春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

江戸火消し、から近代消防まで

2015-04-20 14:27:00 | 野次馬見物

大きな大八車に乗せたタンク何であろうか

水を貯え、石炭を燃やし蒸気を発生させる
この蒸気で給水ポンプをまわし、給水を加圧する。
加圧された水を噴出させ、放水する。
消防ポンプの先駆けである。

産業革命で牽引役を果たした蒸気動力による給水ポンプ
に使われだした。
イギリスで普及したのが、幕末期の万延元年(1860)
その10年後、当時の最先端を走る欧米文明の産業機械
として明治3年(1870)に輸入された。
その約30年後に登場したのがこの国産品である。
「エッサー ホイサー」複数の消防士の引手によって
火事現場に向かって行く。到着後、釜の石炭燃料に点火、
20分後にお湯から蒸気に変わり、
蒸気が昇圧し、ポンプを廻す。
徐に給水開始し、消火活動が始まる。
一時を争う消火活動であるが、当時はこんなのんびり
した物であった。


江戸時代は火事の時、印半纏を着た火消し達は手に道具を持ち、一番のりをめざして現場に駆けつける。
現場では火消し札を 立て、屋根に登り、まといを立て、組の持ち場を内外に知らせる。
その後、鳶口、刺叉、のこぎりなどで家を引きたおし 建物を破壊し火の燃え広がりを防ぐ。
消火後火消しのヒーロが凱旋するように朗々と、「きやり」を唄いながら、引き上げる。
火の粉から身を守り、「刺叉」などで廻りの家を取り壊す「破壊消火」の方法が取られた。

揃いの半纏姿。組のステータスである纏を
かざし、行列を繰り出す。
江戸火消しのこうした、いなせな姿は守られている。


空からの画像情報の撮影や転送、高所の消火の支援
離島や山間僻地での救援支援

陸から空から多角的な近代化への歩み
高層化する建物に地上から消火、救援も限界に
何と言っても一飛び、
益々、その役割が増えていくであろう
屋上に一線を退いたヘリコプターが余生を送り
新宿の街を高いところから見下ろしている

江戸火消し、から現代まで、
見どころ満載の消防博物館であった。

築地、場外歩き

2014-11-16 21:02:00 | 野次馬見物

地下鉄の築地駅を降りて、築地市場に向かい、左側に築地本願寺更にその先、数分で交差点に出る。
交差点で手にはそれぞれ袋を提げた人達が信号待ちしている。
脇には市場をコマネズミの様に走り回る円筒形動力部が回転するターレットトラックが控え、築地市場独特の表情を早くも伝えている。
人並みの背後にお店が軒を並べ、右側のアケードに場外市場の看板が見える。
場外に入る。


何処も、人、人の渦で、時には体が、触れ合う程の混雑ぶりである。
玉子焼きで有名な店の前は、場外でも人気の一つである。
店の前ではデーイバック提げたヨーロッパ系の外国人が群れなし、何やら相談している。あの柔らかいふっくらした感触の玉子焼きは国境を越え、今や人気なのであろうか・・・。
道の真ん中には「イカの被りもの」が目立つ、おっさんが、海鮮丼の看板を翳し、一生懸呼び込みを図っている。
縫いぐるみなら、顔を見せないが、開いたイカから渋い、眼鏡顔が覗き、その真顔が面白い眼鏡イカである。

買い物、観光で、ごった返す。外見では識別つかない、東洋系の外国人、西洋人と今や国際的な築地市場である。店先の威勢の良いあんちゃんの声、外国語も飛び交い、人の渦に熱気が伝わってくる。


「お兄さん、この蒲鉾美味いよ」
オープンテラスは、テーブルに小さな椅子が用意。混み合う人込み挟んで、道路側にも簡易テーブルに椅子が、それぞれ準備。青天井の元、雨が降れば、即座に撤収する。
お客と売り子の垣根もなく、此処では気取りも飾りもなく、ダイレクトのやりとりは下町の伝統文化がそのまま、この築地に引き継がれている
「つくごん」で蒲鉾の詰め合わせはお持ち帰り用。つくね、ねぎ串、ベーコンチーズなどくし刺しを頬張りながら、食べ歩きなど、少々の不作法も許される世界なのである。
何れにしても酒のつまみ、荷物にカメラを下げ、片手にくし刺しで、手がふさがり、残念ながら立ち飲みは出来ない。大きなベーコンチーズ巻をを、思い切り頬張り、築地の味を確かめ、腹に収めた。



大きな鍋に煮込んだ汁は親子どんぶりか。当たり立ち込める匂いに、思い切り食欲をそそるが、何となく忙しなく、人並みに追われる用で流石控えた。
店先に貼られた「ガリタ出没注意」のシールは某TV局で食べ歩きで、食べた店の証である。
この得たいの知れない紋所が食べ歩きの案内役に一役買っているのであろうか。

市場周辺に立ち込める魚の匂い、人種を問わず、ごった返す人並み、威勢の良い、売り子の声を背景にたまには無駄歩きも楽しい。

気になる3本煙突

2011-04-23 09:56:00 | 野次馬見物

昭和記念公園は旧米軍基地のあったところを、返還され、全面的に公園に整備され、基地としての面影は完全に一掃されてしまった。
しかし、公園の西側に隣接する土地は立川基地跡地として手つかずのままである。
その一番西端にあたる部分は残掘川が流れ、その周辺は訪れる人も少なく、自然がたっぷり残されるところである。
残掘川側から基地跡に巨大な煙突が昭島口側に1本、更に玉川上水口に3本の煙突が樹木越しに頭の部分が顔を出している。
かっての基地は米軍が抜け出した後は人をも寄せつけぬ未踏の自然の宝庫の世界である。

その煙突直下に近づいて見る。

樹木に遮られた部分はクリーニング工場で、3本の煙突はボイラー用の物である。建物と周辺設備は自然に晒され荒れ放題の所もあれば、そっくりそのまま残って居る事が、某サイトで写真が掲載されてあった。
かってのアメリカンドリームとして、そこで生活していた空間が何とも気になる。まして、会社も関わりを持ったユーザーの一つであったことが微かな記憶の中にあった。そんな背景もあって、変な虫が騒ぎだし、その姿をこの目で確かめたくなってしまった。
しかし、現実は有刺鉄線のフエンスがしっかり張りめぐらされ、行く手を阻んでいる。
スティーブマックインの「大脱走」並のフエンス越えは出来ない事も無いが、この重い体では失敗して有刺鉄線の餌食になる可能性が大である。
要所には警察に通報の張り紙がベタベタ貼られてあり、過去の累犯を物語り、一辺にその夢は萎えてしまった。
「いい年こいて、あのじじいが、どう血迷ったか」と、昭島警察署で補導なんて、顛末はみっともないので、バンドラの箱は封印したままにして置く事にした。
「法を犯してまで、それをやっちゃあ~おしまいよ~」・・・と柴又の虎さんも、きっと言っているに違いない。

陸軍重砲兵学校

2010-07-23 14:17:00 | 野次馬見物
<江戸湾台場に据えられた加農砲(靖国神社)>

東京の西の外れ、旧南多摩郡部から横浜に抜け、更に京急で三浦半島は先端に近い馬堀まで遥か遠い約2時間半の旅、戦争遺構を訪ねてみた。
三浦半島の一角は古くはペリー率いる黒船が来航し開港を迫り、江戸湾に面する 拠点に砲台を置くお台場など、海防構築が進められた。海防構築は明治維新以降も、「東京湾要塞地帯」として引き継がれ、明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上続いた。要塞地帯は基地周辺の地形や軍船の動向、砲台の位置関係などを外部に知られないよう軍が写真撮影スケッチ、立ち入りなどを厳しく制限した。戦後65年、京浜大津駅の住宅地の一角に「要塞地帯標」など未だに残っているのが、現代では不思議なぐらいの場所である。

<九六式十五糎榴弾砲(野戦重砲兵第一連隊会他から靖国神社奉納)>

要塞地帯の一角である、馬堀に「陸軍重砲兵学校」があった。
前身は明治22年(1889)東京湾の要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成する「要塞砲兵幹部練習所」として中隊は千葉で誕生した。
浦賀の海軍屯営跡に移転し、明治31年(1898)現在の馬堀の地に移転した。
その後、「陸軍重砲兵学校」と改称し終戦まで継続した。学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えたと言われている。終戦後の一時期、浦賀が引揚港となり、旧兵舎は陸軍の復員手続きや馬堀擁護所として使用された。
兵学校は現在馬堀小学校、馬堀中学校、山側が馬堀自然教育園にそっくり、転用されている。建物の殆どが新たに作られているが、その中でも兵学校当時の姿を留めるものもある。
その所在は「東京湾ロマンおおつみち」・・・大津探訪クラブで発行された案内MAPで案内されていることが発端であった。
春先に訪れた時、その所在は確かめたものの、戦争遺構の何に相当するか判らず、まして一番肝心な記念碑も見ること出来ずに虚しい探訪であった。
そんなことから、改めての三浦行きには準備に怠りなく進め、現地では場所の特定も合わせ、管理下の学校に記念碑見学の機会を頂き、戦争遺構の場所の特定とも合わせ、もやもやしたものが、一気に解けた。
戦争遺構として一番その姿を留めているのは山側の馬堀自然教育園である
自然のまま旺盛な樹木の中に埋まる様に火薬庫の弾丸庫が見届けられる。鬱蒼とした樹木に昼尚暗く、周辺には大きな水脈があり、導水路を通じて流れているが、溢れた水が地面に浸透し、猛烈な湿気の重い空気が立ち込める。真夏の暑い時期に殆ど風もなく猛烈な湿気のジャングル地帯は蚊の温床地帯で格好の攻撃エリアでもあった。そんな環境から中々訪れる人も少なく、近代遺産は自然の中に埋もれるようであった。

小中学校の丁度真中の小高い丘にかっての将校集会所があり、その隣に記念碑がある。たまたま居合わせた中学校の先生に場所をお聞したが、判らず教頭先生に聞き初めてその場所が判った。まあ、歴史遺産もそんな存在であったのである。
東京湾の要塞守備から、中国大陸から東南アジアで拡がった戦線の要として重砲兵は此処から第一線に送り出されたのである。
詳細は陸軍重砲兵学校で報告されている

巨大"クモ"に遭遇する

2009-08-31 07:07:00 | 野次馬見物

横浜に用事があり、「開国博」に寄ってみた。
案内板や旗に表記の「Y+150」ワイひゃくごじゅうのテーママークがにどうしても「Y150」(150円)に見えてしまう。
有料3会場の共通入場料が150円かなと思ってしまうが、とんでもない大人一般2400円もするのは率直に言って、如何にも高い。
早速、「Y150はじまるの森」へ入場する。
客寄せのテーマの一つが巨大アートマシンの"クモ"位が目玉なのかなあ~と思いつつ、「これしかないもんなあ~」と、訪れる客の偽ざる声として耳にする。
その主役の巨大"クモ"が広場の一角に鎮座し、多数の足を折り曲げた、中心部に眼光をすえ、高い位置から、周辺に睨みを効かした異様な姿が目をひく。
たかが、"クモ"されど"クモ"なれどこの巨大な怪物は薄気味悪く、こんなものが動き出したらと、ある種の期待感が大人でもワクワクしているぐらいにリアルに出来ている。
パフォマンス時間前に、広場の出入りに制限がかけられ、観衆が広場を囲むように、着座する。すみの一角からパイロットと言われるサングラスかけた茶髪の兄ちゃん姉ちゃん達7、8人がバックミュージックに併せ、やってきて巨大な"クモ"に一斉に取りつく。"クモ"の頭の一番高いところから、無数の足を動かす者とそれぞれ役割が決められ、"クモ"の正面に立つ、サングラスのハゲ親父の指揮で運転操作する。

やがて、無数の足が、それぞれ大地を掻き出すように、それぞれ動きだし、"クモ"が高い位置に上がっていき、併せて首や目玉も動かし、その巨大な"クモ"が薄気味悪く動きだし、そのパフォーマンスに歓声があがる。
無数の足が巨体をささえるようにゆっくりと"クモ"が動き出し、やがて近くまでやってきた。巨大な足が観衆の頭上から、振り降ろされるような目の前での動きに圧倒されるなか、"クモ"から水が吹き出され、思い切りしぶきの散水に洗礼される。
ゆっくりした動きで、再び元の位置に戻り、足を曲げ巨体を降ろし"クモ"が休息し、この間20分でパフオーマンスが終わる。大人も子供もそれぞれ、目の前の巨大な化け物の動きに夢中になり興奮し、楽しんだ。

ようこそ松崎家の世界へ

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