春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

世界遺産「めがね橋」に感動する

2010-06-30 21:52:00 | こんな鉄道もあるぞ~

信越本線が無くなった今、昔を懐かしむように廃線跡にアプト道が出来、トロッコ列車か、並走する遊歩道で新たな旅達を楽しむことが出来る。
昭和38年(1963)、アプト式廃止とともに廃線となり、約70年間で、役割を閉じ、新線側にバトンタッチした。現在アプトの道として横川から第6号のトンネルまでの碓氷線の専用軌道を遊歩道として蘇り、4.8㎞を歩くこと出来る。
行きはこのトロッコ列車に乗り、当時の国鉄の最大傾斜66.7パーミルを体感する。添乗の車掌さんの案内で傾斜区間の通過を知らされ、その標識に目を凝らし、今こそ難所の勾配を越えたのだと牛歩の如くゆっくりと、走る車上からじっくり確かめる。
横川駅から僅か二つ目の駅が終着駅「峠の湯」駅で降車する。専用軌道は此処までで、此処から路線跡に出来た遊歩道で碓氷峠に向かって行く。ゆっくりした勾配であるが、登りにつけ、廻りの風景が徐々に山深くなる。幾つかのトンネルを越え碓氷線の18ある橋梁で最大の橋梁である「めがね橋」に到着する。
こんな深い山間に目の前の美しいレンガ橋に感動する。
長さ91m、高さ31mのレンガアーチ橋で国内最大である。明治25年(1892)に約7カ月で造ってしまった。使用されたレンガは200万個で川口、深谷で運ばれてきた。2年後、地震で一部崩れ、補修し支柱は太く、橋梁も厚みを加え現在に至っている。
その美しい姿に橋上から、或いは急な崖を降りて、国道から見上げる様に、様々な角度からアングルを変えて写真を撮りまくるがそれぞれその姿が絵になる。
遊歩道は将来、この先の熊の平まで延長される予定である。「めがね橋」は国指定重要文化財・日本近代化遺産第1号と登録されているが、更に世界遺産登録を目指している。
日清、日露など戦争を背景に東京と日本海に抜ける輸送路が国策として必要であり、どうしてもこの険しい碓氷峠越えが必要であった。そんな背景から、今日の機械動力のない時代に大量な犠牲者を生みながら人海戦術で作ってしまった。そんな先人達の残してくれた遺産をじっくり確かめながら深い山間のアプトの道を楽しんだ。
碓氷線、アプト道を行く

「釜飯」だけは残った

2010-06-23 15:03:00 | 美味い!!

鉄道の高速化が進み、東海道、山陽から始まった新幹線網が日本各地にどんどん広まった。
高速化の嵐は車両の駅での停車時間も切り詰め、のんびりすることも許せず、駅売りの姿もすっかり変わってしまった。
列車到着を待って駅弁売りのおじさんが、大量な駅弁を抱え、忙しそうにホームを動き廻る中、列車の窓を開けて、声をかけたり、列車の停車時間を気にしながら、列車から降りて、駅弁ダッシュでそれぞれ買い求める姿があった。
駅弁を手にして、座席で重厚な梱包を解いて、美味しそうな駅弁の中身に遭遇し、箸を突っ付き、その土地ならではの姿形、味、風味にある種の感動さえ呼び、列車旅の楽しみでさえ会った。
そんな感傷的な風情は近代化、高速化の荒波に飛んでしまった。
碓氷峠をあっと言う間に通り過ぎる長野新幹線がなかった頃は、上野から信越本線の特急あさまで、ゆっくりと車窓から映る姿を眺め、鉄道の旅を楽しんだ。
滑り込む様に横川駅に着くと、碓氷峠越えの増結車両のパワーアップ作業で暫くは此処で停車するので、横川名物の釜めしを購入し、あの独特の味を楽しんだ。
信越本線が無くなった今、昔を懐かしむように廃線跡にアプト道が出来、トロッコ列車か遊歩道で新たな旅達を楽しむことが出来る。

横川駅から僅か二つ目の駅が終着駅「峠の湯」駅にこぎれいなレストランがある。殆どの客がバイキング料理で賑わっている中、時間がかかる旨の断りがあったかが、それでも「釜飯」を頼んだ。系列店か工場か判らないが暫くすると注文の釜飯が車で運ばれてきた。
地球環境保全のため、入れ物や梱包財がとやかく、煩く言われる時代に拘りを持って益子焼の立派な容器に詰められたずしりと重い「釜飯」であった。
天気も良し、目の前の山を眺めながらの特別席のベンチを占拠し、容器を開いてみる 。じんわり味の染みたご飯に、鶏肉・しいたけ・ごぼう・筍・栗・うずらの卵・グリンピース・あんずと具沢山に、別添えの漬物が「釜飯」を引き立てた。

特急の中で食べたかってのこってりした懐かしい味は、変わっていなかった。釜に詰められた、奥の深い味と量、「美味い、美味い」と、かなりの量であったが、完食してしまった。
特急列車や駅弁を売る姿は無くなってしまったが、「釜飯」だけは残った。

アブト道を支える、変電所、トンネル

2010-06-19 12:02:00 | こんな鉄道もあるぞ~
◇丸山変電所・・・重要文化財近代化遺産第1号

アブト式電機機関車の走行を担うエネルギーは此処から供給される。

初めて電化された明治45年に建てられ、碓氷峠を走るアブト式電機機関車に電気を供給した。建物はレンガ作りで、右側が蓄電池室、左側が機械室である。同型のもの軽井沢にもあったが、現在は取り壊されている。当時、国鉄が直轄する横河火力発電所より送電された6600Vの交流電圧で回転変流機を駆動し660Vの直流に変換し、電車に送電した。
蓄電池は電機機関車が登坂時に電力を補う役割を持ち、登坂牽引のエネルギ源として、電機機関車が登坂牽引を影で支えた。
蓄電池室だけで、これだけの大きな建屋を保有するのは312個の大量な蓄電池を収容するスペースが必要になってくる。
国の重要文化財近代化遺産第1号に指定され、近年外観工事を終了し、往年の姿に修復している。
近くには信号所もあり、横川変電区の区長官舎や職員の官舎もあり、40人以上が働いていた。アブト式廃止後、廃墟同然になったが2002年に創建当時の姿に復元されている。
何れにしてもこの特異な建物は碓氷線の登坂牽引の電化の推進役として無くてはならない存在なのである。

◇碓井峠の山間部を走り抜けたトンネル
碓井線は旧信越本線の横川ー軽井沢間、11.2kmを言う。26のトンネルと18の橋梁があり、明治中期に1年6カ月であっと言う間に作ってしまった。


電化前はトンネル内は機関車からは吐き続ける黒煙と大量の煤煙で一杯になってしまい、峠の坂を登る列車の場合、煙突の中を列車が突き進んでいくようなものであった。
煤煙は機関手に思い切り降りかかるが、乗客にまで危険が及ぶ可能性があるため、英国人の考案による排煙幕を設置した。
これはトンネル入口に隧道番を配置し、列車がトンネルに入り切ると、すぐに大きな布でトンネルを遮断し、列車の最後尾の空間が真空に近い状態となり、煤煙はそこに滞留させ煤煙害を減らした。
列車の運行に合わせてこのような「隧道番」昼夜を問わずが身体を張って大きな布を操作し煤煙対策していたのである。
緩い勾配であるが確かな勾配を登り詰め、いよいよ遊歩道は碓井峠の山間部に達し、その一つのトンネルに到達した。隧道にはその過酷な煤煙を物語る黒い煤がしみ込んでいた。

遊歩道はトンネル内の照明をたよりに更に奥深く入ってゆく。
トンネルの出入り付近の温度差から圧力差がうまれる、風がトンネル内を吹きまくる。時折、天井から冷たいものが滴り落ちる。長い年月に漏水も有る様で、暗闇に突然の冷水の洗礼は魔女の追ってか、不気味である。
碓氷線、アプト道を行く

鉄道遺産アプトの道を行く

2010-06-13 05:07:00 | こんな鉄道もあるぞ~

江戸へ繋がる要路として立ち憚るのは箱根の山は天下の剣があれば碓氷峠もまけずに並ぶ山岳路である。
横川から軽井沢へ行く手を急峻な碓氷峠が立ち憚る所に鉄道を造ってしまった。この厳しい山岳路をどう克服したので
あろうか?明治26年(1893)スイス人の発明により歯車を使ったアブト式鉄道で急さかを克服した。
折しも日清戦争・日露戦争で兵器と兵員を運ぶ、首都圏と日本海を結ぶ鉄道は軍備輸送面から急務で難工事に関わらず戦時下の背景もあって1年半で鉄道は完成した。軍備輸送から始まった鉄路はJR信越線の輸送路として、輸送量の増大、高速化に進化する長野新幹線に置き換わり、100年余りの使命を終え、遂に廃止となった。
しかし、1世紀の余りのこの遺産を闇に葬るのは忍びなく横川から軽井沢寄りの4.8㎞は軌道を外し整備し、トンネル・鉄橋をそのまま残し「アブトの道」として蘇った。鉄道施設の整備工場、変電所、多数のトンネルの現風景をそのまま留め、「碓井峠鉄道文化村」として鉄道施設を直に触れられる謂わば鉄チャン、鉄子さんの鉄道のメッカが此処に生れた。乗って、歩いて、触って、見て鉄道の原点を確かめ、感動を呼んだ。


「文化村駅」から「まるやま駅」を通り「とうげの湯駅」まで2.6㎞の道を、途中の「まるやま駅」での休みを除き、約20分でトロッコ列車はのんびり走る。運航期間は3月~11月まで、土・日・祝日運転している。先頭車両はオープンデッキ型展望スペースで訪れた4月は碓井峠の山間の風が吹き抜け、大変爽やかな乗り心地であった。
廃線となり今年(2010年)で早12年を経過した 。廃線後の線路を使い2005年よりドラフト列車が運行始めた。昨年だけでも全国から10万人が乗車し、2.6㎞の区間でありながら景色を楽しんでいる。
そんな素敵な場所である。以下でご案内
碓氷線、アプト道を行く

覚悟の上、人間ドックへ

2010-06-03 14:18:00 | もう、あぶないぞ~
志願して、人間ドックに行ってきた。もうこの歳になると己で判断し、高額な金を払って専門医に見て貰うしかない。

苦手はレントゲンである。
標準コースに加え、今年もオプションで「前立腺ガン」と「胃透視(レントゲン)」を選んだ。
今年は「胃カメラ」とも思ったが、検査に2日に及ぶことと、あのカメラを突っ込む苦しさがとらうまになって中々踏み切れない。

医療技術の発展で鼻から入れるセンサーも登場しているのに、旧南多摩郡部の総合病院にはそんな最新技術は未だ未だ先のようであり、従来技術の獄門刑のカメラでさえ、医者が少なく順番待ちのようである。

◇宇宙遊泳覚悟のレントゲン

「胃透視(レントゲン)」も台に乗せられ、のたうち回る10数分の宇宙遊泳はこれも獄門刑である。
上手くもないバリュウムを飲まされ、検査台に乗せられ、遠隔操作する技師からスピーカ越しで色々な技をバシバシ要求される

載ったままの宇宙遊泳ならまだしも、台が横になったまま、仰向け、うつ伏せ、横向けと身勝手な要求が機関銃のように飛んでくるのを素早くこなせなければならない。頭をやや下向きに、両手で体を支える苦しい体勢のまま、『動くな、呼吸を止めろには』まるでアクロバット体操のようで、検査台での格闘遊戯である。
台に乗ったままなら良いが、台上で1回転ひねり技やらを。おまけに腹を膨らませる錠剤とバリウムを飲むが、撮影過程でどうしても我慢出来ず、ゲップをしてしまうと、直ぐにばれてしまい、錠剤とバリウムのお代わりで、再度撮影が繰り返し行われ、良き画像への挑戦が行われる。
無重力の宇宙空間なら、未だしも、地上での自力遊泳はほんとに体力勝負である。これに加えて身体には良くない放射線の被爆も覚悟の上での検査である。
ロボット技術が進んでいる世の中なら、こんな格闘技はしなくても、せめて機械に身を任せ、好きな様に体をいたぶってくれ!!

◇漸く終了
はいご苦労さんでしたに、検査台が正立した状態で開放された時は激闘を物語るように汗でぐっしょり、フラフラになっていた。
「良く、頑張りました」レントゲン技師からの慰めの言葉で、地上へ軟着陸。折しも野口宇宙飛行士が宇宙滞在を終え、無事地球に帰還した。足腰立たず、支えられるように地上の人に、此処での宇宙遊泳も、野口さんを疑似体験出来る。
お代わりまでしたバリウムの排泄も一仕事。くたばりかかった身体を廃車にするわけにも行かず、車検を通すのは用意なことではない。

◇目くらましの眼圧、他、難行苦行
目くらましの様な眼圧をかけられ、たちまち視界が欠けたり。腹の部分を思い切り検査棒で押し込まれる超音波。ただでさえ血の出が悪いのに、膨大なカプセルの数にこれでもかと血を取られ留めを刺される。
う~ん、健康を確かめるにはこれほど迄の難行苦行をパスしなければならない。
結果は2~3週後、首を洗って待つしかない

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/