「さーて何処に行こうか?」孫娘の横浜の住まいを拠点に幾つか挙げられる場所の一つに根岸森林公園が挙げられる。我が家も根岸の隣、磯子に住んで居たこともあって、思い出深い場所でもある。
その根岸森林公園に足を踏み入れてみる。公園の中、手入れの行き届いた草原が続き遮るものがなく、見通しきいている。緩やかな小高い丘が続く中で、遥か彼方に3っの塔が並びさん然と輝き聳え立っている頂部だけが見える。
森林公園と言ってもピ~ンと来ないかも知れないが、公園の一角が「競馬発祥の地」である。近づくにつれ周りに此れほど高い構造物がなく、建物全体がモダンナ積み木細工のが洋風建築が目に入る。開放的に育種の窓が多数あるが、ボードで覆われ、塞がれ所々一部蔦が広がり風月に晒された姿が不気味さえ思えてくる。、無人化されている事もあって年月の経過を物語っている。これが歴史的な建造物の根岸競馬場である。
◇横浜競馬の歴史
1860年代、横浜で始まった洋式競馬は、もともと居留外国人の娯楽として始まった根岸競馬場は、やがて日本人も加わった社交場として賑わい、その後各地に設立された競馬場のモデルとなった。
1866年(慶応2)にこの地に完成した根岸競馬場を舞台に、 慶応3年(1867)に我が国最初の洋式競馬場が行われた所である。 慶応3年と言えば徳川慶喜が大政奉還し、翌年に鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰の戦いで国内が内乱状態の時に、既に洋式競馬の端緒が切られていたのである。
この聳える王城を思わす様な建物は米国の建築家が設計し、昭和5年(1930)に建設された観覧席の一部である。
<当時の観覧席は一等馬見所と二等馬見所があった。古写真に往時の姿が見える。北西側からは競馬場の背後に当たり、写真の左側に僅かにメインスタンドの縁が見える>
◇輝ける競馬の原点
1905年より明治天皇から御賞典が下賜されエンペラーズカップ(現在の天皇賞)が始まった。また、1928年には横浜特別(のちに横浜記念に改称、1944年限りで廃止)、
1939年からは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)がそれぞれ創設されている
第二次世界大戦の激化に伴い、横浜競馬の開催は1942年限りで休止された。1942年(昭和17)に幕を下ろすまで76年間行われた。クラブハウスは連合国の民間人の抑留所として交換船が来るまで使用された。
翌1943年6月10日には馬場を閉鎖して旧帝国海軍に売却した。
◇戦後>
<この象徴的な米国旗のもと進駐した米軍に競馬場始め周辺地域は接収されてしまった。>
終戦直後の1945年、進駐してきた連合軍(実質はアメリカ軍)に接収された。その後払い下げを申請したが、進捗はなかった。 アメリカ軍によって馬場はゴルフ場や乗馬施設、駐車場などに転用されており、競馬場として使用不可能な状況な上、アメリカ側が接収解除に応じる様子も見られなかった。
<金網越しに広々とした庭にゆったりとした家が見える。
これが「U.S. Military Family Housing Area Negish」なのである。
1964年一部施設の接収が解除され、そのほかの土地の大部分も1969年にアメリカから日本政府へ返還を受けた。
1973年払い下げられ横浜競馬場は競馬会の所有となった。
しかし、周囲の住宅地化が進んでおり、競馬場復活させることは出来ず結局、1977年には横浜市所有の根岸森林公園と日本中央競馬会所有の根岸競馬記念公苑、馬の博物館が設けられ、競馬場の再建は果たせなかった。
<その、姿は>
第二次世界大戦までは由緒ある競馬場として使われ、その格式高い観覧席が往時の姿そのままに未だに残されている。
現存している所はその一部の一等馬見所だけである。
戦後に接収された、米軍のゴルフ場等が解除され、横浜市が公園として整備し、競馬記念公苑とともに昭和52年開園した。
しかし、象徴的な競馬場の姿は半分隠された状態である。肝心の観覧席から望む配下の競馬コースは未だに米軍の居住地として、米軍の配下にあり日本人が立入することが出来ない場所である。
従って、由緒ある建物も肝心のメインスタンド側はベールに包まれたままである。
多くのフアンが集まり見通しのきいたスタンドからのどよめき、今日の隆盛を極めた競馬の原点はこの根岸からだったのである。その歓喜の渦を読んだ競走馬とそれを支えた観客が熱い眼差しを送った観客を収容したフェンスが見えないのである。
今はひっそりと建物だけが、風雪に耐え、その姿を留めている。
<象徴的な建物を真っ正面から見れない歪んだ状態はこの看板が象徴するように未だ戦後の接収の姿を引きずっているのである>
その根岸森林公園に足を踏み入れてみる。公園の中、手入れの行き届いた草原が続き遮るものがなく、見通しきいている。緩やかな小高い丘が続く中で、遥か彼方に3っの塔が並びさん然と輝き聳え立っている頂部だけが見える。
森林公園と言ってもピ~ンと来ないかも知れないが、公園の一角が「競馬発祥の地」である。近づくにつれ周りに此れほど高い構造物がなく、建物全体がモダンナ積み木細工のが洋風建築が目に入る。開放的に育種の窓が多数あるが、ボードで覆われ、塞がれ所々一部蔦が広がり風月に晒された姿が不気味さえ思えてくる。、無人化されている事もあって年月の経過を物語っている。これが歴史的な建造物の根岸競馬場である。
◇横浜競馬の歴史
1860年代、横浜で始まった洋式競馬は、もともと居留外国人の娯楽として始まった根岸競馬場は、やがて日本人も加わった社交場として賑わい、その後各地に設立された競馬場のモデルとなった。
1866年(慶応2)にこの地に完成した根岸競馬場を舞台に、 慶応3年(1867)に我が国最初の洋式競馬場が行われた所である。 慶応3年と言えば徳川慶喜が大政奉還し、翌年に鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰の戦いで国内が内乱状態の時に、既に洋式競馬の端緒が切られていたのである。
この聳える王城を思わす様な建物は米国の建築家が設計し、昭和5年(1930)に建設された観覧席の一部である。
<当時の観覧席は一等馬見所と二等馬見所があった。古写真に往時の姿が見える。北西側からは競馬場の背後に当たり、写真の左側に僅かにメインスタンドの縁が見える>
◇輝ける競馬の原点
1905年より明治天皇から御賞典が下賜されエンペラーズカップ(現在の天皇賞)が始まった。また、1928年には横浜特別(のちに横浜記念に改称、1944年限りで廃止)、
1939年からは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)がそれぞれ創設されている
第二次世界大戦の激化に伴い、横浜競馬の開催は1942年限りで休止された。1942年(昭和17)に幕を下ろすまで76年間行われた。クラブハウスは連合国の民間人の抑留所として交換船が来るまで使用された。
翌1943年6月10日には馬場を閉鎖して旧帝国海軍に売却した。
◇戦後>
<この象徴的な米国旗のもと進駐した米軍に競馬場始め周辺地域は接収されてしまった。>
終戦直後の1945年、進駐してきた連合軍(実質はアメリカ軍)に接収された。その後払い下げを申請したが、進捗はなかった。 アメリカ軍によって馬場はゴルフ場や乗馬施設、駐車場などに転用されており、競馬場として使用不可能な状況な上、アメリカ側が接収解除に応じる様子も見られなかった。
<金網越しに広々とした庭にゆったりとした家が見える。
これが「U.S. Military Family Housing Area Negish」なのである。
1964年一部施設の接収が解除され、そのほかの土地の大部分も1969年にアメリカから日本政府へ返還を受けた。
1973年払い下げられ横浜競馬場は競馬会の所有となった。
しかし、周囲の住宅地化が進んでおり、競馬場復活させることは出来ず結局、1977年には横浜市所有の根岸森林公園と日本中央競馬会所有の根岸競馬記念公苑、馬の博物館が設けられ、競馬場の再建は果たせなかった。
<その、姿は>
第二次世界大戦までは由緒ある競馬場として使われ、その格式高い観覧席が往時の姿そのままに未だに残されている。
現存している所はその一部の一等馬見所だけである。
戦後に接収された、米軍のゴルフ場等が解除され、横浜市が公園として整備し、競馬記念公苑とともに昭和52年開園した。
しかし、象徴的な競馬場の姿は半分隠された状態である。肝心の観覧席から望む配下の競馬コースは未だに米軍の居住地として、米軍の配下にあり日本人が立入することが出来ない場所である。
従って、由緒ある建物も肝心のメインスタンド側はベールに包まれたままである。
多くのフアンが集まり見通しのきいたスタンドからのどよめき、今日の隆盛を極めた競馬の原点はこの根岸からだったのである。その歓喜の渦を読んだ競走馬とそれを支えた観客が熱い眼差しを送った観客を収容したフェンスが見えないのである。
今はひっそりと建物だけが、風雪に耐え、その姿を留めている。
<象徴的な建物を真っ正面から見れない歪んだ状態はこの看板が象徴するように未だ戦後の接収の姿を引きずっているのである>