575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ロマンチック海道~「北つ海」(きたつうみ)②  竹中敬一

2017年02月10日 | Weblog
今回は渡来人が若狭から都へ行った陸路について推理したいと思います。

若狭湾に面した久須夜岳の麓、泊(とまり) の唐船島。ここに船を繋留させた
渡来人は多分、泊の漁民の案内で陸路または海路を小舟に乗り換えて、若狭の
中心地だった遠敷 (おにゅう)の里へ入ったと思います。
そして若狭街道を京へ赴いたと考えます。

遠敷には、若狭一ノ宮である若狭彦姫神社が鎮座しています。
泊の古老の話では、昔は、陸路なら峠を四つも超えて、遠敷の入口に当たる
小浜湊まで3時間位かかるのに比べ、海路を櫓と櫂を使って小舟で進めば、
1時間ほどで行けると云います。天候に恵まれれば海路をとったはずです。

京へ向かうには、遠敷川(おにゅうがわ)に沿って歩き、下根来(しもねごり)に
入ります。ここには、いつも緑をたたえた淵、「鵜の瀬」があり、
奈良・東大寺二月堂の若狭井の水源と伝えられています。
毎年3月2日には二月堂へのお水送りの神事が行われています。

「鵜の瀬」にある白石神社境内には山口誓子の句碑が建っています。

瀬に沁みて奈良までとどく蝉のこゑ

近くに東大寺の建立に尽力した「良弁(りょうべん)誕生の地」の碑も。
世界百科事典には、「良弁は百済系渡来人の後裔。近江あるいは相模出身とも
伝える」と出ています。
私は、地元に古くから伝わる逸話の方を信じたいと思います。即ち、「良弁は
下根来の生まれ、2歳の時に鷲にさらわれて、奈良春日大社の杉(良弁杉)の枝下に
置かれ、金鐘寺で義淵僧正に養育された」と云うものです。

下根来 (しもねごり) から、遠敷川をさかのぼと上根来 (かみねごり)となり、
ここより針畑峠 (はりはたとうげ)を越えれば、近江の国・朽木(滋賀県高島市)
に出ます。

若狭街道には色々なルートがありましたが、この針畑峠越えが京へ通じる
一番の近道で、渡来人もこの道を利用したものと思われます。
江戸期の「若狭郡県志」に「屈曲艱難(くっきょくかんなん)の坂道なり」と
あるように、針畑峠越えは大変だったようです。

渡来人は険しい山越えを控え、根来(ねごり)の辺りで旅の疲れを癒すため、
長逗留したのではないでしょうか。居ついてしまった渡来人もあったかもしれません。
良弁も渡来人か、あるいは、渡来人と地元の女性との間にできた混血児だった
とも考えられます。

若狭側は土地が狭く、雨や雪も多いところですが、針畑峠を越えて、
琵琶湖のある近江の国へ入れば、広々とした平野に出られます。
現在の高島市周辺には「たたら跡」つまり、製鉄遺跡があることから、
鉄を求めて、渡来人が集まって来たという説もあります。

昨年10月18日の中日新聞には「彦根市の稲部(いなべ) 遺跡から邪馬台国
時代の大型建物跡が見つかった。その中には、国内最大級の鍛治工房も」と
出ていました。

写真は毎年3月2日、東大寺二月堂へのお水送りの神事が行われる「鵜の瀬」です。


京に上った渡来人は目的を果たした後に、同じ道を通って若狭へ、さらに
故国へと帰っていきました。なかには故国へ帰らず、琶湖周辺に住み着いた
渡来人もあったとも考えられます。
そういう意味で、滋賀県はとても面白い県だと、京都大学で歴史を学んだ先輩から
聞いたことがあるのを思い出しました。(遅足)
コメント
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