春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

陸軍重砲兵学校

2010-07-23 14:17:00 | 野次馬見物
<江戸湾台場に据えられた加農砲(靖国神社)>

東京の西の外れ、旧南多摩郡部から横浜に抜け、更に京急で三浦半島は先端に近い馬堀まで遥か遠い約2時間半の旅、戦争遺構を訪ねてみた。
三浦半島の一角は古くはペリー率いる黒船が来航し開港を迫り、江戸湾に面する 拠点に砲台を置くお台場など、海防構築が進められた。海防構築は明治維新以降も、「東京湾要塞地帯」として引き継がれ、明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上続いた。要塞地帯は基地周辺の地形や軍船の動向、砲台の位置関係などを外部に知られないよう軍が写真撮影スケッチ、立ち入りなどを厳しく制限した。戦後65年、京浜大津駅の住宅地の一角に「要塞地帯標」など未だに残っているのが、現代では不思議なぐらいの場所である。

<九六式十五糎榴弾砲(野戦重砲兵第一連隊会他から靖国神社奉納)>

要塞地帯の一角である、馬堀に「陸軍重砲兵学校」があった。
前身は明治22年(1889)東京湾の要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成する「要塞砲兵幹部練習所」として中隊は千葉で誕生した。
浦賀の海軍屯営跡に移転し、明治31年(1898)現在の馬堀の地に移転した。
その後、「陸軍重砲兵学校」と改称し終戦まで継続した。学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えたと言われている。終戦後の一時期、浦賀が引揚港となり、旧兵舎は陸軍の復員手続きや馬堀擁護所として使用された。
兵学校は現在馬堀小学校、馬堀中学校、山側が馬堀自然教育園にそっくり、転用されている。建物の殆どが新たに作られているが、その中でも兵学校当時の姿を留めるものもある。
その所在は「東京湾ロマンおおつみち」・・・大津探訪クラブで発行された案内MAPで案内されていることが発端であった。
春先に訪れた時、その所在は確かめたものの、戦争遺構の何に相当するか判らず、まして一番肝心な記念碑も見ること出来ずに虚しい探訪であった。
そんなことから、改めての三浦行きには準備に怠りなく進め、現地では場所の特定も合わせ、管理下の学校に記念碑見学の機会を頂き、戦争遺構の場所の特定とも合わせ、もやもやしたものが、一気に解けた。
戦争遺構として一番その姿を留めているのは山側の馬堀自然教育園である
自然のまま旺盛な樹木の中に埋まる様に火薬庫の弾丸庫が見届けられる。鬱蒼とした樹木に昼尚暗く、周辺には大きな水脈があり、導水路を通じて流れているが、溢れた水が地面に浸透し、猛烈な湿気の重い空気が立ち込める。真夏の暑い時期に殆ど風もなく猛烈な湿気のジャングル地帯は蚊の温床地帯で格好の攻撃エリアでもあった。そんな環境から中々訪れる人も少なく、近代遺産は自然の中に埋もれるようであった。

小中学校の丁度真中の小高い丘にかっての将校集会所があり、その隣に記念碑がある。たまたま居合わせた中学校の先生に場所をお聞したが、判らず教頭先生に聞き初めてその場所が判った。まあ、歴史遺産もそんな存在であったのである。
東京湾の要塞守備から、中国大陸から東南アジアで拡がった戦線の要として重砲兵は此処から第一線に送り出されたのである。
詳細は陸軍重砲兵学校で報告されている

涼気満点のお召し列車

2010-07-19 20:17:00 | こんな鉄道もあるぞ~

梅雨の開け宣言で猛烈な暑さ、朝から30℃を越える中、都心へ出かける。
容赦なく照りつけ陽炎も立ち、コンクリートからの容赦ない照り返しに、滲む様な汗が額からしたたり落ちる。
暑さに身体が未だ順応していないのか、日射しを避ける影もなく、ひたすら駅へ向かうが、冷房がガンガン効く所に早く入りたいと、めっきり暑さに弱い弱音を吐きたくなる。
上りが入る間、向かい側のホームに普段見受けられない紫色の薄いピンク帯びの車両が入線する。
長いテーブルを挟んで、向かい合わせにゆっくり車座に座り、その高さから恐らくお座敷列車である。
ゆったりとその空間に楽しむ姿が手に取るように見える。
その、変わった姿に、ワンショットを収めようと、手提げの中のカメラを間探っている間にその車両はアレヨアレヨと言う間にゆっくりと目の前を通り過ぎ過ぎて行く。
カメラに収めた 時は既にホームから外れた遥か彼方であった。ガンガンと迫る熱気の中、専用列車は止まることなく、貸し切りで西に下って行った。恐らく沿線のアルプス辺りに冷気を求めての観光列車であろう。
3連休に中央高速も大渋滞と聞いている。
そんな下界の苦痛をよそに、足を投げ出し、優雅な旅の姿が実に羨ましく、見えていた。
それにしても、この暑さに早くも、ギブアップ気味である。

ガソリンスタンドがまた消えた

2010-07-14 22:45:00 | 世の中変わる
◇車を取り巻く環境変化
ガソリン価格は株価の暴落とも併せ、以前の価格に戻ってきたが、投機筋の釣り上げで一時の異常な高騰の付けで、ドライバーが買い控え、ガソリンが売れなくなり、このような閉鎖に追い込まれてしまったようだ。
車を取りまく環境もこの不況期に併せ、これまで売りまくっていた車が売れなくなり、国内でも優良企業共言われ続けたトヨタが、未曽有の減益に追い込まれ、更にGMやフォードもこのままでは存続さえ危ぶまれる状態になってしまった。
北海道の一部では必然の車に、自動車税の未納付が増え、給料差し押さえの勧告で慌てて納付するということさえおきているようである。
新車に買い換え、湯水のように使えたガソリンも再び、高騰の嵐に手軽に利用出来た時代の潮目は替わってきたような感じさえする。

◇ガソリン価格の乱高下
ガソリンが投機の対象となり、実勢価格を目茶苦茶な値上がりで180円を越える時もあったことが記憶に新しいが、今度は米国の金融絡みの問題で投機が手控えられ、一気に110円台までに落ち込んだ。
半年もたたないうちにこの高騰から激変する姿を誰が予想したのであろうか・・・。
ガソリン価格の値下がりは我々に取って朗報であるが、ガソリン価格以前に、世の中、覆われる不況は一気に襲ってきた。

◇高速料金の一部が天下り先へ
世の中の不況対策の一環で高速料金の割引が打ち出され、物流コストの削減は結構なのであるが、この恩恵はETC車のみ適用される。このETCの掲載にはセットアップ料金が必要であり、そのセットアップ料金の一部が「オルセ」を通してお役所の天下り団体に流れる仕組みになっている。車種に限定無く、誰でも割引の還付は甘受されるべきであるが、意に介さない役人根性に腹立たしくもあって、高い高速料金のままでは益々遠出の機会は遠のいてしまう。そんなこともあってか拙宅の車も車庫で眠る時間が多くなってしまった。

◇相次ぐGSの閉店
此処2~3年、バタバタとGSの閉店が目につき、遂に此処まで及んでしまった。
長引く不景気が、相対的な車の減少が、GSの需給関係が崩れてきたのであろうか、相次ぐGSの閉店が続いても開店は殆どない
GSの競争原理で価格の安定供給が行なわれてきたが、それが無くなると、殿様商売で高値供給。その時は車を手放すことなのであろうか・・・。
「さあ~、安さを求め、新たなGS探しをしなくては・・・」

◇「キグナス・日野中央SS]

プリペイドカードまで準備して何時も利用しているガソリンスタンド「キグナス・日野中央SS]が前触れも無く閉店されていた。
土日は割引をもあって、GSの入口は順番待で列を作るほど人気のあったGSではあったが、ご覧の通りの姿にビックリした。・・。
場所の善し悪しもあろうが、周辺のGSでも5~10円の価格差があり、1円でも安いところに行くのは当たり前のことである。

◇2軒目ガソリンスタンドの姿

写真はまだその姿を留めたガソリンスタンドの姿であった。
このガソリンスタンドに目を転じると、いち早く建設機械が入り、根こそぎ掘り起こし巨
何の前触れもなく、給油口はシートがかけられ、車の出入り口は僅かなテープが張られ、人の姿は全く見られない。

何時もの様に気軽に訪れ、この有り様に、驚くのは拙宅ばかりでは無かろう。
原油価格は景気の波にトレンドして、今は下がっているので、スタンドの販売価格も下がり気味であり、それほど厳しい環境と思えないが、過当競争の長年の付けが、閉店に追い込まれてしまったのであろうか・大な油タンクなど撤去され、あっと言う間に更地になってしまった。

たまたま通りがかりに、この淘汰されていく現実の姿に改めて、不況が足元に及んできていることを改めて思い知らされた。

◇続けざま3軒目
「おや!!ここもかい」
威勢のいいおにいちゃんに迎えられ、車で賑わいを見せていたガソリンスタンドが閉鎖に追い込まれてしまった。周辺地域では経営者の交替を含め3軒目である。

そのガソリンスタンドも既にマシンが撤去されつつある中で事務所の什器が残され、ポスターがそのまま張り出されたままであった。主が居なくなり、慌ただしく撤収した姿が象徴的であった。

巨大な爪が逞しく見える

2010-07-11 10:38:00 | こんな鉄道もあるぞ~

横川では極めて険しい山岳路を克服した鉄道遺構をわくわくしながら確かめる事が出来る。
我が国のアブト式鉄道として明治26年信越本線の標高386mの横川と939mの軽井沢との間を勾配66.7パーミルで上り下りする11.2kmが開通した。当初はアプト式蒸気機関車を使用したが、明治45年電化されアブト式電機機関車に置き変わった。
ED421アブト式電機機関車は昭和9年日立製作所で製作され、昭和38年アブト式線路が撤去するまで、第一線で活躍した。(写真はED429)
列車は3両を横川寄りに、1両を軽井沢寄りにつけ列車を挟み合計4両で牽引していた。
最大運転速度は粘着区間が25㎞/H、ラック区間が18㎞/Hとマラソンランナーより遅く、自転車並の速度、で走っていた。


レールの中央にはラックレール(歯軌条)が敷かれ、車両のピニオン(歯車動輪)をかみ合わせて急勾配を走行する。2~3枚のラックレールを少しずつずらして配置し、常に歯のどれかが車両の歯車とかみ合ってけんいん力やブレーキ力を高めている。
ラックレールの特殊な構造は破損などによる事故も多く、1晩に1人、2回)4人で8回)の「夜間特別巡検」が行なわれた。発雷信号、合図灯、大時計など持ちながらの夜の巡回は人里離れた山の中だけに胆力が必要で会ったという。
アプトの導入区間はエントランスと言われ、機関車がこの区間さしかかると最新の注意を払って進入した。当初は確認のため専用のエントランス要員も用意されていた。

車両の下部にはご覧の通り、鋭い爪のピニオン(歯車動輪)がある。機関車には電動機が3個あって、2個は動輪を回転させ、中央の1個がラックモータと呼ばれこれを使って歯車を回転させ、急勾配の推進力となっている。
巨大な爪が逞しく、迫ってくる様子は山岳車両の逞しい姿を見る様であった。
そんな路線も確かめる間もなく、新幹線があっと言う間に越えてしまっている。
66.7パーミルの挑戦

ようこそ松崎家の世界へ

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