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ご自分の半生を語る三岸節子さん ( 平成元年 当時84歳 )
ドキュメンタリー 「赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌道 〜 」より
平成元年に制作したドキュメンタリー 「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 〜 」
から、彼女が語った波瀾万丈の半生を出来るだけ忠実に私が当時、書いた
台本の中から数例、抽出してお伝えしています 。
〇 「 貧しいことに感動した 」 節子は同じ画家の三岸好太郎と結婚 。まもなく、
3人の子供に恵まれます 。しかし、好太郎の自由奔放、破滅的な性格、特に
女性問題でのトラブルが多く、節子を苦しめていました 。
昭和9年、好太郎は旅行先の名古屋で胃潰瘍が悪化して急死 。結婚生活 僅か
10年、節子はこの時、29歳でした 。
「 “ 好太郎 死ス “ という電報を見た時、あゝ、これで私は生きられると
思いました 。悲しいとか、辛いとかの前に、私が生きて行かれるという…
好太郎が死ななければ、私が自殺していたかもしれません 。
それほど、行き詰まっていました 。」
〇 昭和初期、女性が画家として独り立ちするのは大変な時代でした 。
しかし、節子は3人の幼い子供をかかえながらも画家になることを決意 。
次々に意欲作を発表 していきます 。
終戦直後の昭和21年、焼け残った銀座の日動画廊で戦後初めての個展を
開いたり、女流画家協会の設立にも参加します 。
生活も安定してきて、昭和43年に渡仏 。長男夫婦とブルゴーニュ地方の
ヴェロン村で生活、制作するようになります 。
「フランスに来てからも、私は花の作品を描き続けております 。
大東亜戦争の間も、私は花ばかり描いておりました 。
神様がお創りになった造花の妙の中で、こんな傑作がまたとありましょうか 。
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仏ヴェロン村のアトリエで ( 平成元年 )
ドキュメンタリー「 赤い魂 〜 画家 三岸節子の軌跡 〜」より
〇 花よりも 花らしく
私の描きたいと願う花は、私自身の見た、感じた、表現した私の分身の花です 。
この花に永遠を封じ込めたいのです。」 つづく