goo blog サービス終了のお知らせ 

春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

露天風呂のカピパラに癒し

2017-03-06 14:26:00 | 旅先にて
伊豆半島、東伊豆の伊東は、大室山など伊豆高原や海側には城ヶ崎海岸など見どころ一杯の場所である。大室山の麓、目の前がおわんのような山容が大室山が控えその麓に伊豆シャボテン動物公園」があり、孫娘たちと一緒に行って来た。

快晴で風もなく穏やかな日和、麓から山頂目指すリフトが走り、空中高く、炯眼を眺めながら山頂の世界に運んでくれる。時折パラグライダーが思い切り羽を広げ、蝶のように舞い降りる姿が、視界の中に入ってくる。

その園ではサボテンや120種の動物が触れ合いの場所として小さい子供達から大人まで人気をはくしている。特に冬季間に「元祖カピバラの露天風呂」を開催され、ほんわかしたカピバラが、人招きを果たしているようである。
カピバラの風呂は他でもやっており、当園が敢えて「元祖」と命名される拘りは野生のカピバラに、風呂を用意して人並みに、優雅に浸る姿を造り出したのであろうか・・・。
じいさまが温泉に浸かり、その姿を眺めても、特にわくことはないが、人間に置き替わりカピバラ様が群れをなし、湯に浸かる、姿が滑稽で笑ってしまう。

◇早速、温泉場へ

カピパラはでっかい鼻と細い眼、丸々と太った体にはごわごわした毛が覆う、巨大なネズミであった。
石壁に囲まれた中には、岩が置き並べれた一角には、多数のカピパラがそれぞれ、自由に歩き回る世界は他の動物園と同じで、特に変わったことがない。思わずこれが浴場かと思うほど、普通の動物園姿であった。

◇ひたすら待ち続ける
それが、ある時、散在していたカピパラが凹みのある一角に、示し合わせたように、集まってきた。
闘争心むき出しで、人間の様な場所取り合戦もなく、予め棲み分けが出来ているのか、体を寄せ合いカピパラがそれぞれの位置で、ほぼ同じ向きに向いて、じーっと待機する姿は儀式のようである。

一方では広い空間であるが、餌に吊られれて集まる訳ではなく、一斉にポジション決めする姿は何が始まるやらその姿は異様にさえ見えてくる。
やがて、何処からか、温水のコックが飼育員に開けられたのか、凹に伝わって湯水がじわーと、流れて、足元に及んで来るが、カピパラは全く反応せず、不動の体勢である。


◇心地よい夢想の世界
先程まで見えていた路面部分が、ゆったりと温水に浸され、たちまち水面に満たされる。見る見る水位が上がり、やがてカピパラの足首が隠れ、腹部にまで浸されるが、相変わらずカピパラは体一つ動かさず、ひたすら待ちの体勢を続ける。
やがて、満水になり、カピパラは体の大半を温水中に没し、湯に浸かる体勢になる。湯水には柚子が投げ込まれ周辺を浮遊するが、我関せずとばかり、衆目の前で夢想の世界に入っている。温水に心地よいのか、細い眼が更に細くる姿が、微笑ましく見入ってしまう。


何か仕込んだ芸をするわけでも無く、ごく自然に湯水に浸かるだけのことである。
殺伐とした争いごとも無く、ある種秩序を保ち、一見して平和な世界、正に失ったものを見るようでほんわかした姿が余計に癒される。


「勝沼の歴史」ぶらり旅

2016-06-22 15:46:00 | 旅先にて

勝沼はブドウで有名であるが、一方では歴史史跡、鉄道遺構など、同地に残された遺産それぞれ楽しめる。
JR中央本線で始発の高尾から乗って、約1時間。電車は山間部の中へ、進み、笹子トンネルを抜け、甲府盆地一帯の所謂「国中」と言われる地域入る。甲府 盆地に入り、大日陰トンネルを抜けて勝沼ブドウ卿駅に到着する。

■◇大日陰トンネル
大日陰トンネルは既に役割を果たし現役を退いた先代と、先代からバトンタッチした現役の2代目が並行して走って いる。
先代の旧大日陰トンネルは開通から95年目にして、それに置き換わる新大日陰トンネルが開通した。お役目御免となった大日 影第2トンネルは経済産業省の近代化産業遺産に認定され、10年後の平成9年に遊歩道となってよみがえった。
全長1367.8mあるが、走っている列車は1分もかからない内に通過するが、専用軌道を歩くと30分もかかる。暗いトンネル内を出口側の僅かな開口部の小さな光を目指して、歩く非日常の空間に冒険心が揺すられる。行けども行けども、暗中模索、閉ざされた空間に改めてその長さが体感できる。

◇「ほうとう」から始まる

都心と甲府を結ぶ大事な流通経路の甲州路にある笹子トンネルがあり、このトンネル挟んで東を「郡内」、西を「国中」とも言われている。
「国中」と「郡内」には生活習慣を持つが「ほうとう」は「国中」で生まれ、育った代表的な食べ物である。
「ほうとう」とは、うどんのような麺を平らに伸ばし、野菜などの食材と一緒に味噌仕立ての汁で煮込んだ郷土料理である。
武田信玄の領国である甲斐は山間部から、水田が少なく、大豆や小麦、そばなどの粉食を中心とした食文化が中心であった。
戦国武将・武田信玄は甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗のもと次々と周辺諸国を従属させ、地域一帯を支配した。
周辺を駆け回る部隊は米におかずを揃えるより、手軽に調理できる「ほうとう」は機動性が発揮される、理にかなう陣中食であった。
現代でも、「ほうとう」は戦国屈指の名将、信玄と、風土が生んだ郷土食に対する、深い思いと、人々の誇りとなって生き続けているのである。
「慶千庵」は自家製味噌を使った「ほうとう」を看板にした食事所である。
勝沼町勝沼に屋敷をそのまま利用し、中庭に面した和室で、目の前の風情を楽しみながらくつろぎ食事が出来る。
「ほうとう」は「国中」の代表的な食べ物である。此処はじっくり煮込み、味噌味、野菜満載の「ほうとう」食べ身も心も武田信玄の濃い味に拘りを持って心酔した。

■◇勝沼の歴史を確かめる。
甲州街道は江戸日本橋から信州下諏訪まで53里(約220㎞)の道のりである。街道に関わる高遠藩、高島藩、飯田藩の参勤交代の大名行列を基本に甲府城に詰める武士の「甲府勤番」や、富士信仰や身延信仰、善光寺詣、幕府御用達の宇治茶を江戸に届けるお茶壺道中など、人の移動で賑わった。
勝沼宿は宿並は東西12町(約1.3㎞)と長く、甲府盆地の東端の宿として、問屋場も用意され、物資の集積場として栄え、本陣と複数の脇本陣が構え繁栄を極めた。
天保14年(1843)勝沼宿は192軒の家と本陣、脇本陣、問屋場、23軒の旅籠もあった。しかし本陣 初め、当時の建物は殆ど無くなり、ブドウ農家に変容されてしまった。

1) 旧田中銀行

明治30年代、勝沼郵便電信局舎として建設する。 明治35年田中銀行になり銀行社屋として改修される。 屋根は切妻瓦葺、入母屋屋根も和風を基調にベランダ、窓の外装部は洋風と和洋折衷の建物である。
明治後期から大正時代の「国土の歴史的景観に寄与している洋風建築もの」として国の登 録有形文化財となっ ている。
大正2年(1913)山梨県で開催された機動演習に参列した北白川宮成久王の宿舎として、 使われ、その後も数回 宮家の宿舎や休憩所として田中家は利用されていた。
用度品、家具がそっくりそのまま残されており、上品でモダンな佇まいは、北白川宮が利用された風格がたっぷり感じ られる。時代を伝え、街道筋で唯一残された建物としての価値があるのでは思えてくる。
2)本陣、脇本陣跡
旧勝沼宿の中心は参勤交代で大名が休憩した本陣、脇本陣跡の周辺である。既に建物は無くなったが、古い建物が残され往時の宿の佇まいが確かめられる。
街道沿いに残されるのは本陣に大名、公家が宿泊し、『此処にお泊まり』と所在を示す槍かけの松が往時の姿を留めている
戊辰戦役が始まる前にここの書院で甲陽鎮撫隊としての近藤勇と柏尾山大善寺住職と面談から大善寺を戦場の草刈り場にならないよう、懇願され、勇は誓ったと言われている。歴史的な薬師堂も行基菩薩作の薬師如来も傷つかず護られ特別保護建造物となっている。
3)大善寺
養老2年(718年)に僧・行基によって開創されたと伝わる。日本のぶどう発祥伝説があり、本尊の薬師如来座像は日本で唯一、ぶどうを持った薬師如来があり、ぶどうに関わり深いお寺である。脇侍の日光菩薩立像と月光菩薩立像、十二神将が国の重要文化財、薬師堂は国宝に指定されている。
4)鳥居平の野焼き

勝沼宿から尚、甲州街道東下すると、正面の山が目の前に迫り、山肌に広くくり抜いた鳥居の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
柏尾山の「鳥居平」では鎌倉時代からブドウ害虫駆除に鳥居型の山焼きが10月の第1土曜日に鳥居焼が行われる。
京の大文字焼きと同じ、盂蘭盆(うらぼん)の最終日に祖先の鐘楼(しょうろう)を送る「送り火」の意味も持ち、柏尾山の山頂の鳥居平は伐採され、刈り取られた部分が鳥居の姿が見える。こうしてお寺も山も総てブドウ様を護っているのである。
5)柏尾橋
国道20号を東下し、大善寺を過ぎて、深澤川を跨ぎ柏尾橋の橋上に出る。
国中と江戸を結ぶ甲州街道の、越えなければ ならない交通の要所であった。この橋を巡って、戦国時代も幕末も迎える敵を前に陣を張り、戦う好適な場所であった のである。幕府軍は此方に陣を敷き、柏尾橋を挟んで対岸の新政府軍と戦う。
深澤入口から県道217号線に入り、振り返って見る。先の方に見えるのが柏尾橋で、県道直下にあるのが欄干部分を残す旧橋跡である。大正橋、明治橋、江戸橋と時代毎に柏尾橋が掛け替えられている。
6)祇園淵

戊辰役で目の前の滝を前に幕兵は捕縛され、助からぬ命、ならば思い切って滝壺へ、身を投じてしまえと、正に「輪廻転生」の世界へ。
祇園淵は日向平の甲州街道に沿う日川の一角にある。追手から、追いつめられた幕軍敗走兵の厳しい姿を思い浮かべ祇園淵の見事な飛瀑に息を飲んだ。日川挟んで岩崎山も戦場であったが、山中に墓碑もある。この山の向こう側に未来を結ぶ、リニアーが走る。
詳細はこちらで紹介してます。
「勝沼の歴史」ぶらり旅

甲州古道に招かれて

2016-01-14 10:33:00 | 旅先にて
016年は、あっと言う間に明けてしまった。
旧年の病変の災禍に12月の頭まで、病院で拘禁生活を強いられてしまった。
その呪縛を解かれた、反動から、年末から年始にかけて、行事が重なったが、酒とご馳走の放漫気味の生活に甘え、折角の減量も幻であったことを恐れた。

体のの重さの負い目もあって、歩きにかけ、甲州古道、小原宿行きに駆り立てられた。
JR中央線は高尾止まりであるが、そこから先は地形的にも山岳地帯に入り、乗降客も少なく、電車の本数も少なくなってしまう、風土の違いを感じる。
昨年は眼科の病院が高尾であったことから、嫌がおうでも、此処まで通わざるを得なかったが、多少の余裕も生まれ、高尾越えは一つのチャレンジでもあった。
古道地図を一つのよりどころに、無謀な行き当たりばったりの歩きであった。


乗り合わせたJR中央線が5分以上遅れていたが、スムースな本線乗り換えに、成功、住宅地から一気に山深い自然の懐に吸い込まれ、瞬く間に相模湖駅に到着する。
列車から降車客の姿も僅かに留め、人影のないホームは寂しい閑古鳥状態であった。
時間調整で暫く止まる小淵沢行きを、ホームを駆け抜け、撮り鉄の真似事で、その雄姿をカメラに収める。
ようこそ相模湖への歓迎ムード一色の広い駅前ロータリーではあったが、この寒い時期には列車が到着して間もないにも関わらず客の姿が、極僅かである。
地図で方向だけを見極め、旧甲州道を東に向かい、甲州街道の新道に合流する。

◇相模ダム

進行方向左側は山、右側は欄干越しに、険しい谷に、なっているが、木立の切れ目から、満々と水を蓄えた相模湖のダムが、見える。
ダムゲートの下流側はコンクリートに覆われ、近代的な発電設備の建物、その上が送電設備を通じて、電力が供給される。川をせき止め、水を蓄え、放流させる。粗削りの崖に箱庭のような佇まいは、建設重機が入り、周辺の姿を一変させる壮大なエネルギーを感じさせる。

◇小原宿

甲州道は江戸に向かって、緩やかな勾配と、左右に蛇行しながら、正面に小仏峠を仰ぎ小原宿に入る。左右の家並みは屋号を持つ旅籠であったが、本陣を除き、何処も明治28年の火事で燃えた再建後の姿である。
駅から20分以上歩いたか、人並みは殆ど見えない。目の前の小仏越えは現代はトンネルを、労せず車で抜けられるが、往時は厳しい山越えであった。

◇小原宿本陣

甲州街道沿い、200年の歴史の風格を備えた、県指定重要文化財の小原宿本陣に到着する。
丸に井桁の家紋に飾られた暖簾が門前に飾られている。後北条の家来、清水隼人介で、甲州街道、小原宿が設けてからは代々、問屋と庄屋をかねていたが、既に当地から離れた。
建屋の背面に急斜面の山を抱えて、中央高速が見えるがかってはその広大な敷地を保有し、ていたと伝えられる。
早速、門を潜り、式台が玄関口からで入って「控えの間」「中の間」次いで大名が泊まった「上段の間」など廻り、屋敷の懐の深さをたっぷり味わう。
それぞれの客室築山のある庭が庭に面する開放的な造りで、あるが今の時期、もろに外気が吹き抜け寒い。
建物は江戸時代の後期、18世紀末から19世紀初期の建築と言われ、かなり綻びも見受けられるがよくぞ200年以上の風雪に耐えている。
薄暗い2階は養蚕の所道具が並べられ、今では余り見られない、養蚕の源風景に素朴な風土がたっぷり感じられる。
狭い屋根裏に、足から伝わる床面は全般的に柔らかく沈み、何となく不気味な感じさえした。
こうして、本陣探索は家の内外を一回り、その間他に、入館者も出会えず、やはりこの時期の平日であったが、一人占めしてしまった。

◇食堂で一休み
目の前の食堂に入る。普段なら小仏など登山客で賑わうようであるが、この時期誰も居らず、一人おばさんが来る当てのない客を前に暇を持て余していた。
たなびく旗にジョッキの姿に誘発され、旅の節目で一杯やる。車の運転の負い目もない、列車旅の自由さを甘受する。胃袋の欲するまま、ちょっと過食気味であったが、「その分歩けば何とかなるさ」と、何の咎めもなく目の前に出された料理を完食する。かなりいい加減な古道歩きは重い腰をあげ、店を後にする。

◇一路、西下
勢いのまま、古道マップを頼りに、往路で来た道を折り返す。
瞬く間に、相模湖駅を通過し、古道を主体に西下、行けるところまで行こうと、無計画な歩きが続いた。
古道は併設する直線主体の新道に重なったり、離れたり、紆余曲折し、遠回りに遠慮っぽく走り、車の走行が少ない。山沿いをのどかな自然の中、風化した地蔵さんや碑の発見に沿道の風情やら、遥か眼下の相模湖の眺望を楽しんだ古道歩きであった。
しかし、進むところ新道しか選択の余地の無いところでは、車道と歩道の区分ダンプの爆風を浴び、思わず、身を屈めてしまうこともあり、危険と隣り合わせであることを覚悟しなければならない。
小原宿を出発、与瀬宿、吉野宿を通過、JRの藤野駅までの距離は7、8㎞に及び、日は落ち込み引きずる足に最早、これ以上の歩きの気力は失せていた。
藤野から列車、高尾で乗り継ぎ無事帰宅する。
道中、余り見かけられなかった、山岳族がかなりの数に、恐らく別ルートの山道を降りたのであろう。車中の温かい温もり、棒のような足を含め、クタクタになった体を休め、車中で走馬灯のような今日の軌跡を、追いながら旅は終わった。

横浜ブルーに誘われ

2015-06-03 15:33:00 | 旅先にて
<もみじ坂>

桜木町駅から、都心や埼玉から結ばれ今を時めく港みらいに背を向けて、山側に向かう。
国道16号から離れ、ビルに挟まれたもみじ坂を登り、野毛山に向かう。駅周辺で賑やかであった人並みも、山側はまるで別世界のようである。
容赦無く降り注ぐ、お天道さんも真夏、真っ盛りで、日陰もなく、暑い。
坂を登り切ったところが、右側が県立の図書館、音楽堂や能楽堂など施設が立ちならびその背後が掃部山公園である。

<掃部山公園の井伊直弼像>

井伊直弼の巨象が遥か、横浜港を見下ろしている。
巷では開港祭りで賑わい、夜は花火が打ち上げられ祭りの雰囲気作りに一役を担っている。
開港か、いや反対と国論が沸騰するなか、黒船が深く江戸湾に入り込み、ドカンドカンと威嚇の空袍を背景に開港を迫る。
「おれがやらなきゃ、誰がやる」反対者が多く居る中、半ば強引に通商条約を結んでしまい今日の横浜の開港の道が開けた。
開港の反対者を時の権力で押しつぶし、捕縛、処刑の嵐が吹き荒れた。その反動もあって、江戸城、桜田門で水戸浪士に襲撃され、横死した。
当時横行した外個人殺傷のテロから護るため開港地、横浜は米の収穫もない辺鄙な僻地を選ばれた。
居留地の出入りは関所が設けられ、吉田橋関所では大量な定番役が睨みをきかし、通過には鑑札を必要とされる中での厳しいでの開港であった。

<伊勢佐木町のアーケード>

伊勢佐木町のアーケードとJR館内駅の間の吉田橋があり、往復する人の出入の雑踏の中にある。、
『あなた知ってる 港ヨコハマ
 街の並木に 潮風吹けば
 花散る夜を 惜しむよに
 伊勢佐木あたりに 灯りがともる
 恋と情けの 灯がともる』♪♪・・・♪ 泥臭い風情をこんな唄いまわしで青江三奈が伊勢佐木町を謡っている。
不穏な外国テロも鎮静化され、欧風文化が一気に流れ、周辺の伊勢佐木町も賑わいを見せた。
こんな発展を果たして予想したのであろうか、今日のみなと未来の姿を見ないまま、井伊が静かに港を俯瞰している姿が印象的であった。

掃部山の南側の沿いの高台から下に「よこはま道(現在の戸部通り)」に出る。
野毛の切り通しの壁面沿いによこはま道から坂道を登り野毛公園方面に向かう。
アップダウンの土地柄、如何にも不自然な切り通しが見える。隔離された居留地と神奈川の往復が不便と、居留民が不満を爆発、この間を結ぶために、「よこはま道」が約3カ月の突貫工事で繋いでしまった。

野毛山に出る。ちびさん達親子連れの集団が小高い山の広場で、ママが手塩にかけ作った自慢
の弁当を広げ、青天井の下、ピクニックを楽しんでいる。
近くの展望台に上がってみる。

<展望台の眺望>

目の前を開ける素晴らしい眺望を楽しむ。
マリンタワーが遥か彼方にその姿を確かめることが出来る。観光の要地としてみなとの見える
丘公園や外人墓地中華街が遥か彼方にあり、気合と根性を持っても此処から歩くに途方もない
距離であることを認識する。

野毛から馬車道へ
何処からともなく、地鳴りのような歓声が響きわたり、街中で耳にする。
果てさて何であろう?
横浜球場からであった。毎年、下位で低迷し、お荷物球団であったが、今年のDeNAはちょっと様子が違う。勝てば何よりもカンフルになってお客が自然と増え、横浜ブルーが席を埋め連日満員。怒濤のような3万弱の歓声が潮風にのってみなと未来に駆けめぐる。
歓声を耳に果たして、どんなドラマが生まれたか、歓声の渦が、気になる。

腹が減った、何処に入ろうか?行き当たりばったりで、馬車道のならびに、中国広東料理店に入った。高い天井、広々とした空間、訛りの強い中華系のお姉さんが「いらっしゃいませ」の声に迎えられる。
この暑さに自然と生ビールが、喉を通り、幸せな一瞬に生きている喜びを甘受する。定番のめん類。こってりとした言うに言われぬ独特の味が、自然と食感をそそる。
帰りのレジであの有名な周富徳の「生香園」であることが、置かれた名詞で初めて判った。
周富徳は既に亡くなり、二代目周 富輝が先代の遺志を継いで、賑わいを見せている。
「ああ~これが噂の富徳味か」と看板味に偶然触れることが出来た。

<赤レンガ、美しい近世ルネッサンスの開港記念館>


多摩から横浜へひとっ走り

2015-04-01 09:19:00 | 旅先にて
北野街道を西に下り、平山付近で左折、多摩丘陵を上る
薬価大でトンネルを二つ、三つ潜り、野猿街道を横断する
車の数も多くなる。
国道155線に出て道成に行くと京王線堀之内を左手に
京王相模原線を潜る。
<南多摩尾根幹線>

左手にグリーンウオークの大型店舗の角地で正面の南多摩
尾根幹線に出て左折、幹線沿いを突っ走る。
道は真っ直ぐ片側2車線、緩い緩斜面についついスピード
が出てしまう。
少ない車両、広々とした道に気を抜くと、過速に、厳しい
監視の目が、潜んでいる。気を許せば格好の鴨とばかり、
何時でも襲いかかってくる。
此処は高速に非ず慎重に、慎重にと言い聞かせながら、
抑え気味に走る。

幹線を真っ直ぐ行くと都道503号線に片側1車線になり
下り坂となる。見通しが利き、真冬であれば丹沢の山が
目の前に迫ってくる
<治外法権の米軍施設>

町田街道の小山交差点を通り、更に真っ直ぐ行くと米軍施設
の巨大な敷地に行く手を阻まれる。
立ち入り禁止、違反者は日本法律によって罰せられると和英
併記で警告看板がぶら下がり、何にも使われていないのんび
りした空間に緊張感が漂う。
有刺鉄線の向こう側は未だ占領下なのである。

有刺鉄線の外壁沿いを南下、JR横浜線の踏み切りを越え、JR
相模原駅前に出る
<国道16号線>

さ~て此処から国道16号線に出て左折、横浜方面へ向かう。
多摩地域と横浜・横須賀を繋ぐ物流の主要幹線だけに、
貨物、乗用車が大量に走り、緊張感が更に高まる。

国道沿いに大型店舗立ち並び、そこへ目指して入場待ち
の車の列。その識別が出来ないまま、空いているからと
行って入ると、行列の車列に巻き込まれることも、あり
注意も必要である。
そんな識別も、此れまでの運転から身に付けた。
そんな混んだ道路に、狭い日本何故急ぐではないが、
ちょこちょこと右に左に加速しながら抜けて行く、
無軌道運転も思わず、貰い事故に身を引いてしまう。

<魔の246合流点>

目の前の左右に走る高架路が都心の渋谷に繋がる246号線、
この合流点は何時も大変渋滞する。車両の量によるが通過
に20~30分かかる。
アーチ型の橋桁が16号と246号が結ぶ誘導路であるが、この
完成により、双方の乗り入れがスムースに行われ、渋滞
解消に一役担っている。しかし、万里の長城のような
巨大な工事に中々進み具合が見えない。
目の前の工事現場を前に、止まったり走ったり、トロ
トロ動く車両の渋滞の我慢比べは未だ未だ続きそうである。
<保土ヶ谷バイパス>

魔の246合流点を通過し、ようやっと、渋滞地帯から抜け出し、
保土ヶ谷バイパスに入る。
時速5㎞/Hから一気に70~80㎞/Hの世界に、溜まっていた
ストレスが弾けるように、車の流れが変わり、あの渋滞は
なんだっただろうと思うぐらいのスピードの変化であった。
車の本来の走りに、高速の流れに乗る。、
狩場ICで、首都高神奈川狩場線とオサラバ、横浜・横須賀
道路(通称横横)で横須賀方面へ、別所で降りて、一般道で
孫宅へ到着する。
ふ~疲れた、1時間半~2時間弱のミニドライブであった。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/