春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

豪華絢爛の西洋文明「旧岩崎邸」

2006-05-24 20:11:00 | 歴史に向き合う

明治29年(1896)に完成した三菱創設者・ 岩崎家本邸
幕末から明治期の未だ日本が近代文明に門を開くころの上層階級の西洋式木造建築物既に110年を経過するのに、その豪華絢爛する姿を今尚、残しているのが凄い。
玄関から靴を脱ぎ、上がっていくと、鹿鳴館時代の文化をそのまま彷彿されるホールは要人を迎えるに相応しい吹き抜けと、豪華な彫刻で加工された柱、階段の手すり、壁が見事に装填されている。
年に1回の岩崎家の集まりや外国人の賓客を招いてのパーテイ等に利用された言うが、その雰囲気がそのまま残され、びしっと正装で身を包んだ紳士と艶やかなドレスまとう淑女の姿が階上の階段からふっと現れる様な雰囲気が残される。
そっくりそのまま、洋画ドラマの名シーンを生み出す様な絵になる場所である。
その持ち主であった岩崎弥太郎は土佐藩の行っていた海運事業を引き継ぎ、明治7年(1847)三菱を名乗り、今日の三菱グループの基礎を築いていった。
明治維新以降、日本の近代化と共に財をなした三菱もそのルーツは土佐藩であったが土佐藩と言えば直ぐ浮かぶのが坂本竜馬、海に向けた強い眼差しがそのまま、土佐の風土として引き継がれて居るのではなかろうか。
ともかく海運業で財をなし、三菱の地位を固め、広い分野に進出していった。
その勝利者としての証がこの贅を尽くした建物と広大な庭にあるのではと思われる。
戦後、GHQに接収され返還後、最高裁判所司法研修所などに使用され、現在は重要文化財として東京都の管理にある。
この洋館と併せ隣の和館もともかく、その豪華絢爛な作りと、明治の文化がそっくりそのまま残している。
この建物に隣接する、三菱資料館は余り知られる事もなく、訪れる人も少ない。
時間かけて、じっくり三菱発祥の生い立ちも見ることができる。

チャングムに魅せられて

2006-05-09 11:05:14 | 韓国旅行

今から500年前の朝鮮王朝時代に活躍した ある女性のサクセス・ストーリーである。
この地に実在した一人の女性の栄辱の世界と波乱万丈の人生の軌跡をたどっていく、韓国版大河ドラマが国営放送の地上波に流され、普段余りTVを見ない人間が何時しか流行に嵌まってしまった。
そのヒロインでチャングムを演じるイ・ヨンエが来日し、スタジオパークで出演し、フアンの前にその素敵な生の姿を披露した。
特別にホールを使い、抽選で選ばれた方のみが入れると言う、物凄い人気ぶりで、視聴率50%越えた韓国国内はもとより台湾、中国でも人気を博す、国際的な看板スターであった。
チマチョゴリに身を包み、フアンの一人々々に手をふり、挨拶する姿に、何か吉永小百合が登場した当時の品格と可憐さが、ダブル様に目に映った。
大のプロレスフアンで小さい時にあの、人気レスラー大木金太郎の得意技である頭突きをやり、額が広くなった?とか、そのお茶目振りがとても親近感がある。
放映中のドラマが丁度、チャングムをわが子のように可愛がるチャングムの料理師匠ハンサングンが陰謀にはまり死に追いやられる、ところであった。
その囚われの身としてハンサングンを背負いチャングムが遠島でchejuに流され港まで、山野を歩む中で、背負られたハンサングンが息を引き取るシーンは重々しく、思わず目頭が熱くなってしまう所である。
夕日に輝くススキに囲まれる中を一行が歩む場面であったがその舞台となる牧歌な風景がとても印象的であった。
そのロケ地が先日行ったchejuの民族村とも重なり、その情景を思い出しなが、朝鮮王朝時代の異国文化に触れ合いドラマの推移を楽しみにしている。

交通博物館の幕引き

2006-05-07 00:28:00 | こんな鉄道もあるぞ~
◇鉄チャンあこがれ交通博物館
先日、法事で都心に向かい、電車に乗ったが、GWで凄い人ごみであった。


JR中央線から山手線へ新宿駅で乗り換え、発車間際の乗車客が渦巻く中に飛び込み、押し込まれる流れの中で身を任せていたら、自然と運転席の背後になってしまった。
「発車進行」なんて、発車合図が聞こえそうな運転席に乗り合わせてしまったが、目の前のパノラマショーに自然と目が入った。
普段の乗車席の車窓から見る世界と目の前の鉄路を走り抜ける運転席の世界と全然違う事が改めて認識した。
運転手の背後にいるため、「発車、加速、減速、停止」の運転操作が目の前で判るので操作と目の前の景色の変化が連動してダイナミックに伝わってくるので恰も自分が運転している錯覚に入って行ける。
ゲームソフトで市販されている「電車でGO」なんてソフトが結構オジサン達を夢中にさせている人気のソフトである。
電車の側面からイメージする景色と運転席からの景色と全然違うので、その眺望の世界に取りつかれると、思わず降車駅を見逃しそうなぐらいに夢中になってしまう。呉々も乗り過ごさないように(^0^*
はてさて、そんな鉄チャン姿に埋没してしまったが、折しも今月半ばに鉄道フアンに親しまれ一大、偉業をなし遂げた交通博物館が惜しまれつつ遂に幕引きを迎える。
親に連れられて、或いは子供仲間で一緒に此処にやってきて、目の前のその不思議な世界に直接手に触れ、夢中にさしてくれた。
弁慶号初め、御陵列車など時代を越えた歴史的な記念車両などその姿に感動を覚え、懐かしさもあって年を取っても、少年の様な輝きを持って接する事が出来た。しかし、その役割は遂に終え、この14日で幕引きとなる。
新たな鉄道博物館が、都心から離れ大宮に出来るが、随分遠くなってしまうが、更に交通博物館から鉄道に特化されるため鉄道以外の貴重な姿が、これで最後になってしまう可能性もある。
「未だ間に合う、鉄道フアンで有らずともこの歴史的な展示物に悔いを残さないためにも最後の別れをしておこう。」

◇万世橋のミステリゾーン
既に本日記でも載せた、馴染みの万世橋
かっては中央線のターミナル駅として栄華を極め、長距離の旅の駅舎として旅客の待合に1、2、3各等級単位の部屋を持ち、2階には食堂を備え、乗客ばかりか見送る客も大勢集まったようだ。
駅舎が建つ明治45年には日本が近代化を目指す、日露戦争華やかな時期でもあり、駅前に当時の軍部が軍神として崇める目的で巨大な広瀬武夫海軍中佐と、杉野孫七兵曹長の群像銅像をたてられた。
広瀬武夫中佐と言う人物は、日露戦争において自分の命をかえりみず、旅順港閉塞作戦に従事し、退却時にボート上で砲弾の直撃を受け戦死する、享年36。
その銅像も終戦後昭和22年にGHQの指示で撤去される。
その豪華な駅舎は震災で炎上し、再建されたが、東京駅が出来てからターミナル駅としての役割はなくなり、単なる中間駅として縮小化され、昭和18年遂に廃駅の運命となる。
そんな時代を活きた万世橋駅の遺構が未だ残されている。

普段何気なく乗っている、中央線の神田、お茶の水間に僅かにそのプラットホームが生い繁った雑草の中かに埋もれながら残っている。
そのプラットホームに通じる階段初め、栄華を誇った駅舎の一部が深い眠りの中から目を覚ました。
高架線脇を流れる、神田川と高架橋下を激しく行き交う車世界の要路、都会の動脈として東西を結ぶ電車網の要、JR中央線そんな都会の一角に、未だ深く眠っていたミステリゾーンがあるなんてとても不思議な世界であった。
以下で紹介する
幻の万世橋を追って

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/