575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

杉本美術館で思い出した事 ⑸ ~晩年の岸田劉生~竹中敬一

2017年12月02日 | Weblog
画家、岸田劉生は39歳という若さで亡くなっています。
一方、杉本健吉は98歳まで好きな絵を描き続けました。
岸田劉生のいう「寫實以上の深い美」を求めて、杉本画伯の作風にはどこか、
おおらかさやユーモアが見られますが、晩年に近い頃、描いた大作
「両界曼陀羅」(291・3x180・0cm)を見ていると細密なタッチで人間技とは
思えないような深い宗教心のようものを感じます。

岸田劉生もまた、短い生涯ながら 、「内なる美」への求道者であったことは
杉本画伯と同じです。
岸田劉生は二年余り、京都に住んだ後、鎌倉に移り住みます。この京都時代に
劉生は茶屋遊びと酒に溺れ、生活が乱れます。一日も欠かさず書いていた日記も
杉本健吉と出会った大正14年の途中から、亡くなる一年前の昭和3年まで、
途切れ途切れに記したものの、晩年の劉生の心情を汲み取るような記述は
見当たりません。
京都時代から鎌倉時代にかけて、彦根屏風など初期肉筆浮世絵や、中国・宋元の
写生画の影響を受けた東洋的な作風のものが多く見られます。
西洋と東洋の融合という難しい課題を模索しながらも、「舞妓像」、「冬瓜図」
など完成度の高い作品が生まれています。

話は逸れますが、私が子供の頃、父の書斎には劉生の油絵 「冬瓜図」の複製
(カラー)が飾られていました。「在るという事の不思議さ」という劉生の言葉に
しきりに、感心していたのを憶えています。
若山牧水門下の歌人だった父は、この白い粉をふいた「冬瓜図」に触発されて
詠んだ歌がかなりあります。例えば、

  若き日に見し劉生の冬瓜図 忘られかねつ冬瓜みれば

  空間を確かに占めて皿の上に 大き冬瓜しづまりかえる

「劉生絵日記」を細かく追っていくと、雑誌「白樺」を通じて、関西や名古屋
ばかりでなく、地方にも多くの劉生ファンがいたことがわかります。

京都時代、「洋画の材料はきたない」と云っていた劉生が鎌倉に引っ越してから、
親友の小説家、武者小路実篤に「矢張り油画をかいている時が、一番落ちつく」
(角川写真文庫 1955) と打ち明けています。

私はかって、早大の卒論で、劉生が亡くなる少し前に描いた徳山の風景画に注目して、
その穏やかな作風に劉生の新境地がある。と、結びましたが、今もその考えは
変わっていません。

写真は岸田劉生著「劉生畫集 及藝術観」(聚英閣 大正9年)と麗子像


コメント
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