春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

関東に激震走る

2005-07-24 00:19:00 | 天災襲う

16時40分頃だったか、いきなり叩きつけられる様な垂直型の地震がドーンと来た。
自宅の2階でパソコン前でキーイを叩いている最中であった。
何故か反射的に壁に寄り掛かるように自然と手が出てしまった。
家の中でも、とりわけ2階がこうした地震には敏感に感じる物とも思えたが椅子に座ったまま、成り行きに任せ、静かに納まるまで、待つしかなかった。狭い部屋には、むき出しの棚が四囲を囲む様に据えてあり、無造作に本やガラクタが所狭しと、満載状態で載っている。
こいつらが雪崩のように落ちてきたら、どうなることやらと思いつつ、あの激しい揺れの中で荷崩れ起こさないか、心配であったが何とか持ちこたえた。
早速TVを付けて、何処が震源地なのか、果たしてその被害は、リモコンをパカパカ気ぜわしく切り換えて地震情報を待ち受けた。
暫くして、各局とも一斉に地震があったことを告げるテロップが流された。色々情報が集まってくると、報道の最前線が映り出され、局内の揺れの瞬間がリアルに流される。どうやら足立区で震度5強で東京湾周辺部で、それに近い震度を観測している模様である。
南小岩で東京電力の鉄塔が倒れたとの一報に、早くも報道ヘリが現場に駆けつけたが、住宅密集地に屋上に建てた鉄塔が、隣接の家の屋根に倒れている状況が映り出された。規模の小さい鉄塔(恐らくハムのアンテナもどき?)で東京電力とは無縁のもので、鉄塔=電力鉄塔にすり変わってしまった報道のあわて振りが、起きていた。
「ん!我が家は大丈夫だろうか」この映像に触発され、早速外に飛び出し、2階のアンテナを見に行ったが何時もと変わりない姿にホットした。
一方、震度5程度でも首都圏の交通は完全にマヒ、改めて足廻りの弱さをさらけ出してしまった。

知床が世界自然遺産

2005-07-18 10:16:00 | 北海道旅行

「ヒグマ出没のため立ち入り禁止」知床五湖を寄った時に戦慄を呼び起こす看板であった。当地ではさほど珍しい物ではないが、たまに訪れる都会の人間には思わず身構えてしまう。この看板を境に知床五湖のうち、3、4、5湖は入れなかった。
そんな知床が世界自然遺産に登録され、「知床」の名前が世界に広がった。このヒグマ始め、知床に生息する世界的に希少なシマフクロウなど、未だ陸地から知床半島の先端まで、行く手を阻む自然環境がこうした動物達の生息を生んでいるのだ。
世界自然遺産の看板に色めき立ち、観光開発に当然動きだし、観光客の誘致に一段と熱帯び、ブームを呼び起こすであろう。
一方では人間と動物たちがこうした秘境の世界として、仁義と共存の秩序を自然と作ってきた。
しかし、行き過ぎた観光開発が環境破壊を生み、せっかく貰った看板が崩れてしまうことを心配する。何時までもロマンを呼ぶ秘境と呼べる知床であって欲しい 。
連日のくそ暑い都会から抜け出し、ヒグマは怖いので、せいぜいエゾシカの出会いを求め、秘境の世界にまた行きたくなった。

秘境の道東の世界

晴れやかな舞台、式場

2005-07-13 11:39:00 | イベント

未だ先ではあるが伜の挙式が此処のチャペルで決まったようだ。
都心側からレインボーブリッジを渡るお台場に位置し、国際展示場などの大規模なビルが居並び、新都市として開発間もない街である。その名の如くビックイベントで人を呼び、四季を通じて賑わいの絶えない街である。大観覧車がすぐ近くにあり、お台場海浜公園とも併せ、都心に近い観光スポットでもある。
当日の貸衣装の予約と場所の確認を含め、臨海副都心線に乗って、当地へ行ってみた。
写真のような教会の前に噴水があり、教会の建屋を中心に取り囲む様に、洋風の建物が居並び、異国情緒豊かな小さな街が出来上がっている。建屋は挙式に関わる機能単位で居並び、衣装・洋菓子・喫茶・レストランが隣り合わせで軒を連ねいている。
この噴水広場から、石畳と階段を通じて教会に繋がり、この晴れやかな舞台を演出してくれる。
職場の関係者、友人、縁者を招き、夢膨らむ門出にふさわしい場所として、まあまあ良かったなあとも思える。
帰りには彼岸にはチョット早いが、お墓により、両親に「まあ無事に進んでいる旨」を報告してくる。

忌まわしき思いで、教習所

2005-07-09 01:15:00 | 世の中変わる

通りすがり、ついつい見てしまった。此処で散々いじめられ、忘れもしない悪夢の特訓が行われ忍耐強く通ったことが、昨日のように思い出される。
その暗黒のフィールドコースは昔のまま殆ど変わっていなかった。
車に憧れ、運動神経も正常に反応する20~30代にチャレンジするのが、一般的であろうが、車取得に目覚めたのは、かなり年老いてからであった。
所謂30~40代は不器用な性格も災いして仕事一縷、加えて出張も多く、勤務の傍ら、教習所に通う気持ちの余裕もなかった。
会社の友人で、高齢で免許を取り、今まで無かった世界に取りつかれ、夢中にしてしまった話に引きずり込まれ、車取得の虫がムクムクと沸いてきて、遂に此処の門を叩いた。
とはいう物の、気は若くても、年のハンデは隠しようもなく、車を操るどころか、操られ気の荒い教官にはその反応の鈍さに、いたぶられ苦渋・苦悶の続く教習所通いであった。
まあ、それでも何とかステップを踏み、いよいよ仮免の場面では小心ものの、気の弱さから、本番一発勝負の弱さを露顕し、停止ラインを踏み越えたり、幅寄せにドジッタリ、やたら無駄な教習料を納め、教習所を徒に喜ばした一人であった。
路上に始めて出た時、構内ではひたすら国産車で慣れた運転感覚が、いきなりの「ベンツ」にすっかり戸惑い、坂道の多い所で、エンストを起こし、構外でも苦難の旅立ちであった。
そんな苦痛の教習所通いも、小金井試験所での受験となり、此処のバスの世話になり、同窓生と一緒に会場まで運んでくれた。晴れての合格の喜びは此処の監獄から出所出来る、精神的苦痛からの開放でもあった。
忌まわしき地獄の思いで、消え去ることもないが、その苦しみの反動か、新たな車世界の感動に酔い、走りまくった。

虚しく、変わる事業所の姿

2005-07-05 01:23:00 | 世の中変わる
4半世紀余りも会社人間として育ち、そして放り出された今日も染みついた垢は中々ぬぐいきれない。もう振り返っても、ご縁が無くなった今日、事業所の門を潜ることは殆どなくなった。
OB顔して、顔パスで守衛を通り抜けられたが、それも既に昔の話、セキュリテイ面から何時までも、そんなことが許せなくなってしまった。
汗で染みぬいた作業着,作業帽も捨てられることもなく、使い道もならず、そのまま残されている。
只、近隣のOBとして、事業所の催しの案内も来なくなったが、事業所で続けている市会議員からの挨拶が続いており、選挙の時は希少な有権者として、扱われているようである。
時と共に既に疎遠の状態であるが、しかし、長い痕跡は完全に断ち切れずその後の行く末は気になるものである。

◇佇まいの変貌振りに驚く
時々近くに通りすがり、目に入るその佇まいの変貌振りに驚かされる。
写真は事業所の西門であるが、門を通って構内の左側は事業所の敷地で工場の建屋があったが、売り払われ、16階建ての大型のマンションが建ってしまった。
その裏手にある住宅地から、日照権や美観の問題もあって、反対運動ののろしが上がり、行政を含め話題になったが、その抵抗も虚しく、計画を阻むことは出来なかった。
広い事業所の中、目に入るのは事業所の建物だけであったが、道を隔てて、すぐ隣は威圧的なマンションであり、ただでさえ狭くなった敷地に上から絶えず見下ろされ、閉塞感に覆われる窮屈な環境になってしまった。

◇やせ細る事業環境
会社の厚生施設として、存在した周辺のグランド、野球場やテニスコートは仕事から離れ、運動に集中し健康維持、ストレス発散の場でもあった。
春は運動会、夏の一時期は提灯で飾られ、仮設のステージから催しで賑わい、シートを敷いて、車座になり咽喉を潤おすことも定例行事の一つであった。
周辺の施設は手放し、まあこのご時勢、仕方ないのかなあと思っていたが、年を追うごとにどんどん蝕まれ、遂に本丸までせまり、敷地がやせ細り、大型のマンションに取り囲まれてしまった。
安い労働力を背景に物作りの中国へ転移と国内の空洞化など不況の嵐は容赦なく襲いかかってきたのだろう。
事業所は駅に近く、都心へ通勤の最適地で格好の宅地でもあり、住宅不動産としては引く手あまたであった。
一時の不況の渦に会った時、事業経営から縮小を余儀無くされ、退職金上乗せによる高年齢層の早期退職促進など行われた。そんな背景から資金繰りはもう、なりふり構わず土地売却しか選択の余地は無いのかもしれない。

そこで汗をかき、徹夜で作業した苦い青春の思い出の建屋も、そんなロマンチックな感傷に浸る余裕も、無いぐらいにきれいになくなってしまった。
「おい!!げんき出せよ」なんて言葉は不謹慎かもしれない

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/