575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「酒場の女流俳人」

2021年01月10日 | Weblog



岡崎えん<おかざきえん>1893年東京の生まれ。父は
明治の元勲で伯爵の大木喬任。母は三十間堀川の河岸
にあった船宿の芸妓 岡崎かめ。三十間堀川は、いまの
中央通りと昭和通りの間に開削された堀で、舟運の荷
揚場として商船や屋形船などで賑わったといわれてい
ます。三ツ橋は川幅が三十間<55m>もあり3つの橋が
江戸名所図会に描かれています。しかし、戦後、焼失
した銀座の瓦礫で埋め立てられしまいました。銀座の
泰明小学校を卒業した友人の父の記憶では、昭和27年
頃、堀跡があったとの由。ちなみに、添付の江戸名所
図会は長谷川雪旦の筆とされています。弾正橋、牛の
草橋、真福寺という3つの橋。松尾芭蕉は風羅袖日記
で三ツ橋を詠んでいます。江戸時代の八丁堀には石屋
が多かったようです。

「菊の花 咲くや石屋の 石の間」<芭蕉>

話を戻します。えんは母の船宿で働き雙葉学園に入学。
やがて、同人誌「文明」への投稿を始めます。関東大
震災後に西銀座で「おかざき」という和風酒場を始め
ます。永井荷風、泉鏡花、井伏鱒二といった文人たち
が集まり荷風の「断腸亭日記」に登場する「お艶」は
えんがモデルといわれています。昭和初期には久保万
太郎が主宰する「春泥」に俳句を次々と掲載。酒場の
女流俳人として文壇や俳壇で知られるようになります。

「手さぐりに 降りる梯子の 寒さかな」<えん>

戦後、えんは焼け出されます。しかし、頼るべき身内
もなく、新橋や富士見町の芸妓屋で働きますが、カト
リックの名門校 雙葉学園を出た才女。長続きはしなか
ったようです。やがて、文人たちの好意で麹町の知人
宅で家政婦として働きますが、喀血したことで小岩の
病院で療養生活を余儀なくされます。その後、生活保
護を受け老人ホーム「長安寮」に入居。ある時、同室
の友人が菓子を食べたいと言うのを聞いたえんは、自
らの帯を売るため質店に出かけ、京成線の無人踏切で
電車にはねられ亡くなります。

「頬すべる 剃刀かろき 余寒かな」<えん>

この新聞記事を見た古谷信子は、著名な文人たちと繋
がりのある俳人として「岡崎えん女の一生」を出版し
ています。講談社文芸刊。

えんは荷風を物品で援助していた記録があります。岡
崎えん。享年70歳。世話好きな優しい女性だった感。

「さびしさを 支ふる蚊帳を 釣りにけり」<えん>


句会諸氏のみなさまへ。「寒中お見舞い申し上げます」
寒い日々が続きます。十分にご自愛ください。


構成と文<殿>
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