575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ロマンチック海道~北つ海 (きたつうみ) ①  竹中敬一

2017年02月03日 | Weblog
私が生まれた所は、福井県小浜市の日本海に面した内外海 (うちとみ)半島の寒村。
少年時代には(昭和10年代)陸の孤島と云はれていました。
最近、郷里の歴史を調べる機会があり、認識を新たにする事が多くありました。

まず、陸の孤島とか裏日本と云われるようになったのは、明治時代以後。
全国に鉄道が敷かれてからのことで、それ以前、日本海は古代より「北つ海」と呼ばれ、
沿岸の各地は中国大陸や朝鮮半島との交易で栄えていたということです。

「北つ海」ルートのことを強調されたのは、日本古代史研究の第一人者である
上田正昭氏です。(昨年3月、88歳で死去されました)
上田氏は東アジアという広い視点から渡来人の研究などで知られています。
その著作をもとに、「北つ海」について調べてみました。

「日本書紀」には、朝鮮半島南部の意富加羅 (おおから)国の王子とする
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が 「北海より廻りて、出雲国を経て」、
敦賀にいたると出ています。

上田氏は新羅、百済、高句麗の使節は、北九州・瀬戸内海のルートばかりではなく、
「 北つ海 」ルートをたどったケースも多かったと云つておられます。

また、高句麗の遺民とも云われる民族が支配した渤海 (698ー926)からの使節は
記録されているだけで、35回の中、28回が「北つ海」ルートをとっています。
出羽、出雲、能登、若狭などです。

平安初期、朝鮮半島からの使節らを受け入れる為、現在の松原公園(敦賀市)には
松原客館が置かれ、気比神社の神官が出向いて、対応していたようです。

以上は文献を基にした史実ですが、渡来人がどこの海岸に上陸して、
どの道を通って京に行ったのか、までは、推測するしかありません。
私は内外海半島に関してだけは、幸い土地カンがありますので、これからは
私の勝手な推測によって、話を進めます。

内外海半島は若狭湾のほぼ中央に位置していますが、その先端に泊 (とまり)
という集落があります。戸数わずか23戸の小さな集落です。
久須夜岳 (くすやだけ) の麓にあるこの村が古代には渡来人と深い関わりがあったと、
私は考えています。

以前、小浜港から漁船に乗せてもらって、若狭湾沖へ出たことがありますが、
その時、漁師さんたちが陸地の目安にしていたのが久須夜岳 (619メートル) でした。
灯台のような役目をしていたのを思い出します。その麓に見えてくるのが泊の村です。

江戸時代、小浜藩の儒者が書いた「若狭国志」には、「久須夜岳の北麓、蘇洞門
(そとも)の泊の浦寄りに高く険しい小島があるが、古くからの言い伝えとして、
この小島に蕃船 (異国船) を繋ぎ留めた為、唐船島 (とうせんじま)という。」と
出ています。「異国のことをすべて唐と呼んでいた。」とも書いてあります。

この小島に船を繋ぎ上陸した渡来人はどのようなルートで都へいったのか?
次回は、これについてお話したいと思います。

写真は、内外海 (うちとみ) 半島のシンボル。灯台の役割を果たした久須夜岳 (くすやだけ)です。

             

幕末にペリーが太平洋をこえたやってきたのは、日本史上最大の転換点だったかも知れませんね。
現在も、その影響下にありますが、トランプさんの出現によって少し様相が変わってきそうです。

                                    (遅足)



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