持するのに正直疲れてしまった。

前日の大雨のメデイアの予報に、恐れながら、降りしきる雨の中、我が家を出たが、予報とは裏腹に終始小雨模様の天気に虚報に踊らされてしまった。
しかし、小雨降る中で案内資料を片手に雨傘で両手が塞がり、地図・時刻表・資料が途中で散逸・濡れるなど大苦戦した 。こんなときに千手観音でも、あれば自由に操ることができるが、塞がれた両手に道中、色々制約がかかった。
京浜大津駅の商店では、大河ドラマ「龍馬伝」はもうとっくに終わっているのに、「おりょうさんの街」の旗が未だしっかりと案内役を勤めている。
裸のお龍が龍馬を捕手から救った寺田屋事件。宮崎の龍馬・お龍の国内最初のハネムーン。そして近江屋での龍馬暗殺で未亡人となってしまった2年に満たない激動の龍馬との世界に光を浴びた、ドラマであった。
そんなお龍は横浜の料亭の仲居として、働き、更に再婚し、横須賀で貧相な長屋に30年近くも暮らし、孤立無援で亡くなってしまう。没後、龍馬との関わりが始めて世間に知らされ、墓のある信楽寺を以て此処大津が「おりょうさんの街」として大河の後押しで街ぐるみ、PRを図っている。
しっとりと濡れる雨の中、本堂で二人の睦まじい木像姿、長崎でお龍に贈った月琴(模造品)など知る人ぞ知る世界に、楽しむことができた。


横須賀を語るに欠かせないのは何と言っても、軍艦三笠である。
「龍馬」の遺構は「亀山社中」から「海援隊」に繋がり、帝国海軍の基礎を成し、ロシアのバルチック艦隊を破るまで成長した。
そう考えると、三笠の見学は龍馬とは唐突無縁ではないことを、信じて疑わなかったが、此処に来る見学者は果たして龍馬まで繋げて、微笑んで居るのは我々だけかも知れない。
何度かエンントリされながら、中々実現しなかった「坂之上の雲」が司馬遼太郎が亡くなり漸く、国営放送でドラマとして取り上げられた。その主役の舞台はこの三笠である。大国ロシアのバルチック艦隊を破り、東洋のちっぽけな国の黄色人種が晴れて評価されたのが、この三笠率いる、日本艦隊であった。
誇大妄想かもしれないが、忘れかけた歴史遺産と関わった先人達が、弱腰の外交に、なにも言えない国に成り下がってしまった現状に、きっと歯がゆい想いで見ているに違いない。


雨の中、滑る足元を、ほぼ垂直に近い梯子段をよじ登って、艦橋に出る。
睨みを効かす大きな砲門が火を吹き、ロシア側戦艦を完膚無きまで叩き、撃沈させた主役はこの砲門と、射撃能力の高い訓練された砲手達であった。
歴史を変えた東郷平八郎か或いは天才と言われた秋山真之に気分は成りきって、艦上から、雄大な眺めをたっぷり味わった。
今にも洋上に走りそうな艦上で、高揚した感覚は雨をも吹き飛ばす世界に暫く心酔した。

起業家紹介「帝国データバンク」

2010-04-16 17:14:00 | 歴史に向き合う

公文のフォーラムでの出会いで知り合った一人が高津さんが館長を勤める、「帝国データバンク史料館」に行って見る。
常設館とも併せ、今回は我が国の近代化に貢献した実業家を捉え「"輝"業家」として紹介している。
靖国通りを挟んで緑に包まれた市ヶ谷の防衛省の目の前に支社ビル8、9階の大変眺めの良い、近代的なビルの一角にある。
「帝国データバンク」と言われる看板の"帝国"と名前が使われる、歴史を背負った看板と信用調査に余り、馴染みも無かったが、こちらに来て企業を支える大事なデータバンクであることを改めて学んだ。
2010年に創業者後藤武夫以来創業110年を迎え、現在、全国各地約3000人からなる社員で蓄積された膨大な企業のデータを収集し、信用調査を提供し、社会的役割や経済発展に貢献されてきた会社なのである。
そんな背景から、第一線にあった高津さんが情報収集に高感度のアンテナを掲げ、幅広く情報を蓄える見識を備えている
サイバースペシアリストであることを思い知らされた。

そんな情報収集力を背景に「"輝"業家」の詳細が史料館に設置されたパソコンで見ることができる。
現在の経営者300人からアンケート調査され、明治から昭和にかけて貢献した企業家/実業家の名前が上げられ、ランクアップされている。1位は松下幸之助に、折しも大河ドラマ、「龍馬伝」で話題になった岩崎弥太郎や維新で登場する渋沢栄一など
がベストテンに入り、それぞれフォーカスされ、企業家/実業家の面から更に深く、知ることが出来る。
この特別展には公文教育研究会が所蔵する子供浮世絵展など、立身出世に繋がる、子供のまなび、あそびを歴史的な絵図で紹介するなど、公文の竹田さんの吐息がしっかり繋がっていることを見ることができた。
大型スクリーンに映す出される、拠点作りに大陸に進出した、軌跡を辿る映像はリアルに捉えていた。
常設館では色々、展示に工夫が凝らされているが、とりわけ最先端の情報技術を駆使したバーチャルリアルテイでは同社旧本社ビル内をリアルに案内して貰え、画面のタッチ操作に思わずはまってしまった。
堅苦しい人事考課表?の一つの酒気帯びに関わることまで、厳しい社風まで楽しく、階間見ることが出来る。
当日は講演会も重なり、大変な混雑ぶりに、人気の程が伺えた。

「なまこ壁」に触れる伊豆へ

2009-03-04 12:07:00 | 歴史に向き合う

堂ヶ島からチョット戻って伊豆松崎へ
ご覧の通り、「なまこ壁」の土蔵と母屋が静かに佇む世界に入っていく。しとしと降る雨が、落ち着いた雰囲気を尚、引き立たせ、演出してくれる。
石やレンガを積む時のタイルを張る時に出来る継ぎ目を目地と言うが、この目地漆喰の形状が海にいる「なまこ」に似ていることから「なまこ壁」と言われている。
なまこは、水分の含有量が高く、手のひらにのせてもするりと抜けその硬さを大きく変化させ、天敵から守っている一見してグロテスクな生物である。
伊豆松崎には古き良き時代に建築された「なまこ壁」の住家や土蔵が多く残されている。
保温、防湿、防虫
火災、盗難防止
の目的で造られたもので、多額の経費と多くの労力を要している。
このなまこ壁は江戸末期に建築されたものである。
独特の模様が目に鮮やかに飛び込み、生きた歴史の素材がこの地方の象徴的な存在として守られ、観光資源の一つにもなっている。

写真は明治20年呉服商家として建てられ、わずか数代で財を成し、大地主となった明治の商家中瀬邸である。
母屋から土蔵などからなる邸宅をそのままそっくり、町が買い取り、公開されている。
明治の代表的な呉服商家の姿を残し、当時の商家の営みを現代に伝えている。
一時代をなした呉服問屋の活気に満ちた世界が、板の間を通じて番頭さんや小僧と呉服を求める客人のやりとりが今にも聞こえる様な感じがする。
「なまこ壁」とこの商家に留まらず、松崎文化を象徴するときわ大橋、時計塔、街のいたるところの漆喰芸術作品が独特の雰囲気を持ち、素敵な街の姿にたっぷり、くつろげる。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/