春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

北海道の過酷な道路建設

2008-10-03 06:09:00 | 歴史に向き合う

現在走っている所は国道39号線、石北峠から網走に向う北見近辺である。
現在は立派に舗装されているが当時は大変な密林であった。
札幌と網走を結ぶ「北海道中央道路」の掘削工事は大雪山を堺に旭川側を樺戸、空知修治館、北見側の釧路修治館がが請負、明治24年12月に完工する。
工事は15m幅に樹木を伐り払いそこに5mの道路をつけるもので、北見側の約160㎞には罪囚約1200人を投入、他に大工、現地の人を傭用し、夜をも使い突貫工事が行われた。

罪囚には連鎖や鉄丸が装着されたがそれでも1日1人の逃亡者があったと言われ、見つかった逃亡者の処刑や病気で工事終了後、北見側だけで186名の死者を出した。
山の中を自分達が道を切り開きながら網走の囚人は一度釧路に送られてくる。正面の人形は2人1組みで鎖に繋がれ、逃亡を防いでいる。
明治時代であるから熊や狼の出没が多く寒さに絶え忍びながら目的地を目指し仕事がきついために看守の目を盗んで逃走した者もいたが、逃走仕切れた者は殆ど居なく、見つかってはその場で切り殺されると言われている。病気や殺されたものはその場に埋めて道路工事を続け、逃亡者には見せしめとして囚人を埋めた穴の上に木を立て、鎖をまいた。死んでからも鎖から逃げきれないとした死後の世界も厳しかった。
戦後になって地元の人達が沿道を調査し多数の遺体が発見されたが、遺体を上がった所に鎖が発見され"鎖" と言って供養している。
最初は3年かかると言われた道路工事を半年で終わっており如何に過酷なものであった。
立派な幹線路もこうした過酷な歴史から生まれていることを学んだ。
能取湖、網走監獄北の旅でようやく纏めた

時代を走った「ラジオ塔」

2007-11-24 15:54:00 | 歴史に向き合う

横浜野毛山で鬱蒼とした樹木に囲まれ、ぽつんと忘れさられたような存在に、ラジオ塔の表記があった。何故こんな所にラジオ塔か、この得たいの知れない塔に興味をそそられた。
近くの看板には以下の表記があった。
このラジオ塔はラジオの聴取契約者が百万人を越えた記念に日本放送協会が昭和7年全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ、昭和8年度中に41ヶ所が完成しその中に野毛山公園も選ばれ建塔されたもの
正式名「公衆用聴取施設」 全高3メートル
・・・とあった。
ラジオ、TV、パソコン,有り余る情報過多の時代に、見たくもないCM、ネットでは迷惑メールや成り済ましメールなど、いかがわしい情報の氾濫は犯罪の渦にさえもなっている現代に、このラジオ塔はまさに、眩しく目に映った。
このラジオ塔は昭和7年、当時最新鋭のメディアで、屋外から市民のための情報や国民統制のための報道を流していたと言われている。
今では誰でも持てるラジオも当時は高価な宝物。此処に据え置かれた文明の最先端を走るラジオを前に市民が集まり、流される放送に一生懸命に耳を傾け、流される情報をいち早く捉えたのであろう。
この塔に市民が集まり、耳を傾ける姿に、なんとも時代を感じてしまうのである。
ラジオ塔でラジオ体操や日米開戦ニュースなどを、戦時中の庶民の生活の跡を雄弁に伝える語り部として、貴重な歴史遺産である。
こんな所に隠れるように置かれた、得たいの知れない塔に、スローなテンポの時代が何故か安らぎさえ覚える。
全国に41ヶ所あったようであるが、宝物と出会った気分であった。

こよなく愛した「フィルムカメラ」

2007-11-17 20:43:00 | 歴史に向き合う

本体の所々に錆びと、浮き上がる緑青。触ればパラパラはがれるカメラケース。
かっては輝いていたOlinpas COPAL-Xも見る影もなくなり、押し入れの済に置いといていたら山の神の目に止まりこんな物はただの鉄の塊と、ゴミ出しに促された。
元より、デジカメの世代に既にデジカメ2代目が活躍している昨今、再びOlinpas COPAL-Xが再登場するきっかけは殆どない。
しかし「ああいいよ」と簡単に廃棄物の運命にしたくないのである。
我が1/4の半世紀余りを、分身として生きた証をこのカメラが貴重な記録を残してくれた。
小型軽量、バカチョン式は取り損ねが少ないカメラとして一世を風靡し、己のような怒素人でも、専門家しか扱えないカメラの世界から、身近なものに近づけてくれた。
その歴史は独身時代から持ち続け、出張から観光旅行まで、色々な出会いをこのカメラで納めた。
長いカメラとの付き合いに色々歴史の思い出を作ったが、半年の韓国赴任中、日中マイナス20度近い極寒の世界で機械のメカが凍りつき、シャッターが押せなかったことなど、未だに記憶が残される。
高機能、高性能のカメラが出回る世界に、良く壊れ、動かなくなることが多くなったが、高額な修理代にカメラも使い捨ての時代になったが、このバカチョンは丈夫で長持ちで殆ど壊れなかった名器であったと思える。
そんな付き合いから、離しがたい存在になってしまったのである。
触ればほこりやさびが手につくようなカメラを取り出し、フイルムレバーをまわし、シャッターを押すと、しっかり瞬き、「バシャ」と言う乾いた音が鳴り響き、「未だ生息しているよ」と存在感を示していた。

豪華絢爛の西洋文明「旧岩崎邸」

2006-05-24 20:11:00 | 歴史に向き合う

明治29年(1896)に完成した三菱創設者・ 岩崎家本邸
幕末から明治期の未だ日本が近代文明に門を開くころの上層階級の西洋式木造建築物既に110年を経過するのに、その豪華絢爛する姿を今尚、残しているのが凄い。
玄関から靴を脱ぎ、上がっていくと、鹿鳴館時代の文化をそのまま彷彿されるホールは要人を迎えるに相応しい吹き抜けと、豪華な彫刻で加工された柱、階段の手すり、壁が見事に装填されている。
年に1回の岩崎家の集まりや外国人の賓客を招いてのパーテイ等に利用された言うが、その雰囲気がそのまま残され、びしっと正装で身を包んだ紳士と艶やかなドレスまとう淑女の姿が階上の階段からふっと現れる様な雰囲気が残される。
そっくりそのまま、洋画ドラマの名シーンを生み出す様な絵になる場所である。
その持ち主であった岩崎弥太郎は土佐藩の行っていた海運事業を引き継ぎ、明治7年(1847)三菱を名乗り、今日の三菱グループの基礎を築いていった。
明治維新以降、日本の近代化と共に財をなした三菱もそのルーツは土佐藩であったが土佐藩と言えば直ぐ浮かぶのが坂本竜馬、海に向けた強い眼差しがそのまま、土佐の風土として引き継がれて居るのではなかろうか。
ともかく海運業で財をなし、三菱の地位を固め、広い分野に進出していった。
その勝利者としての証がこの贅を尽くした建物と広大な庭にあるのではと思われる。
戦後、GHQに接収され返還後、最高裁判所司法研修所などに使用され、現在は重要文化財として東京都の管理にある。
この洋館と併せ隣の和館もともかく、その豪華絢爛な作りと、明治の文化がそっくりそのまま残している。
この建物に隣接する、三菱資料館は余り知られる事もなく、訪れる人も少ない。
時間かけて、じっくり三菱発祥の生い立ちも見ることができる。

壮大な府中名主「内藤家敷」

2006-03-25 08:44:00 | 歴史に向き合う

寒さと温かさと交互にやってくる春の陽気の中、今年始めての会の旅巡りが行われた。
甲州街道筋には激しく車が行き交う交通要路の隣り合わせに幕末当時のお屋敷姿など貴重な文化遺産がそのまま残されている。
そんな街道筋に散在する歴史史跡を楽しく廻ろうと、ご覧のようなバスに満載で、老若男女32名の団体の混じって多摩の甲州路を走り巡った。
写真はその中の代表的な一つ旧甲州街道に面する内藤家の冠木門である。門柱は欅の1尺5寸、重厚な門構えである。
噂には聞いていたが、激しく車が往来する旧道に毅然と建つ門構えの姿に思わず感動する。
此れ程立派な門をしっかりした形で保存された姿は他に見た事もない。
内藤家は府中でも有名な江戸時代からの名主である。
数代前(200年以上前でしょうか)に蔵に火をつけた男がいて、古文書類は全て焼けてしまい、何も残っていないとのこと。
敷地面積がなんと約三千坪もあり、建て坪、約二百坪弱の現在の家屋は、約八年の歳月を要して建てられたとのことかつては庭に大きな池があったそうで、そこを船で遊覧した言うから、信じられない程の規模の大きさに驚かされる。
舟に使われた櫂が玄関横に吊るされてあることが、その当時の面影を僅かに物語っている。
そばにある大きな釜は、昔、醤油を作らせていたものだそうで、その敷地の中で生活の総てが賄える、営みが行われていたのだろうか、単に規模の大きさだけではなかったようだ。
しかし、現代までこれだけの敷地と屋敷を守っていくには、一体どれほどの費用がかかるのか、考えるだけ気の遠くなる、現代の奇跡で思わずため息がでる。
矢保天満宮の向かい側の本田家も医者、書画、漢学者と続いた名主さんで、その家は350年も前に建てられたものである。裏側から敷地に入ったが、その果てし無く続く、外壁伝いに驚愕した。
調布を起点に、神社仏閣やこうした旧家まで見学し、最後はサントリービールの工場で丹沢山系の原水としたビールに喉を潤し旅の最後を締めくくった。


ようこそ松崎家の世界へ

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