春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

極寒の地で プレイバック

2017-01-27 20:34:00 | 韓国旅行
連日の極寒の世界、多摩地域はマイナス4℃~5℃の底冷え
する世界が続く。
かっては寒冷地仕様だから、熱いのは駄目だが、寒いのは
我慢出来ると、豪語していたが加齢のせいか、寒いのも我
慢出来ない、意気地なしになってしまった。

寒いと言えば、ちょっと昔の話しにプレイバックしてみる。
まだ、てかてかに輝き夢をおった現役の頃、韓国のプラント
建設で、同胞のプラントメーカと現地の情報もあまりない
場所に単身で出かけた。
山間を背後に控る自然立地から朝鮮戦争後も、北の傭兵が、
身を隠していたと言われる位の場所である。


比較的温かい日に山頂へ登ってみる

鉄道が走る提川(ジエチョン)から車で1時間、山間の里の
立石里(イプソプリ)で一冬を過ごした。

寒波襲来で、当地でマイナス22℃を体感した。
ジャンパーを着込み、その上に、フード付きの防寒着を
着込み、だるまさん状態でが、外に何時まで居られるか
、我慢比べ大会であった。
濡れた軍手が氷だし、外したビスやボルトなどの金属部品
は軍手に吸いつかれるようにべたべたと付いてくるなど、
極寒の中での実務体験に自然の凄さを思い知らされた。



配管から流れる水が、たちまち凍りつき、巨大な『つらら』
に見事に変容する。


月明かり頼りの真っ暗な闇夜、僅かな店がある集落に道の
片隅に、大の方の排泄物の塊がピラミットの様に凍結し、
その尖った先端が脛にぶち当たってしまった。相手は
コンクリートの様な固さで暫く痛かった。


社友車であるが、寒いためにエンスト。こんなことが度々で
あったが、慌てず騒がず、だましだまし走らせた。
朝鮮戦争後の影響か、タクシーなど見かける主力車両は
大半がジープであった。

それでも三寒四温、三日寒さが続けば四日目は温かくなる。
温かいと言ってもマイナス6℃~0℃であった。
寒いのは寒い、しかし、気力で凹こたれず、めげずに厳寒を
乗り切ったのも若さだったのであろうか。

そんな朝、事業所の正門の掲示板で食い入るように見入り、
ざわ付く従業員の群れに只事ならぬ姿が目に入る。
すわ!!何か事件と野次馬根性に火が付いてしまい、群れの
中に入ってしまう。
その掲示内容が直ぐ判った。
「担当する職員他2名は職務怠慢で コンプレッサーを破損
させたこと で解雇する」と言う工場長命であった。
事業所の操業を支える大事なユーテイリは電気、水、に
次いで大事な空気源が止まってしまう事故であった。
寒冷地ではイロハの水抜きを怠り、氷結してコンプレッサー
が破損した。
ことの重さを判断し、有無を言わずに、即刻、厳しい決断
であった。

人余り気味の労働事情、就職難を背景に情け容赦なく、
即断の首切りであった。
自然の猛威は大事な職まで呑み込んでしまった。
貼り出した掲示での戒めに、身をすくめて見る思いをした。

強烈な自尊心と儒教の教えからなのか、上下関係が絶対の
立て割りの世界であることを自然に学んだ。
寒さの時期に遠い昔のことが、よぎり思いおこされる。


消えた南大門

2008-02-12 15:21:17 | 韓国旅行

ソウルを象徴する南大門は放火により、一瞬にして消えてしまった。
昨年4月にその優美な姿を見に行き、その姿をしっかり残像に残しているが、全く信じられないことであり、残念である。
ソウル市内の交通要路に離れ小島のようにあり、その姿が何処からも臨める位置にあるが、その島に辿りつくには激しく往来し、車優先の世界では地下に潜って行かざるをえず、中々近寄り難い存在であった。
その門の周辺は芝生の植え込みがあり、丸い胴を潜ることは出来たが、その城門に上がる事は出来ない。そんな造りから、まず放火は考えられない。
どうして放火したのだろうと、思ったが、時間が立つにつれ、犯人が梯子まで用意し、上に登って放火したことが判った。
かなり計画的であり、防備の盲点を突かれての炎上であった。
南大門はソウル城郭の正面にあり本来は崇礼門(スンエムン)と言われ現在の建物は約600年以上を経過し、韓国では最も大きな城門であり、古い木造建築物として国宝1号として知られる歴史的な1級品の建物である。
激しい朝鮮戦争では激しい戦火に周辺が焼き尽くされているのににも関わらず、類焼を免れ、今日まで生き残ったのは奇跡とも思える。600年の世界的な歴史が一瞬にして消え去ってしまう恐ろしさを改めて思い知らされた。
因みに下の写真は記憶に新しい去年の姿であった。


大長今のテーマ曲

2007-12-28 18:08:00 | 韓国旅行

孫娘と一緒にカラオケに
ジイジも一つ唄えとお鉢が廻ってきたが、幾ら身内で占拠されたカラオケルーム内といえども、かっての美声は何処かえ置いてきてしまい、とても唄うなどとはとても出来ない。
それでも執拗に狭まれ、此処は一丁やらねば男がすたると、ビールを煽り、多少の酔いで勢いをつけ、声を出してみることにした。(それほど気構えることもないが)
去年はchejuへ今年はseoulへ、大長今(チャングム)ばかりではないが、多少韓国大河の風におされて、隣国へ行ってしまった。
chejuの民族村でアズモニ(おばさん)が大きな土瓶を叩いて、唄った大長今のテーマ曲「オナラ」の響き、メロデーが忘れられない。
唄ったことがない、でもこれも挑戦と・・・選曲する。
因みに「オナラ」は来てくださいとでも言うことばで屁に非ず
<字幕>
オナラ オナラ アジュオナ♪♪・・・♪
カナラ カナラ アジュガナ
ナナニ タリョド モンノナニ♪
ハングルの世界でも、古い言葉で難しいと言われているが
以下のような意味だそうだ
来てください 来てくださいと言えば 本当に来てくださるのでしょうか
行ってください 行ってくださいと言えば 本当に行ってしまわれるのでしょうか
果てしなく待てど ふれることもできず

聞き慣れない言葉に孫娘の、変なの歌っているなあと凝視する目
アズモニ迄いかなかったが、何とか・・・帳尻を合わせた
写真は水原で、チャングムとミンジョンホの前で戯れる幼稚園生、今年も大長今のしみが未だ取れず残されている。

韓国大統領選

2007-12-20 00:52:00 | 韓国旅行

燐国、韓国が大統領選挙で野党ハンナラ党の李明博氏が圧倒的な勝利であった。それにしても激しい民族、対立候補が選挙間近になって、プロレスまがいの肉弾戦は相変わらず凄いなあと思ってしまう。
李明博氏は株価操作の共犯と疑惑をもたれているが、悪評高い現政権から早く変わりたいと言う支持を背景に圧勝であったようだ。
36歳で現代建設の社長、そしてseoul市長と経済面で高い評価を得ているようである。
折しも今年は観光でseoulへ行ったが、あの清溪川(チョンゲジョン)の奇跡をやってのけたのがこの人である。
都市化の象徴である、高速道路を取り外してしまい、その高架橋の配下にあった清流を取り戻してしまった。
交通の足廻りは不便になったが、人に優しい自然空間が生れ、市民の憩いの場となる大胆な取組からなんと「清溪川」を蘇してしまった。
その清溪川を案内して貰って、かっては高速道路が走った高架路をダイナミックに外してしまい、その後には漢江と地下水から水引き入れ、再び漢江に戻し、街のど真ん中に清流を流している姿に感動させられた。かっては日本に追いつけ、追い越せであったが、この清溪川の奇跡には日本人も多数の人が見に行き、メデイアに紹介されている。
そんな発想、馬力が格差拡大に悩む韓国世界に何か、やってくれるという期待感が後押しされているのだろうと思える。
あのライトアップされた見事な夜景を楽しみながら、川沿いを歩いた半年前のことが、未だに鮮明に焼きついている。
因みにその清溪川は此処で紹介している。

清溪川(チョンゲジョン)の奇跡を見る

赤煉瓦旧seoul駅

2007-06-16 13:43:00 | 韓国旅行

近代化されたseoul市内の街中で日本の占領地時代に残した建物はseoul駅舎とかseoul市庁など未だ残されている。
seoul駅は赤レンガの超モダンなヨーロッパ風の近代建築の駅として異色であり、東京駅の雰囲気が似ていることもあり、外国で見る日本の文化を見るようで日本人としてこの駅舎に特別な思いが伝わってくる。
「設計者は東京駅と同じ、辰野金吾」とネットで誤って紹介されることも多いが、実際の京城駅(現seoul)の駅舎の設計は東京帝国大学教授の塚本靖と朝鮮総督府の建築家でドイツ人のゲオルグ・ラランデによるもので、大正14年(1925)に竣工していることが判った。
京城駅は光復節後1947年にseoul駅と改名し、朝鮮戦争後何度も拡張を続けた。
かって仕事で西も東も全く判らずseoulを訪れた時に、「あれが東京駅と同じ駅舎だよ」と言われ、車窓から遠目に映るレンガ作りの建物と時計台は特別な存在であった。
見れば見るほど確かに東京駅と似ているなあと、思いつつ、じっくり近づき、何時かはこの歴史遺産に触れて見たいと思い、今回ようやっとその思いが適えた。
今回の漠然としたseoul旅行の中で出会えた宝物の一つである。
駅舎は占領地時代の日本が残していったものだけに、忌まわしい過去の歴史を象徴するもので好ましからざる建物と思っている人もかなりいるようであり。何度か消え去る運命にもあったようだが、現在でもその姿は生き残っていた。
2004年、KTX(韓国鉄道公社)の開業による大改修によりソウル駅は面目を一新し、古い駅舎は役目を終えて保存されている。
駅の所有権を、文化財庁に返還することを契機に近代美術館を作ろうという話が出ている。
一方東京駅は、戦災などの災禍から戦後の復興期を経て、世界に冠たる新幹線など高速鉄道の時代を迎え、駅舎としての佇まいは変わることなく、更に改修予定され、大事な表玄関として役割を担っている。
それぞれ、似たような生まれが、時代の背景を歩みながらそれぞれの道に歩む姿は異なるが、両者が未だ生き残るようでほっとさせられる。
以下で紹介
ダイナミックな街seoulへ

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/