春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

戦後に起きた八高線事故

2013-10-14 20:34:00 | 事件だ~!!
大きなうねりを伴い奥多摩を源流とし、東京、神奈川を縦断し、東京湾に注がれる多摩川を一跨ぎで対岸の拝島側に渡る。
この多摩川橋梁で八高線始まって以来の大きな事故がで発生した。犠牲者の霊を悼む展示物が当時の惨状を伝えている。

■車窓からの多摩川

左側に「多摩川」の看板、小宮を出た八高線は多摩川を渡ろうと多摩川に差しかかる。
専用軌道は土手の上を走り、橋をイメージする工作物がないため、運転席からいま正に橋を渡ろうとする実感が沸かない。右手に転落注意の警告表示にいよいよ橋にかかる。

橋上に出る。

右側に保線用の通路と橋の縁に腰の高さ程に手すりがある柵が、作業員の落下を防いでいる。
廻りに遮るものはなにもなく、橋上ではもろに風を受ける。僅かな保線路の近くに車両の通過は風圧がかかるが、通過する間、欄干で退避する

その通過車両を川面から見上げると、かなり高い位置に走っていることが判る。


■橋上で悲惨な事故

昭和20年(1945)8月24日 八高線(単線運転)は上下線共、蒸気機関車で牽引された5両編成の客車は多摩川鉄橋上に差しかかる。同鉄橋上の第7,8橋脚付近で正面衝突する。機関車と機関車は重なりあう形で制止する。
上下列車の先頭車両である1両目の車体は粉砕され、河中に落下し、後続の二両目が馬乗りの形で乗り上げる。
確認された死者は104人であるが、多摩川に落ち、遠く東京湾へ流された行方不明者が20数人以上居たと言われている。

◇何故、事故が生れたか
事故当日は台風により八王子ー小宮ー拝島に繋がる電話線が切れ、通信が途絶し孤立してしまう。併せて通票閉塞器が使えなかった。人の判断で、列車運転の「所定の順序」を伝え運行使用としたが、機関車の不具合から途中で変更となった。
その変更意図が片側に伝わらず、両車両が正面衝突する最悪の事態に発生してしまう。

◇後世に伝える車輪

鉄橋付近から発見された事故車両の2対の車軸は当時の事故を物語る記念品として、鉄橋付近にモニュメントとして展示された。
2004年、事故後約60年経過しようやく常設展示され、此処で起きた大惨事を語り継げる生き証人として、その役割を担っている。
橋脚下には台風で濁流が渦巻き、専用の歩道や、手すりもなく、激しい烈風の中、連絡役の鉄道員は身をかがめて四つん這いになって、枕木を頼りに一歩一歩捕まり、拝島側に 向かった。拝島駅で大役を終え、ほっとしながら再びこの橋を今度は機関車に乗って小宮側へ戻ってきたが、事故に会い殉職してしまった一人であった。

台風、装備品の故障、電話の不通、連絡指示が的確に繋がらなかったヒューマンエラーが、重なり大きな事故になってしまった。昨今、西では過速で曲がり切れず、北では整備不良で何れも脱線事故。何れもヒューマンが絡んでいる。

事故の様子はこんな形で伝えている。
八高線列車 衝突事故

八高線ミニミニ旅

2013-10-06 15:00:00 | 多摩の四季
八王子の市街地から北に向かう八高線。
その路線を八王子市内を限定に、これまで撮った画像を集積し、ほぼ同じ個所を"路線の姿"と"運転席から見える姿"を対比しながら、追ってみる。
撮り始めてからの時間経過を物語り、その姿も大きく変ってしまったところもある。
①深い谷底を一っ飛び
工業団地を路面より遥か低い位置にある、深い掘割をはいつくばって走るため運転席からは、土盛りされた傾斜面だけの暗闇の世界をひたすら走る。
真っ直ぐ伸びる軌道にゆったりとした勾配で地上に向かう。




②エレベータ試験タワー
軌道は漸く地上面に出た途端、路線脇に航空障害赤白のビックタワーがのきっと姿を表す。廻りに立つ構造物を遥かに越え、一際高いタワーにそびえ立っている。
今をときめくスカイツリーは、観光の名所さえなっているが、それより遥か前に立つ多摩版ツリーは余り、話題にすらならない。
東側に位置する日野の高台から、霊峰富士の姿は一二を争うビュウーポイントであるが無粋なマンダラ模様が視界の中に入り、邪魔にしにくるのである。




③のどかな農園風景
軌道は中央高速を潜り抜けると一面、広々としたのどかな耕作地に出る。その耕作地を軌道が分断しているため、小さな踏切が繋ぎ役を果たしているが、其処を渡るのはせいぜい耕作用の車両だけで、殆ど人影さえ見られない静寂な場所である。
この踏切を渡ると栗林・梅林が続き、先は中央高速道の路肩に突き当たり、僅かに残された自然路も其処までで途絶える。
鉄路は小宮側に向かうと多摩川に合流する谷地川をまたぐ。
高低の変化のある土地と昔ながらの曲がりくねった狭い道はこの土地の開発を遅らせ、車の進入を防ぎ、豊かな自然がそのまま残されている。
そんな風情は僅かに踏切を確かめられたが、あっと言う間に通り過ぎてしまった。




④八王子を出て2番目の小宮駅に到着
ゆっくりカーブを描きながら構内に入線する
駅周辺は住宅地も増え、都心に通う、通勤圏に変わってしまい駅舎や周辺も都市化の波にその様子も変わってしまった。
秩父のセメント出荷に合わせ、秩父鉄道から寄居経由で当駅までセメント輸送が行われ当駅が重要な物流拠点であった。駅に隣接して秩父セメント(現・太平洋セメント)のセメント包装所があり、施設への専用線もあったが、貨物列車の運用がなくなり、その姿もなくなってしまった




"湘南ビール"

2013-10-01 13:46:00 | 旅先にて
"湘南ビール"
名前だけで潮風に、サザンの乗りの良い響きが漂いそうなそんなイメージが生れてくる。
その湘南ビールが雰囲気のある蔵元で、洋風の食事とも併せ、幾種類のビールを楽しめる。
東京の西の外れ、旧南多摩郡から遥かな湘南へ、横浜線八王子から橋本で茅ヶ崎線に乗換、終着茅ヶ崎に近い香川駅の近くにある。
周辺の馴染みと言えば寒川神社であるが、それ以外は浮かばない、遠い世界である。

雰囲気を求めて、遥かな道のりに、時間をかけて其処だけ、行くにはちょっと遠い。たまたま鎌倉に行き、江の電に乗って、湘南海岸の風情を味わい、藤沢、茅ヶ崎廻りで帰った時に、途中下車し、寄ったのが湘南ビールであった。
<瀟洒な屋外テラス>

蔵元だけに、行く前はフォークリフトが行き交う殺風景な工場の片隅に、工場見学のついでに試飲させるイメージであったが、全然違っていた。
元より工場と同居しているが、違和感なく、広い敷地は小道で結ばれ洒落たビアガーデンであった。
庭先は屋外で更に、元蔵の建物は洒落たレストラン風に改装され、建物内部は床、階段、テーブルなど目に付く所は木製で柔らかい雰囲気の舞台で作り上げられていた。
廻りはお店もない、地方の一画だが、口コミで伝わったのか、入り口では席を取るまで、行列が出来る程、人気の高さに目を見張った。

<元、蔵も改築され洒落た、レストランに>


同店の売りはこんな言葉が、躍っている。
「熊澤酒造は明治5年に創業して以来、湘南の風土が生み出す、手作りの少量生産による良質な酒と湘南ビール始めを蔵元から造り続けている。
地元茅ヶ崎産「岡本豚」を使用した自家製のソーセージやベーコン。」

<巨大な釜で、チョロ、チョロ火が覗く。直火で、ピザなどを焼く>


育種のビールを飲み比べ、拘りの料理を腹に納め、一時の贅沢を楽しんだ。
ほろ酔い気分で、茅ヶ崎線の車両に揺られ、映り行く車窓をぼんやり眺め、ゆったりとした気分で帰還した。
飲み助にはたまらない、湘南ビールであった。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/