春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

ダイナミックな厳寒の朝

2010-12-30 16:11:00 | 多摩の四季

外は真っ暗、しかも氷点下の世界、何でこんな時期に行かねばならないのか?
半ば自重気味につぶやきながら、それでも朝の修行に励む。
膨れ上がった腹 を叩きながら、一度付いてしまった中性脂肪は 中々取れそうもない。生活改善なんて口で言うほど簡単でなくましてアルコールを断つなんてことは生命線を断たれるような物である。
過剰摂取に要注意と言われている炭水化物は 白パン、白米、麺類、菓子パン、クッキー、ケーキ、菓子など身の周りはそれに類する物ばかりである。
しかし、中性脂肪は身体のエネルギー源でもあるが、血中濃度が高くなると血管壁にこびりつき、酸化してサビ付き、最悪動脈硬化にも繋がる。
それでなくても家族から、最近は富に切れやすいなんて、言われているが、それは危険予知の前触れかもしれない。
膨れ上がった異常な腹回りに、せめて出来るのは運動位で、毎朝1時間半の歩きはノルマと課して続けているのである。

ご覧の通り、日の出前の6時代は真っ暗闇の世界である。歩道と車道間の鉄柱には等間隔のほのかな識別灯と常夜灯が僅かに道案内してくれる。

夜明けを告げるように東の空が紅色に染まってきた。大仏さんのシルエットが影絵の如く浮かび上がり、正にドラマチックに夜が明ける瞬間なのである。

北へ北へ、日野市域の一番縁の谷地川に出る。秋川丘陵・川口丘陵の清流を集めて、挟まれた回廊のような低地を滝山街道に沿って南東方向へ流下し、日野に入ると日野台地の北側を流れ、多摩川に注ぎ込んでいる。お天道さんは完全に昇り、川面が薄赤色に輝いている。

東光寺台地を遠巻きに多摩平に戻ってくる。
黒川公園の一角にはこんな霜柱が出来ている。落ち葉の回廊に僅かに顔を出す土の部分はこの霜柱に象徴されるように厳寒の世界である。
真っ暗闇から1時間半の世界。体を動かしても体は温まらず、すっかり冷え込み、手は、かじかんでしまい、思うように動かない。ああ~やっと勤めは終わった。
厳しく寒いけど、この時期、色々なドラマと遭遇出来る。

「ひやり・はっと!!」の惨事

2010-12-27 11:33:00 | 旅先にて

たしか労働災害の危険余地であったと思われるが、建設現場ではそんな危険場所が多々あるが日常の生活では余りなく、またあっては困る「ひやり・はっと!!」は死語に近い存在であった。
しかし、今年を振り返ると、油断から生まれ、あわや事故に繋がる「ひやり・はっと!!」があったのである。
毎年、恒例の北海道旅行で今年は始めての道南であった。
函館のレンタカー会社で今年はどんな車かと多少の期待半分で旅行中の足となる車との対面にわくわくする。
未だ納車されて1カ月もたたない、眩いばかりのテカテカのホンダのインサイトの新車であった。
係員と一通り説明を受けた後、返納する時にはこんな状態で返せと言う型通りのボデイ周りの立合い検査を行う。
車を一回りし、傷のないことを確認するが、教習所での運転前、車両点検を思い出してしまう。
係員の形通りの説明の中に「函館は道内で取締は厳しく、遵法精神の乗っ取り運転を心がけるようにと念をおされ、それではご安全に」と送り出された。
何時ものことながら、愛車とハンドル軽さなど全然軽いなど慣れないレンタカーの処女航海に戸惑いながら、ゆっくり走行を始める。左右のハンドル操作、ブレーキなど車が反応し、意のままに車を掌握するまで時間がかかり緊張する初乗りである。
国道5号線は函館と札幌を結ぶ幹線だけに車両が多く、物陰に隠れ、違反車両を監視する姿に只事ならぬ厳戒体制にあることが自然と伝わってくる。車列の流れに乗っていればと思っていたが、曲がりくねる道の一角で背後の車両が何時の間にかパトライトの好餌にかかり、道脇に誘導される姿に、驚いてしまった。
そんな乗り出しから、数日後噴火湾から渡島半島を縦断して、日本海へ、更に津軽海峡を沿いを函館に戻った。
多少の慣れもあって、運転に余裕も生まれてきた。市内の片側2車線で交通量も多い場所であった。
追い越し車線に位置し、店探しに道の左右の看板を探しながら走行であった。
あっ!!そこだと、看板が目に入り、そのまま左ハンドルをきり、目的の店に寄せた。しかし、背後の車両はミラー越しに見えず接近していたのが気づかず、危うく追突しそうになった。
流れに沿って走る車に急ブレーキ、急ハンドルはまさに事故のもと、まさに事故寸前の「ひやり・はっと!!」であった。
慣れ、邁進から生まれる注意力散漫もあるが、慣れぬ土地での場所探しは危険一杯であることを思い知らされた。
もし、事故が起きたら、人的損害はもとよりテカテカのホンダのインサイトも影もない姿に、便利な車も危険は隣り合わせなのである。

今日も修行僧の勤め

2010-12-16 09:04:00 | 多摩の四季

日が昇る時間が段々短くなってきた昨今、未だ薄くらい中、修行僧の如く、何時もの通りの己に課した勤めから、ふらふらと街中を彷徨う。夜来の雨が上がったが、周辺を覆って居た霧が時間と共に消えていったが、周辺の山間は霧が立ち込め、未だ眠りからさめていないようである。

浅川沿いを西に向かう、丁度浅川で、朝日が斜めに差し込み、河川敷の影の部分と日の当たった陽の部分の違いがくっきりする、メリハリの効いた姿が目に入り、画像に納める。乾いた川底をゆったり流れる浅川と金色に輝く土手、お気に入りの1枚である。

ちょっとした高台に出て見通しの効いた所に出ると、西側に奥多摩の山々が見えてくる。右側が大室山が稜線の一郭を邪魔している、富士山が見えている。左側にごつごつした連なる山が丹沢山脈である。2、3日前、こちらでも寒い中、雨が降り、丹沢も白化粧の姿を見せていたが、未だ早いのかたちまち消えてしまった。しかし、冬はひたひたと確実に訪れているようである。

川から離れ、土の感触を確かめ、のどかな畑道に入ってゆく。白菜など収穫を前に冬物の野菜が目に入る。障害物がなくなり見通しがきいて、富士山をズームアップして捉えてみる。
富士山を向ける角度が余り変わっていないので、やはりやっかみ半分で大室山が邪魔している。右半分であるが富士の稜線がはっきり、深い冠雪に既に真冬の装いの富士山がはっきり見える。清涼な富士山を拝み、修行僧のお勤めの節目を迎え、この辺から富士山を背に折り返す。

善生寺の大仏さんもとにたどり着く。歩き始めてから1時間半、日は既に高くなり、大仏さんも、真っ正面に太陽にまぶしく輝いている。静かに鎮座し、今日の無事を祈る。

案内人の刺激的1日、市内案内

2010-12-12 22:58:00 | 観光案内

朝の1時間半に及ぶ行脚に周に2回は欠かさず歩いているのがこの浅川である。
そんな浅川を主役に紅葉真っ盛りの折りに高幡不動から、石田寺まで歴史史跡散歩が実施され、その案内役の大役を仰せ使った。

毎年、この時期、日野市観光協会の主催で行われているが、ローカル紙などの広報活動をやっているが、伸び悩み参加者も20名前後であった。所が今年は読売新聞に載ったせいか、都内近郊からの参加者もあり、普段の倍、約40名の申し込みがあり、三大新聞の広報力の強さを改めて、思い知らされた。
揃いのユニフォームにヘッドマイクを装着し、携帯スピーカを肩から下げ、あれもこれも、読む暇もないのに、いざと言うときの保険のための資料をデイーバックにぶち込み、両手には当日のスケジュール表と案内メモを握りしめる、重い武装姿で、高幡不動に参上する。
40名の集団を一気に案内すると、固まりが生まれ狭い歩行路に一般者に迷惑をかけることから、20名単位に分け、2組の単位で移動した。但し、その移動も、歩行速度が軍隊の如く、一定ではないため、どうしても長い行列が生まれてくる。そんな固まりを上手く誘導しながら、安全に決められ時間の中で、移動する事の難しさを痛切に感じる。
そんな道案内人も、浅川護岸歩きは、見通しも効き、先ず道に迷う事はない。しかし、モノレールの東側は、石田寺、とうかんの森歳三の生誕地は住宅地で、道も昔のままで入り組み、行き止まりもあったり複雑ではあるが、「ああ、間違えてしまった」などは絶対許せない。
さあ、そんな中でのご案内であるが、月1回の建物案内は繰り返しの効果で鈍化した頭でも体に染み込んでおり、言葉や、嘉永、文久など西暦年もあわせ年号は滑らかに出てくるが、年に1、2度の市内案内は中々出てこない。
この日のためにと思い、学生時代の期末試験にふともどって、万端準備したが、衆目の目の前では緊張の余り、言葉が出て来ない。
当日は某国の首相も外交上の要人と会談する折りは官僚の準備したメモを一時も離さず活用していたが、それを真似するわけでは無いが言葉やデータの誤りは是れ又許されず、恥も外聞もなくメモはしっかり離さず活用した。
さあそんな中でスタートは挨拶を踏まえ、全体一括で碑の前で、新政府が「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」とのくだりからマイクを通して、建立まで14年の歳月がかかった戊辰の怨念をと演説をぶったが果たしてどの程度伝わったか、聞く側の表情を伺う間もなく、目線はメモから離れられなかった。
悪い事に碑の隣には、出店の流すスピーカからラジオの雑音もいやがおうでも入ってくる、ざわついた中での滑り出しであった。
反応を確認する余裕もなく、隊列はスタートした。

ふれあい橋で遥か離れてしまった高幡山を振り返り、もうあんなに小さくなった五重の塔の姿を確認し、感嘆の声もあがる。
戊辰の戦いで勝沼戦争で破れ、高島藩の先導で新政府軍が日野宿に厳しい探索の手が入り、あのこんもりした高幡山も隠れ場所になった説明に頷いていた。
土方資料館に到着、この長い行列を予定通りの時間で案内出来た事に先ずは一安心。
さ~て、問題はモノレールの向こう側、いよいよ迷路の石田地区へ
北川原公園で階段に登り、多摩川と浅川の合流点にあたるこの付近は出水も多い。
弘化3年(1865)記録的な大雨で歳三の家の土蔵の一つが流され、母屋も時間の問題と村中総出で現在の家に移築した事実を更に大雨で渡し船が川留めとなり、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆 30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故もあったこと。現代でも河川敷のねぐらを襲撃、ヘリコプターで助け出される事実も記憶に新しい暴れ場所である。

後は石田寺に到着。歳三の引き墓で手を合わせ、既に薄暗くなった時間になってしまった。六地蔵の前で輪廻転生から守ってもらい拙い説明に最後まで耳傾けていただき、お別れの挨拶、拍手を頂き、感動の一時であった。
11時に家を出て、殆ど歩き詰め、18時に我が家に倒れ混むように到着、刺激的な1日は終わった。

ようこそ松崎家の世界へ

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