「凛然たる青春」高柳克弘・著、読んでいたら
こんなことが書いてありました。
赤鱝(あかえい)は毛物のごとき眼もて見る 山口誓子
毛物のごとき、という表現は、
エイを魚として見る私達の常識を脅かす。
海底にふせているエイの目つきは、
草に隠れて獲物を狙う肉食獣の眼を思わせる。
誓子の句のインパクトはエイを見る眼を変えてしまう。
俳句の方法論として「よく見る」と言われるが、
私にとってこのコトバはわかりにくかった。
しかし、誓子の句は、よく見る、とは
ものを見るにあたって常套的なワクグミを放棄することだ
と教えてくれた。
荻原先生が「コトバをずらす」と言われるのも
多分、同じことを言っているのでしょうか?
こんなことが書いてありました。
赤鱝(あかえい)は毛物のごとき眼もて見る 山口誓子
毛物のごとき、という表現は、
エイを魚として見る私達の常識を脅かす。
海底にふせているエイの目つきは、
草に隠れて獲物を狙う肉食獣の眼を思わせる。
誓子の句のインパクトはエイを見る眼を変えてしまう。
俳句の方法論として「よく見る」と言われるが、
私にとってこのコトバはわかりにくかった。
しかし、誓子の句は、よく見る、とは
ものを見るにあたって常套的なワクグミを放棄することだ
と教えてくれた。
荻原先生が「コトバをずらす」と言われるのも
多分、同じことを言っているのでしょうか?