春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

消え去るプリンスホテル

2006-07-02 18:03:00 | 世の中変わる

最後の輝きと名をうって横浜プリンスホテルが「50年アリガトウ」の文字をともすライトアップで、50年の歴史を6月末を持って閉じてしまった。
ホテルは投資会社が買収。建物を壊して大規模マンションを建てる。
その影響力は大きかったのであろう、朝日新聞の朝刊に写真入りで報じられていた。
横浜の一つの看板でもあるが、寂しく消えてしまうのだ。
一地方のホテルの閉幕にに何故、それほどに未練がましく取り上げるのか?
実は小職が川崎事業所の勤務時代に4年弱、憧れの横浜の地の外れであるが磯子の間坂に住んで居た。
プリンスホテルに繋がる急な傾斜地の一角に住まいがあり、その目の前の高台の一角が敷地面積900坪の美空ひばり御殿であった。
高台の立地から、大変眺めも良く、横浜港に接する眺望があった。当地では港に停泊する汽笛音を一斉に鳴らす音を聞きながら新年を迎える、港の情緒もたっぷりと残されていた。
その御殿の坂を上がるとプリンスホテルがあり、近くに此れと言った遊興地もないことより、夏になるとプリンスホテル専用のプールにホテルの利用客に混じってチョットリッチな気分に浸ったことなど僅かな記憶が残されている。
もともと海水浴場として、近くに海岸があったが埋め立てられ、石油会社や食用製油会社など工業化開発が進み、その海岸線は遥か彼方になってしまった。
一方、横浜周辺も港みらい開発で三菱ドックの跡地を含めた観光開発が進められ、鉄道路線も港町中心に益々賑やかになってきた。
"磯子"その中心街から取り残されたローカル、風光明媚な唄い文句だけではもはや集客能力に欠け、採算面から最早維持することは出来ない状態に陥ってしまったのであろう。
ついこの間、孫娘と広々としたホテルのガーデニングショップへ寄ったが、平日とは言えその閑散とした姿に何となく、寂しかったがまさか閉幕とは思えなかった。
この高台とその空間がまたまた、一大マンションに吸い込まれ、此処で暮らした記憶迄消されてしまうのかと思うと全く残念である。

惜別の思い、ソーラー解体

2005-11-23 23:57:00 | 世の中変わる

かれこれ20年以上世話になったソーラーも寄る歳にかなわず、遂に終幕を決断した。昨今の原油高騰のおり、無尽蔵な太陽エネルギーを甘受し、貴重なエネルギーとして主に風呂、シャワーに前日まで使っていた。
真夏は70℃まで温水が得られ、うめないと熱い位で、冬は追い焚き程度の僅かな燃料で済んでいた。
1日あるいは、年間、過去の使用累積などから、光熱費の節約は計り知れない位に貴重な役割を果たした。それを思うと、設備を下ろすのに断腸のおもいであった。
しかし太陽に20数年さらされた結果、タンクの外皮はボロボロにはげ落ち塗装塗りの補修も既に限界であった。
風呂一杯分の容量を持つ、タンクの重量は経年的に屋根を通じて、建物に相当のストレスを加えていたのは事実であった。
今話題の耐震設計なんて考えたくもないが、地震がきてタンクの下に押しつぶされ成仏なんて、洒落にもならない。
そんなこともあってとうとう下ろす事にしてしまった。
当時流行った省エネの騎手として、屋根に載せたタンク付きソーラーシステムの姿は余り、見られなくなり、その役割は終わったように見える。
所でこの大型の重量物の解体、撤去、産業廃棄物に関わる費用はそれなりに覚悟していたが、福沢諭吉先生が10数人、飛んでいってしまった。
こうして我が家の省エネシステムは綺麗になくなり、その役割は終わった。

忌まわしき思いで、教習所

2005-07-09 01:15:00 | 世の中変わる

通りすがり、ついつい見てしまった。此処で散々いじめられ、忘れもしない悪夢の特訓が行われ忍耐強く通ったことが、昨日のように思い出される。
その暗黒のフィールドコースは昔のまま殆ど変わっていなかった。
車に憧れ、運動神経も正常に反応する20~30代にチャレンジするのが、一般的であろうが、車取得に目覚めたのは、かなり年老いてからであった。
所謂30~40代は不器用な性格も災いして仕事一縷、加えて出張も多く、勤務の傍ら、教習所に通う気持ちの余裕もなかった。
会社の友人で、高齢で免許を取り、今まで無かった世界に取りつかれ、夢中にしてしまった話に引きずり込まれ、車取得の虫がムクムクと沸いてきて、遂に此処の門を叩いた。
とはいう物の、気は若くても、年のハンデは隠しようもなく、車を操るどころか、操られ気の荒い教官にはその反応の鈍さに、いたぶられ苦渋・苦悶の続く教習所通いであった。
まあ、それでも何とかステップを踏み、いよいよ仮免の場面では小心ものの、気の弱さから、本番一発勝負の弱さを露顕し、停止ラインを踏み越えたり、幅寄せにドジッタリ、やたら無駄な教習料を納め、教習所を徒に喜ばした一人であった。
路上に始めて出た時、構内ではひたすら国産車で慣れた運転感覚が、いきなりの「ベンツ」にすっかり戸惑い、坂道の多い所で、エンストを起こし、構外でも苦難の旅立ちであった。
そんな苦痛の教習所通いも、小金井試験所での受験となり、此処のバスの世話になり、同窓生と一緒に会場まで運んでくれた。晴れての合格の喜びは此処の監獄から出所出来る、精神的苦痛からの開放でもあった。
忌まわしき地獄の思いで、消え去ることもないが、その苦しみの反動か、新たな車世界の感動に酔い、走りまくった。

虚しく、変わる事業所の姿

2005-07-05 01:23:00 | 世の中変わる
4半世紀余りも会社人間として育ち、そして放り出された今日も染みついた垢は中々ぬぐいきれない。もう振り返っても、ご縁が無くなった今日、事業所の門を潜ることは殆どなくなった。
OB顔して、顔パスで守衛を通り抜けられたが、それも既に昔の話、セキュリテイ面から何時までも、そんなことが許せなくなってしまった。
汗で染みぬいた作業着,作業帽も捨てられることもなく、使い道もならず、そのまま残されている。
只、近隣のOBとして、事業所の催しの案内も来なくなったが、事業所で続けている市会議員からの挨拶が続いており、選挙の時は希少な有権者として、扱われているようである。
時と共に既に疎遠の状態であるが、しかし、長い痕跡は完全に断ち切れずその後の行く末は気になるものである。

◇佇まいの変貌振りに驚く
時々近くに通りすがり、目に入るその佇まいの変貌振りに驚かされる。
写真は事業所の西門であるが、門を通って構内の左側は事業所の敷地で工場の建屋があったが、売り払われ、16階建ての大型のマンションが建ってしまった。
その裏手にある住宅地から、日照権や美観の問題もあって、反対運動ののろしが上がり、行政を含め話題になったが、その抵抗も虚しく、計画を阻むことは出来なかった。
広い事業所の中、目に入るのは事業所の建物だけであったが、道を隔てて、すぐ隣は威圧的なマンションであり、ただでさえ狭くなった敷地に上から絶えず見下ろされ、閉塞感に覆われる窮屈な環境になってしまった。

◇やせ細る事業環境
会社の厚生施設として、存在した周辺のグランド、野球場やテニスコートは仕事から離れ、運動に集中し健康維持、ストレス発散の場でもあった。
春は運動会、夏の一時期は提灯で飾られ、仮設のステージから催しで賑わい、シートを敷いて、車座になり咽喉を潤おすことも定例行事の一つであった。
周辺の施設は手放し、まあこのご時勢、仕方ないのかなあと思っていたが、年を追うごとにどんどん蝕まれ、遂に本丸までせまり、敷地がやせ細り、大型のマンションに取り囲まれてしまった。
安い労働力を背景に物作りの中国へ転移と国内の空洞化など不況の嵐は容赦なく襲いかかってきたのだろう。
事業所は駅に近く、都心へ通勤の最適地で格好の宅地でもあり、住宅不動産としては引く手あまたであった。
一時の不況の渦に会った時、事業経営から縮小を余儀無くされ、退職金上乗せによる高年齢層の早期退職促進など行われた。そんな背景から資金繰りはもう、なりふり構わず土地売却しか選択の余地は無いのかもしれない。

そこで汗をかき、徹夜で作業した苦い青春の思い出の建屋も、そんなロマンチックな感傷に浸る余裕も、無いぐらいにきれいになくなってしまった。
「おい!!げんき出せよ」なんて言葉は不謹慎かもしれない

多摩平団地を節目を向かえた

2005-06-28 11:33:00 | 世の中変わる
◇多摩平の団地も終焉
森に包まれ、豊かな自然の中、戦後の有数な団地の一つとして、光を浴びたが40年以上の経過から、その佇まいも色を失い、歯が抜けたように、住む人も少なくなった。

とうとう歴史ある団地も周囲は高いフェンスが張りめぐらされ、いよいよスクラップ化され、戦後からの馴染みの姿が目の前から姿を消してしまうことになる。
年の経過と既に老い先の運命を決めていたのか、建物全体は黒くしみがわたり、無人化された建屋の庭先は雑草が生い茂り、かっては光り輝いていた建屋とは思えないぐらいに廃屋化された姿がとても無残であった。
建物の荒廃とは無関係に鬱蒼とした樹木は四季を彩り、静かな安らぎの場所として、武蔵野の面影を残す、貴重な場所であった。
フエンスの内側ではどのように生まれ変わるのか判らないが、この抜群の自然環境はせめて維持され、ビルドアップされた姿で再びお目にかかりたいものである。
当地で唯一誇れるもの、この鬱蒼とした自然の緑なのである。

◇ついに破壊の爪が入った

そんな折りも折り、写真に映り出した建物の崩壊シーンが現実の姿として重ね合って見えて来る。
しかし、こちらは長い風月の間、目一杯、役割を果たし、思い出を作り、お役目御免で惜しまれながら、姿を消していくのである。
拙宅に隣接する多摩平団地が戦後復興の嬰児として光を浴び誕生したが、約40年の歳月を経て、この度、幕引きの時期を迎えたのだ。
外装は変色し輝きを失い、所々黒いしみは長い風雪に耐えてきたことを物語るようであるが、建物としての耐用年度、居住空間として、最早時代感覚にそぐわないこともあって、どんどん居住者も減り、過疎化していった。

◇カナダの宣教師ストーン牧師の意志
この間、地域として誇れる樹林地など、抜群の自然環境を背景に居住者・行政・専門家が集まり、居住地の再生プログラムが進められ、徐々にその姿が現れてきた。
一方で多摩平の森はユートピアを作ろうとした、カナダの宣教師ストーン牧師の意志が込められたが、布教活動の最中、洞爺丸事故に巻き込まれてしまう。
作家三浦綾子氏の小説「氷点」の宣教師として登場している。
大きな構造物が目の前に変貌する姿とその縁の話について以下で追ってみた。
変わり行く多摩平の姿


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