春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

「勝沼の歴史」ぶらり旅

2016-06-22 15:46:00 | 旅先にて

勝沼はブドウで有名であるが、一方では歴史史跡、鉄道遺構など、同地に残された遺産それぞれ楽しめる。
JR中央本線で始発の高尾から乗って、約1時間。電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域入る。甲府 盆地に入り、大日陰トンネルを抜けて勝沼ブドウ卿駅に到着する。

■◇大日陰トンネル
大日陰トンネルは既に役割を果たし現役を退いた先代と、先代からバトンタッチした現役の2代目が並行して走って いる。
先代の旧大日陰トンネルは開通から95年目にして、それに置き換わる新大日陰トンネルが開通した。お役目御免となった大日 影第2トンネルは経済産業省の近代化産業遺産に認定され、10年後の平成9年に遊歩道となってよみがえった。
全長1367.8mあるが、走っている列車は1分もかからない内に通過するが、専用軌道を歩くと30分もかかる。暗いトンネル内を出口側の僅かな開口部の小さな光を目指して、歩く非日常の空間に冒険心が揺すられる。行けども行けども、暗中模索、閉ざされた空間に改めてその長さが体感できる。

◇「ほうとう」から始まる

都心と甲府を結ぶ大事な流通経路の甲州路にある笹子トンネルがあり、このトンネル挟んで東を「郡内」、西を「国中」とも言われている。
「国中」と「郡内」には生活習慣を持つが「ほうとう」は「国中」で生まれ、育った代表的な食べ物である。
「ほうとう」とは、うどんのような麺を平らに伸ばし、野菜などの食材と一緒に味噌仕立ての汁で煮込んだ郷土料理である。
武田信玄の領国である甲斐は山間部から、水田が少なく、大豆や小麦、そばなどの粉食を中心とした食文化が中心であった。
戦国武将・武田信玄は甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗のもと次々と周辺諸国を従属させ、地域一帯を支配した。
周辺を駆け回る部隊は米におかずを揃えるより、手軽に調理できる「ほうとう」は機動性が発揮される、理にかなう陣中食であった。
現代でも、「ほうとう」は戦国屈指の名将、信玄と、風土が生んだ郷土食に対する、深い思いと、人々の誇りとなって生き続けているのである。
「慶千庵」は自家製味噌を使った「ほうとう」を看板にした食事所である。
勝沼町勝沼に屋敷をそのまま利用し、中庭に面した和室で、目の前の風情を楽しみながらくつろぎ食事が出来る。
「ほうとう」は「国中」の代表的な食べ物である。此処はじっくり煮込み、味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄の濃い味に拘りを持って心酔した。

■◇勝沼の歴史を確かめる。
甲州街道は江戸日本橋から信州下諏訪まで53里(約220㎞)の道のりである。街道に関わる高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代の大名行列を基本に甲府城に詰める武士の「甲府勤番」や、富士信仰や身延信仰、善光寺詣、幕府御用達の宇治茶を江戸に届けるお茶壺道中など、人の移動で賑わった。
勝沼宿は宿並は東西12町(約1.3㎞)と長く、甲府盆地の東端の宿として、問屋場も用意され、物資の集積場として栄え、本陣と複数の脇本陣が構え繁栄を極めた。
天保14年(1843)勝沼宿は192軒の家と本陣、脇本陣、問屋場、23軒の旅籠もあった。しかし本陣 初め、当時の建物は殆ど無くなり、ブドウ農家に変容されてしまった。

1) 旧田中銀行

明治30年代、勝沼郵便電信局舎として建設する。 明治35年田中銀行になり銀行社屋として改修される。 屋根は切妻瓦葺、入母屋屋根も和風を基調にベランダ、窓の外装部は洋風と和洋折衷の建物である。
明治後期から大正時代の「国土の歴史的景観に寄与している洋風建築もの」として国の登 録有形文化財となっ ている。
大正2年(1913)山梨県で開催された機動演習に参列した北白川宮成久王の宿舎として、 使われ、その後も数回 宮家の宿舎や休憩所として田中家は利用されていた。
用度品、家具がそっくりそのまま残されており、上品でモダンな佇まいは、北白川宮が利用された風格がたっぷり感じ られる。時代を伝え、街道筋で唯一残された建物としての価値があるのでは思えてくる。
2)本陣、脇本陣跡
旧勝沼宿の中心は参勤交代で大名が休憩した本陣、脇本陣跡の周辺である。既に建物は無くなったが、古い建物が残され往時の宿の佇まいが確かめられる。
街道沿いに残されるのは本陣に大名、公家が宿泊し、『此処にお泊まり』と所在を示す槍かけの松が往時の姿を留めている
戊辰戦役が始まる前にここの書院で甲陽鎮撫隊としての近藤勇と柏尾山大善寺住職と面談から大善寺を戦場の草刈り場にならないよう、懇願され、勇は誓ったと言われている。歴史的な薬師堂も行基菩薩作の薬師如来も傷つかず護られ特別保護建造物となっている。
3)大善寺
養老2年(718年)に僧・行基によって開創されたと伝わる。日本のぶどう発祥伝説があり、本尊の薬師如来座像は日本で唯一、ぶどうを持った薬師如来があり、ぶどうに関わり深いお寺である。脇侍の日光菩薩立像と月光菩薩立像、十二神将が国の重要文化財、薬師堂は国宝に指定されている。
4)鳥居平の野焼き

勝沼宿から尚、甲州街道東下すると、正面の山が目の前に迫り、山肌に広くくり抜いた鳥居の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
柏尾山の「鳥居平」では鎌倉時代からブドウ害虫駆除に鳥居型の山焼きが10月の第1土曜日に鳥居焼が行われる。
京の大文字焼きと同じ、盂蘭盆(うらぼん)の最終日に祖先の鐘楼(しょうろう)を送る「送り火」の意味も持ち、柏尾山の山頂の鳥居平は伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が見える。こうしてお寺も山も総てブドウ様を護っているのである。
5)柏尾橋
国道20号を東下し、大善寺を過ぎて、深澤川を跨ぎ柏尾橋の橋上に出る。
国中と江戸を結ぶ甲州街道の、越えなければ ならない交通の要所であった。この橋を巡って、戦国時代も幕末も迎える敵を前に陣を張り、戦う好適な場所であった のである。幕府軍は此方に陣を敷き、柏尾橋を挟んで対岸の新政府軍と戦う。
深澤入口から県道217号線に入り、振り返って見る。先の方に見えるのが柏尾橋で、県道直下にあるのが欄干部分を残す旧橋跡である。大正橋、明治橋、江戸橋と時代毎に柏尾橋が掛け替えられている。
6)祇園淵

戊辰役で目の前の滝を前に幕兵は捕縛され、助からぬ命、ならば思い切って滝壺へ、身を投じてしまえと、正に「輪廻転生」の世界へ。
祇園淵は日向平の甲州街道に沿う日川の一角にある。追手から、追いつめられた幕軍敗走兵の厳しい姿を思い浮かべ祇園淵の見事な飛瀑に息を飲んだ。日川挟んで岩崎山も戦場であったが、山中に墓碑もある。この山の向こう側に未来を結ぶ、リニアーが走る。
詳細はこちらで紹介してます。
「勝沼の歴史」ぶらり旅

ぶどう棚で三拝九拝

2016-06-19 16:19:00 | 晴耕雨読
重みでうなだれるものも。一面のブドウ様の軒下で、英気を
もっらちゃえ!!

こんな粒揃いが、多数乱舞にニンマリ

早いもので早6月になってしまった。
先月、ブドウの開花時期を見計らって、植物の生長を促す効果狙いで
ジベレリン処理をやった。
未だ成育前の小さな房をビンに入れた薬液の中に一つ一つ浸していく。
総ての房が 棚の下側にあれば良いが、棚から上にある物は行く手を
塞ぐ障害物があり、持つビンが傾き薬液が零れたり、中々意のままに
ならず、房の全部を処理するのは根気の入る作業である。


前回、書いたが、枝の成育過程で天衣無縫に伸びていくが、強制的に
枝を補導(誘引)させ、成育の環境を整え、棚から下向き、均等な空間に
房を育てさせる。
総てが、柔軟に言うこと聞いてくれれば良いが、中には抵抗するものも
おり、無理きり曲げたら、ポキンと折ってしまい、その枝に付いてる
房を成仏してしまう。
こうして、重い仕事を終えれば、後はそのまま成育を見届ける。
葉っぱも今のところ、余り虫に食われず、此の時期、薬剤の散布は
控えた。

見る見る、房がおおきくなり、逞しく育つ。
通年の記憶では、房の単位で、粒が密生し育ちの良い房はせいぜい
2、3であるが、今年は明らかに、もっと多い。
朝、晩、定例のように棚下で三拝九拝、
日に日に逞しく育つ姿を見る、今が一番楽しみである

近隣のプロの農園では雨露からの病気回避のため、あちこちで白い笠が
架けられ、一斉に雨傘をさす風情になっている。
元より、雨傘をかける、積もりはないが、袋かけをしてしまうと
その姿が見えなくなってしまう。
何時袋をかけをやるか迷っている。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/