春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

FM多摩から出たぞ~

2005-03-30 10:44:00 | 野次馬見物

多摩市に放送エリアを持つ、FM多摩放送から、小生が所属するサークル「佐彦会」が目にとまり紹介の機会を頂いた。いきなり本番ではとまどうので、此処、聖蹟桜ケ丘のビルに伺ってスタディオの見学と当日のすり合わせを行って、本番に備えた。
放送当日、興国の興廃ここにありと臨戦態勢に臨んだが、本番前の応接で事前に練り上げた資料がないことに気付く。手元の袋と書類を何回もひっくり返したが出てこない。局に訪れる前に会議をやり、そこで巻き込まれてしまったのだ。「なんてこったい」と思いつつ、もう残りの資料で立ち向かうしかないと忘れものは吹っ切り、スタジオに入る。メータの居並ぶ調整卓にディレクター、小生を囲む様に二人のアナウサーが総て女性であった。ディレクターの合図でトップミュージックが流され、無言の数十秒間、いやが上でもポテンシャルが上がって行く。二人の対話から本日のテーマと名前が紹介され、軽いテンポで話を振ってくる。目の前のマイクを前に重い口が開く。「えーと、あの~」言葉が出ない、放送では禁句の繋ぎ言葉がついつい出てしまう。 それも慣れてくると何とか彼女達との対話にようやく付いて行けるになるが、それも事前に準備した想定問題の範囲だった。機関銃のように出てくる質問に汗かきながらの応対にあっと言う間の20分であった。
何とか終わった後、テープにとった 録音を家で聞き、悪声が地域に広がってしまった事の恐ろしさを改めて認識した。

踏切戦争

2005-03-24 20:44:00 | こんなことに腹立つ

目の前を猛烈な勢いで電車が通り過ぎる。家に近いせいか1日に何回か渡るか、通りすぎるか、目に付く所である。
踏切と言えば東武鉄道の開かずの踏切で、保安係の操作ミスで痛ましい事故を起こしてしまった。踏切近くまで接近する電車にぎりぎりまで、人・車を横断させようとする判断と遮断機の手動操作が起こるべくして、起きてしまった。
此処の踏切は上り線路が駅構内に近く、単純に電車位置で遮断機を自動操作するため、電車が止まっている間も遮断してしまうため、上り電車は中々開かない。朝の通勤時は電車の本数も多く、開かずの踏切になってしまう。車も人も開くあてもない遮断機に耐え、忍びじっと我慢している。従って遮断機が開いた時は、マラソンのスタートのように狭い踏切の軌道内を人、自転車、車が入り乱れて、我先に渡ろうとする。遮断機を挟んでの両方向からの通行者との仁義無き鬩ぎ合いであいでもあり事故を誘発する危険な横断である。一方では、遮断機が下りたまま、何時来ることもない上り電車に、しびれを切らした通勤客が、危険を省みず、衆目の前で遮断機を手で押し上げ、大手を振って堂々の横断をやってのける輩も中には居る。我慢することを失い、自己中の世界に何かギスギスした世相を見る様である。何時惨事が起きるか判らない。危険と隣り合わせは此処でも起きている。

路面電車

2005-03-22 06:41:00 | こんな鉄道もあるぞ~

都内唯一の都電、未だ下町の足として、孤軍奮闘し、何とか頑張っている。
その起点となる三ノ輪橋界隈は泥臭くさく、飾り気の無い普段着のままの下町の独特な文化を残している。
三ノ輪橋の駅はその象徴でもある、商店街が軒先並べて隣接し、惣菜やら、お祭りの屋台で見る様なお店に、ショッピングカーや自転車を曳くお客が無秩序に往来し、賑わいを見せている。
「えい!!こちとら江戸っ子でえ~い」なんて台詞で道脇から寅さんが出てくるような稲荷神社が街の雰囲気作りを演出してくれる。
向こう三件両隣、人と人の繋がりは分け隔てなく、昔ながらの人情味豊かな文化が息づいている。
この下町の臭いをたっぷり嗅ぎ、同じ日に山の手線経由で東急世田谷線(玉電)に乗ってみた。
三軒茶屋の駅舎が、スマートな新装ビルのなかに埋まり、赤い石畳の先には色も鮮やかな車両がホームに待ち受けていた。
まるでおもちゃ箱のような小さな車両であるが、あか抜けしたスタイルの制服で固めた女性の車掌さんが、にこやかな笑顔で車内へ誘導していた。
駅に電車待ちで並ぶ、乗客も、其処は三ノ輪橋とは全く違う、山の手の何となく気取った雰囲気の街であり、文化であった。
「えっつ、何で下町から、一気に山の手へ」
全く思いつきではなく吉田松陰が処刑され埋葬された回向院、それから数年後幕府の力が落ちた頃、高杉晋作らが毛利別邸である、松陰神社へ遺体を運びさってしまった。そのドラマを見たかったが、一方ではこの二つの路面電車にたまたま結びついたのである。
路面電車に誘われて

身柄拘束に「さすまた」

2005-03-14 18:18:00 | 歴史に向き合う

これが「さすまた」と言う武具である。
朝日新聞「天声人語」で"さすまた"は罪人を捕まえる道具で、こんな物が学校の備品で脚光を浴びる様になった。
広辞苑から「"さすまた"とは江戸時代に、突棒・袖搦(そでがらみ)と共に狼藉者を召し捕るに用いた三道具の一つ。木製の長柄の先端に鋭い月形の金具を付けた武器。喉首にかけて犯罪人を取り押さえるのに用いた。」とある。
鬼平犯科帳では長谷川平蔵率いる捕手が悪党一味を追い詰める場面に出てくるようで、鬼平フアンの部品会社の社長が目をつけ、商品化したようである。身柄拘束で役たつと報じられ、たちまち注文が殺到しているようである。
荒れる学校、安全という神話が崩れ、こんな幕末の古式武具まで常備しなければならないのか、笑えない物騒な世の中である。
幕末時代、韮山の江川太郎左衛門が多摩地区まで代官職を勤めたが、警察機能はほとんど、手に及ばず、名主さんが自主組織を作って、自ら身を守らざるを得なかった。農民層でも武道である天然理心流が流行ったのも、そんな理由からである。警官を呼んで「さすまた講習」を開く学校、何か似ているいや~な時代である。



名を残す「こつ通り」

2005-03-08 21:22:00 | 歴史に向き合う

千住は、江戸時代の日光、奥州街道の出入り口として存在した宿の一つである。この要路が今でも写真の様な「こつ通り」と言う名前が使われている。「こつ」とは人間の骨である。奥州へ出入りする一番目立つところに、断罪人を戒めのため梟首、磔(はりつけ)、獄門などしたところである。埋葬された数は実に20万人ともいわれているが、埋葬とはいえ、土を僅かに掘って実は取り捨野犬に食い荒らされたのが実態のようである。周辺の地面を掘り起こすと、「こつ」が大量に出てきて、由来「こつ通り」というリアルな名前が残されている。
近くの三ノ輪橋から日光街道沿いに円通寺と言う寺があり彰義隊のお墓を見ていた時に、歴史を追う方に、是非見てきたらと言われたのが回向院であったが、その道すがら、お稲荷さんに「こつ通り」と言う表記のの看板に遭遇した。回向院には吉田松陰始め、桜田門事件や坂下門事件で、攘夷で決起した水戸藩の若き志士たちの墓が所狭しと並んでいる。まさに幕末を揺れ動かした歴史事件が凝縮されている「こつ通り」であった。


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