016年は、あっと言う間に明けてしまった。
旧年の病変の災禍に12月の頭まで、病院で拘禁生活を強いられてしまった。
その呪縛を解かれた、反動から、年末から年始にかけて、行事が重なったが、酒とご馳走の放漫気味の生活に甘え、折角の減量も幻であったことを恐れた。
体のの重さの負い目もあって、歩きにかけ、甲州古道、小原宿行きに駆り立てられた。
JR中央線は高尾止まりであるが、そこから先は地形的にも山岳地帯に入り、乗降客も少なく、電車の本数も少なくなってしまう、風土の違いを感じる。
昨年は眼科の病院が高尾であったことから、嫌がおうでも、此処まで通わざるを得なかったが、多少の余裕も生まれ、高尾越えは一つのチャレンジでもあった。
古道地図を一つのよりどころに、無謀な行き当たりばったりの歩きであった。
乗り合わせたJR中央線が5分以上遅れていたが、スムースな本線乗り換えに、成功、住宅地から一気に山深い自然の懐に吸い込まれ、瞬く間に相模湖駅に到着する。
列車から降車客の姿も僅かに留め、人影のないホームは寂しい閑古鳥状態であった。
時間調整で暫く止まる小淵沢行きを、ホームを駆け抜け、撮り鉄の真似事で、その雄姿をカメラに収める。
ようこそ相模湖への歓迎ムード一色の広い駅前ロータリーではあったが、この寒い時期には列車が到着して間もないにも関わらず客の姿が、極僅かである。
地図で方向だけを見極め、旧甲州道を東に向かい、甲州街道の新道に合流する。
◇相模ダム
進行方向左側は山、右側は欄干越しに、険しい谷に、なっているが、木立の切れ目から、満々と水を蓄えた相模湖のダムが、見える。
ダムゲートの下流側はコンクリートに覆われ、近代的な発電設備の建物、その上が送電設備を通じて、電力が供給される。川をせき止め、水を蓄え、放流させる。粗削りの崖に箱庭のような佇まいは、建設重機が入り、周辺の姿を一変させる壮大なエネルギーを感じさせる。
◇小原宿
甲州道は江戸に向かって、緩やかな勾配と、左右に蛇行しながら、正面に小仏峠を仰ぎ小原宿に入る。左右の家並みは屋号を持つ旅籠であったが、本陣を除き、何処も明治28年の火事で燃えた再建後の姿である。
駅から20分以上歩いたか、人並みは殆ど見えない。目の前の小仏越えは現代はトンネルを、労せず車で抜けられるが、往時は厳しい山越えであった。
◇小原宿本陣
甲州街道沿い、200年の歴史の風格を備えた、県指定重要文化財の小原宿本陣に到着する。
丸に井桁の家紋に飾られた暖簾が門前に飾られている。後北条の家来、清水隼人介で、甲州街道、小原宿が設けてからは代々、問屋と庄屋をかねていたが、既に当地から離れた。
建屋の背面に急斜面の山を抱えて、中央高速が見えるがかってはその広大な敷地を保有し、ていたと伝えられる。
早速、門を潜り、式台が玄関口からで入って「控えの間」「中の間」次いで大名が泊まった「上段の間」など廻り、屋敷の懐の深さをたっぷり味わう。
それぞれの客室築山のある庭が庭に面する開放的な造りで、あるが今の時期、もろに外気が吹き抜け寒い。
建物は江戸時代の後期、18世紀末から19世紀初期の建築と言われ、かなり綻びも見受けられるがよくぞ200年以上の風雪に耐えている。
薄暗い2階は養蚕の所道具が並べられ、今では余り見られない、養蚕の源風景に素朴な風土がたっぷり感じられる。
狭い屋根裏に、足から伝わる床面は全般的に柔らかく沈み、何となく不気味な感じさえした。
こうして、本陣探索は家の内外を一回り、その間他に、入館者も出会えず、やはりこの時期の平日であったが、一人占めしてしまった。
◇食堂で一休み
目の前の食堂に入る。普段なら小仏など登山客で賑わうようであるが、この時期誰も居らず、一人おばさんが来る当てのない客を前に暇を持て余していた。
たなびく旗にジョッキの姿に誘発され、旅の節目で一杯やる。車の運転の負い目もない、列車旅の自由さを甘受する。胃袋の欲するまま、ちょっと過食気味であったが、「その分歩けば何とかなるさ」と、何の咎めもなく目の前に出された料理を完食する。かなりいい加減な古道歩きは重い腰をあげ、店を後にする。
◇一路、西下
勢いのまま、古道マップを頼りに、往路で来た道を折り返す。
瞬く間に、相模湖駅を通過し、古道を主体に西下、行けるところまで行こうと、無計画な歩きが続いた。
古道は併設する直線主体の新道に重なったり、離れたり、紆余曲折し、遠回りに遠慮っぽく走り、車の走行が少ない。山沿いをのどかな自然の中、風化した地蔵さんや碑の発見に沿道の風情やら、遥か眼下の相模湖の眺望を楽しんだ古道歩きであった。
しかし、進むところ新道しか選択の余地の無いところでは、車道と歩道の区分ダンプの爆風を浴び、思わず、身を屈めてしまうこともあり、危険と隣り合わせであることを覚悟しなければならない。
小原宿を出発、与瀬宿、吉野宿を通過、JRの藤野駅までの距離は7、8㎞に及び、日は落ち込み引きずる足に最早、これ以上の歩きの気力は失せていた。
藤野から列車、高尾で乗り継ぎ無事帰宅する。
道中、余り見かけられなかった、山岳族がかなりの数に、恐らく別ルートの山道を降りたのであろう。車中の温かい温もり、棒のような足を含め、クタクタになった体を休め、車中で走馬灯のような今日の軌跡を、追いながら旅は終わった。