春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

横浜、関東大震災の遺構

2017-04-26 22:21:00 | イベント
みなと横浜、開港に纏わる歴史、文化、懐の深い場所である。
鉄っちゃんモードで汽車道、臨港線跡を歩いたが、鉄道以外に、関東大震災の遺構に驚いた。
震災で、当時のものを消してしまい、新たに建てるなら、何処でも見受けられるが震災の姿をそのまま残していることに、当時の生生しい姿が、改めて震災の恐ろしさを訴えている。
そんな遺構が街中に、残されていることも新たな出会いであった。
震災の生生しい姿の出会いは以下の地図表記の★印の旧税関事務所遺構と開通合名会社遺構である。

関東大震災と言えば東京都が被害の中心だったように思われがちだが、実際の震災の被害は神奈川が大きかった。
震源地のは神奈川県が中心となっており、震度7の激震地区も広範に渡っている。
津波被害は東京が無かったが、神奈川県では津波によって200~300人が亡くなっている。
全壊した住家は東京が1万2000棟であるのに対し、横浜市は1万6000棟である。
人口が約5分の1であるというのに、全壊した住家は横浜のほうが多いのだ。
それだけ揺れがひどかったわけである。
海に面して走るバンド(海岸通り)に並んでいた洋風のホテルや建物などもすべて倒壊している。

◇旧税関事務所遺構
<当時の姿>

大正3年(1914)に建設された税関の事務所遺構である。
レンガ造りスレートふき、3階建てのゴシック洋式の建物であったが、関東大震災により床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋めもどされて荷さばき用地になっていた。
竣工時1階には「ガラス張り天井」のホールと受付カウンター、2・3階には事務所や応接室外航路や荷役のための貸し事務所があった。ガス暖房や電気照明も完備されていた。
<現在の残されている姿>
<その1>

<その2>

掘りおこされむき出した地面に所々レンガが積まれ残されている。一段と高い壁状になっている部分は明らかに建物の一部である。果たして、税関事務所の何処に相当するのであろうか
あの御殿の様な建物にどう、繋がるのか妄想が膨らむ。

◇開通合名会社(日本人商社)のレンガ遺構(横浜市中区所在)
<当時の社屋>

明治時代に建てられた 開通合名会社の社屋の一部。
開通合名会社は横浜港から陸上される貨物の通関・発送取扱を明治10年(1877)「開通社」で創立、明治24年(1891)「開通合名会社」に改名する
当時にあった社屋はレンガと石を組み合わせた外壁を有し、屋根は瓦葺きで、建物は「うだつ」(防火壁)を備えていた。
<現在、街の一角に残されている姿>

大正12年(1923)9月に起きた関東大震災で大部分が倒壊、その一部が奇跡的に残っていた
平成26年(2014)建物解体時に発掘された遺構は所有者の意向で横浜関内地域の日本人商社建築の記録と関東大震災の記憶を現在に伝える貴重な歴史遺産として、現地に残すことになった。
所有者の遺構を後世に伝える、心ゆきが感じられる。
明治期の日本人商館の煉瓦建築が関東大震災による被災された状況をそのままとどめている震災遺構モニュメントとし、現地にて構造補強材(H形鋼等)による耐震補強工事及びグラウト材注入による煉瓦壁の煉瓦の補強工事を行った。
解体及び補修工事を行いながらの現地調査に加え、文献調査及び地下埋設遺構の発掘調査を行い、元建物の素性を明らかにした。
古写真や説明案内板を現地に展示し、関東大震災以前の横浜の西洋建築の特徴が見られる貴重な遺構として見学者に分かりやすい歴史的遺構であった。
ビル街の一角で、建物のレンガ造りの壁だけが、スコンと建っている姿が異様な感じがするが、それだけに、遺構の訴えるものは大きい。

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