凧は中国から伝来したもの。
日本では江戸時代から一般に普及したそうです。
蕪村の句も、案外、新しいものへの興味から生まれたのかも知れません。
現在でも浜松などでは、子供の誕生を祝って、凧を揚げます。
そこには子の幸せを願う親の思いがありますが、
空につながりたいという思いは、永遠なるものにつながりたいという
気持ちがあるように感じられます。
「昨日の空のありどころ」という表現は、なにをあらわしているのでしょうか?
昨日はどこへ行ってしまったのか?
過ぎ去った時間、どこにあるのか、見えない。しかし確かにあった昨日。
目の前に凧を浮かべた空が無限に広がっている。
昨日という時間を含んだ空が、きっとあるはずだ。
そんな思いが「昨日の空のありどころ」という表現となったのでは。
およそ100年前に、ヨーロッパの時間観念が、日本に入ってきました。
時間は一本の直線のようなもので、振り返れば、永劫の過去。
未来も見通すことは不可能です。
この時間の捉え方で読めば、この句は永遠に去ってしまったものへの哀惜。
しかし、つい最近まで、日本人は、時間を円環と考え、
永遠に循環するものと考えていたそうです。
そう考えると、どうでしょうか?
昨日の空は、まためぐってくる。今の空でもあり、未来の空でもある。
はかない命の人間が揚げている凧。
「きのふの空のありどころ」という表現は、確かに永遠につながっているのだ、
という気分を、表現するためのレトリックではないでしょうか?(遅足)
日本では江戸時代から一般に普及したそうです。
蕪村の句も、案外、新しいものへの興味から生まれたのかも知れません。
現在でも浜松などでは、子供の誕生を祝って、凧を揚げます。
そこには子の幸せを願う親の思いがありますが、
空につながりたいという思いは、永遠なるものにつながりたいという
気持ちがあるように感じられます。
「昨日の空のありどころ」という表現は、なにをあらわしているのでしょうか?
昨日はどこへ行ってしまったのか?
過ぎ去った時間、どこにあるのか、見えない。しかし確かにあった昨日。
目の前に凧を浮かべた空が無限に広がっている。
昨日という時間を含んだ空が、きっとあるはずだ。
そんな思いが「昨日の空のありどころ」という表現となったのでは。
およそ100年前に、ヨーロッパの時間観念が、日本に入ってきました。
時間は一本の直線のようなもので、振り返れば、永劫の過去。
未来も見通すことは不可能です。
この時間の捉え方で読めば、この句は永遠に去ってしまったものへの哀惜。
しかし、つい最近まで、日本人は、時間を円環と考え、
永遠に循環するものと考えていたそうです。
そう考えると、どうでしょうか?
昨日の空は、まためぐってくる。今の空でもあり、未来の空でもある。
はかない命の人間が揚げている凧。
「きのふの空のありどころ」という表現は、確かに永遠につながっているのだ、
という気分を、表現するためのレトリックではないでしょうか?(遅足)