小林一茶。本名は小林弥太郎。長野県の柏原より
江戸へ出て「一茶調」といわれる独自の排風を確
立。松尾芭蕉や与謝蕪村と並ぶ俳聖となりました。
富裕な農家であった小林家。長男の一茶が江戸に
出る理由となったのが継母との不仲です。一茶の
父である弥五郎にとって、15歳の一茶を江戸奉公
に出すことは苦渋の選択だったと思われます。
やがて、一茶は芭蕉の友人、山口素堂の句会に所
属することになります、芭蕉と比べ通俗的とはい
え江戸の俳壇においては名門。これにより一茶は
俳諧で生活することに決め、万葉集、古今和歌集、
といった古典文学を独学で会得していったといわ
れています。
「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」<素堂>
30歳になった一茶。西国に俳諧修行の旅に出ます。
作句の卓越した実力と誠実な人柄で俳句修行の旅
を続け、四国から九州への旅を「たびしうゐ」と
いう紀行文として出版。これを機に花鳥風月を詠
まない一茶らしい句を確立していきます。
私生活での一茶は恵まれていません。妻の急逝や
子どもたちの夭折が続きます。「おらが春」は愛
児「さと」の生と死を主題とした俳文。さとが遊
んでいた赤い風車を詠んだ句。
「せみなくや つくづく 赤い風車」<一茶>
生前の一茶の俳句は社会的評価を得ることがあり
ませんでした。その一茶に注目したのが正岡子規
です。子規は「俳人一茶」という著作の中で一茶
の軽妙な作風を絶賛。これが世界的に一茶の俳句
が翻訳され紹介される緒となったといわれていま
す。
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」<一茶>
54歳の時に得た初児「千太郎」への命乞いの句で
す。過酷な生活でも飄々とした句を詠む一茶。子
規が絶賛した一茶の魅力の真意と推察します。
文と写真 <殿>