春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

あの苦しみの「獄門刑」再び

2017-05-26 14:05:00 | 家族の絆
手術後の定期監視
悪夢の入院から既に1年半も経っている。
痛い、苦しいなど五感に感じる症状が全くなく、部位を直接見ないと判らないのが、悩ましいところである
既に1年前に予約を取り、面接の上、この日を迎えた。
医療技術の目ざましい発展に内視鏡の検査も、患者の負担が軽くなったとは言え、、あの機械を口から突っ込み体の中を駆けめぐる時間はやっぱり重々しく、苦痛は伴う。
前日の夕食を最後に、以降の飲食を控えるのは3食欠かさず、食べ、然も「食い意地をはる」、じじいには大変な苦痛で我慢の儀式でもある。
<毎度、世話になる市立病院>

市立病院には徒歩で行ける距離にあるが、1年前の予約から、晴れてその場を迎え色々結果を思い浮かべ画策するが、病院に入って端末機に診察券を入れると、自然と戦闘モードに入る。
受付に事故があっても、お任せしますの同意書を提出し、手続きは完了する。

◇サーバー攻撃のターゲットか
所が受付から、「お客様申し訳けありませんが、生憎、コンピューターのシステムダウンが発生しており、お待ちください」と言われてしまった。
内視鏡、始めレントゲンの関連設備も同様であった。
まさかあのWannacryのサーバー攻撃にかかったのであろうか、何と1年越しの晴れの日に狙い撃ちなんて、何とも不幸な巡り合わせよと、ここはじっと我慢の子であった。
一番大事な過去の集積された画像データーなど、読み出せないなど、機能不全に陥ってしまったのであろうか?
それでなくても、限られた検査設備の稼働に、予約で順番で処理することであったがそれも知らずにやってくる患者が、次々とやってきて受付前の座席がたちまち埋まってしまう。
やがて、システムが復旧した旨が、場内放送で流され、予約より約1時間遅れで検査室に呼び出された。
やれやれ、このまま終日復旧の目途がたたなかったらと思ったが、単なる設備廻りで起きたシステムダウンで、Wannacryでは無かったようである。
◇いよいよ本番
検査前に飲み薬を飲んだ後、ゼリー状のものを口に含み、喉の患部をゼリーを付着させるために阿呆な姿勢で1分間、半ば口を開き天を仰ぎ、ゼリーの滴下を待つ。

さあ、覚悟は良いか、いよいよ執行場所に連行される。検査ベットに寝かされ、麻酔薬や暫く臓器の動きを止める。血圧計のベルトを撒かれ口にマウスピースのような器具がはめられ、愈、儀式の開始。
手を合わせ、観念する暇もなく、カメラが腹内心底に探索していることが判る。
撮影のために管が入り空気が送り込まれ、その気泡が上がってくるのか、正にこの世の終わりとばかりと奇声を挙げながら泡を吐く、苦しい。
10数分の闘いの世界で何とか、無事に終わった。
術後の経過、まあ心配した組織検査やポリープ切除など出血や穿孔を伴う、合併症も起こらなかった。
麻酔で麻痺の状態にあり、対話は出来るが、もうろうとしており、足元が怪しくソフアで30分以上、夢の世界へ入る。前日も余り練られず睡眠不足気味でもあったので、終わった事への安心感もあって気持ちよく眠れた。時間経過後、カーテンが開けられ、お昼寝タイムは終わる。
未だ、足元が怪しい、酔っぱらい状態で院内の人ごみの群れなす娑婆の世界に入り、拘禁の世界から漸く開放される。
あ~あ、未だ生の喜びを甘受出来る。

今日に伝える「横浜廃線路」

2017-05-03 16:29:00 | イベント
今日に伝える、歴史の証、鉄っちゃんになって横浜廃線路を辿ってみた。


◇旧横浜駅(現桜木町駅)
新橋~横浜間は明治5年(1872)日本最初の鉄道が開通したことで知られている。
起点となるJR桜木町駅のホームは京浜東北線が高架を走るため、高い位置にある。
新しく開発されたみなとみらいの接続口にあたり、賑わいを見せている。
ここが果たして歴史的な駅と疑いたくなる、何処にも有るような駅舎である。
高架橋の山側の一角、歩道橋の脇の一角に「鉄道発祥の地」記念碑が寂しく建っていた。


◇汽車道
その横浜から、海外渡航の船旅が生まれた。
その横浜から埠頭まで、専用軌道が敷設され、貨物輸送など利用されていたが大正9年(1920)東京から連絡列車が入り、鉄道で直接繋がる画期的な輸送ルートが生まれた。
海に繋がる運河を越えて、埠頭まで繋がるご覧のような水面に専用軌道の夢の架け橋が誕生する。一面遮るものもなく運河越しの素晴らしい炯眼の中、丸で水面を走るように列車が走る。
この専用軌道は「汽車道」として呼称されるが遊歩道として、整備され、軌道の上を列車に乗った気分で快適に歩くことが出来る。


◇港1、2、3号橋
埠頭側に到達するまでに途中に港1、2、3号橋のそれぞれの橋が橋渡し役を勤める。
今では何処でも、見受けられる鉄道橋であるが、明治40年(1907)製の米国製である。
未だ鉄道の駆け出し時期に、一人立ちできず、外国の手に委ねて居たのである。
それが100年後の今日、追いつけ、追いこせ」で世界で最先端の鉄道を走らせ、その実績から輸出までしているのである。
そんな成長ぶりの根幹をみるようで、隔世のある姿に、風雪を越えて生き残る、この爺さん橋も驚いているだろう。


◇ボート・トレイン
現代の海外渡航は航空機が当たり前に利用できるが、当時は唯一が船旅であった。
船旅の運行はかなり改善されたが、昭和初期に横浜、シアトル間が約12日間の長い船旅で、空旅の時間感覚が一桁違う、スピード感覚に隔世の感がある。
日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路出航日に合わせて、東京駅から列車が2往復運転され、「ボート・トレイン」と呼称されるまでその存在感は浸透し、絶大なものがあった。
「さー着いたぞ!!」東京から約70分で列車は満載の船客と見送り人を乗せた列車がこのプラットホームに到着し、大きな荷物を抱え乗客がどっと吐き出される。これより長い船旅の外国の未知の世界の旅立ちに、そろぞれの思いでセレモニーが行われる。

残されたレールやプラットホームや屋根を支える鉄柱が風雪に晒され、錆の出た姿に、年の経過を物語るが、旅達姿の時代の花をかっては飾っている。
誰も居ないプラットホームに佇むが、今にも幻の列車が入線するような感覚に、没頭できる世界である。

日米開戦で中断した太平洋航路は、戦後になって復活したものの、戦争中の航空機の技術革新により、航空機の利用が広められ客船役割は急速に衰退していった。
こうして脚光を浴びた臨港線のボート・トレインの役割も昭和45年(1970)氷川丸出航を最後に幕引きを迎えた。

◇新橋梁
その路線は旧横浜駅(現JR桜木町)から、専用軌道がひかれ、横浜の中心街を貫通し、埠頭側の横浜港駅に接続される。横浜港駅側からは、旧横浜駅側と途中で分岐され、山下公園側の横浜税関に繋がっていた。
先程とは異なるルートでこの新橋梁で埠頭側から別れ、この橋を渡り山下公園側に向かう。


◇山下臨港線
昭和40年(1965)、山下埠頭の完成で横浜港駅からさらに延長して山下埠頭駅までの路線が開通した。景観上の問題から山下公園のもっとも山側を高架線で通過し、景観に配慮して高架橋となった。
この貨物専用の山下臨港線は線路は撤去され高架線は遊歩道化されている。5月の爽やかな風に吹かれ、港まつりのパレードが路上を賑わし、山下公園脇の高架線沿いはもの凄い人出であった。
違和感無く、山下臨港線の橋姿は山下公園に自然に、浸透しているようであった。


桜木町駅からベイサイド開城への近道として活躍するのが、開港の道、「汽車道」である。明治時代に開通した臨港線1990年頃廃線となったが、その跡地の一部を遊歩道として整備された。
昔のレールや鉄道橋、駅のプラットホームなどかっての面影を残す、500m程の遊歩道は横浜港発展の歴史を物語る貴重な場所である。

ようこそ松崎家の世界へ

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